77. 二度目のプロポーズ
その日の夕方、エドガーは珍しく早い時間に眠ってしまった。昼間に第二近衛の者たちと遊び回っていたらしく、部屋へ戻ってきた時にはまだ元気に今日の出来事を話していたのに、しばらくすると急に言葉数が減り、そのまま寝台へ横になってしまった。アリシアは掛布を整え、頬にかかった髪をそっと払ってから部屋を出る。夕食まではまだ少し時間があり、窓の外では日がゆっくりと傾いていた。王宮の白い石壁は淡い橙色に染まり、中庭の木々は石畳へ長い影を伸ばしている。
少しだけ風に当たろうと思い、そのまま庭へ向かった。特に行き先を決めていたわけではない。長い廊下を抜け、外へ続く扉の近くまで来たところで、いつの間にかローゼンが隣に並んでいることに気づいた。
「ついてくるの?」
「駄目か?」
「別に。いいわよ、それくらい」
アリシアはそれだけ返して歩き続けた。ローゼンも何も言わず、その隣を歩く。二人が向かったのは、昔から何度も通った庭だった。低い生垣に沿って石畳の小道が続き、その向こうでは季節の花が夕風に揺れている。昼間の熱気はまだ僅かに残っていたが、風はすでに涼しく、葉が擦れるたびに柔らかな音が響いた。庭の奥では噴水の水音が絶えず続き、王宮の中から聞こえていた人の声も、進むにつれて少しずつ遠ざかっていく。
最初に話し始めたのはアリシアだった。エドガーが最近覚えたことや、また第二近衛の者に肩車を頼んでいたこと、庭の花が以前より増えたように見えること。そこから薬草園の話へ移り、今の場所では日当たりが足りないものがあるから、もう少し南側へ広げたいのだと話す。ローゼンが庭師に伝えておくと答えると、アリシアはすぐに勝手に全部決めないでと釘を刺した。
「場所は私も見るわよ。任せたら、また必要以上に広くするでしょう」
「必要なら広い方がいいだろう」
「限度ってものがあるのよ。貴方、そういうところ極端なの」
軽く睨むと、ローゼンは僅かに笑った。それ以上は言わない。アリシアも本気で怒る気はなく、そのまま歩き続けた。少しすると会話が途切れたが、今ではそれも気まずくなかった。石畳を踏む足音と噴水の音だけが続き、時折吹く風が髪や衣服を揺らす。以前なら、こうして二人だけで黙っていることを妙に意識していた時期もあったのに、今は何も話さなくても自然に同じ歩幅で歩いていられた。
しばらくして、またアリシアが話し始める。
「そういえば、今日また書類増やしてたでしょう」
「見ていたのかい?」
「見れば分かるわよ。昨日より山が高くなってたもの」
「もう体調は戻っているから心配しなくていい」
「だからって増やしていい理由にはならないでしょう」
返事を待ったが、ローゼンはすぐには何も言わなかった。
アリシアは横目で見る。
「……何よ」
「いや」
「何が、『いや』なのよ」
「何でもない」
どうにも歯切れが悪い。
その後も同じだった。何か話せば返事はするが、いつもより少し遅い。何度かこちらを見ては視線を逸らし、口を開きかけてはやめる。最初は単に疲れているのかと思ったが、それにしては様子が変だった。
アリシアは気づいていたが、あえて聞かなかった。
言いたいことがあるなら、そのうち自分から言うだろうと思ったし、何より、あまりに分かりやすく迷っている様子が少しおかしかった。昔からローゼンは、真面目なことを言おうとする時ほど変にに慎重になる。普段なら迷わず決めるようなことでも、自分に関わることになると急に考えすぎるところがあったのだ。
二人は庭の奥まで進んだ。空の橙色は少しずつ薄れ、その上から紫が広がり始めている。庭の灯りも一つ、また一つと灯され、石畳の端や生垣を淡く照らしていた。風も少し冷たくなり、アリシアは肩へかかった髪を後ろへ払う。
それでもローゼンは何も言わない。
さすがに我慢できなくなった。
「さっきから何なのよ」
アリシアが足を止めると、ローゼンも少し遅れて立ち止まった。
「何か言いたいことがあるんでしょう」
問いかけても、すぐには返事がない。
アリシアは呆れたように眉を寄せる。
「何度も言いかけてたじゃない。あれだけ分かりやすくしておいて、今さら何でもないは通らないわよ」
「……そんなに分かりやすかったか」
「ええ。ものすごく。何年間も一緒だったと思っているのよ」
ローゼンは少し困ったように息を吐いた。
そのまま、しばらく二人は向かい合っていた。
噴水の音が遠くで続いている。風が吹き、アリシアの髪が頬へかかる。空はもう半分ほど夜の色へ変わり、庭の灯りが少しずつ存在感を増していた。
ローゼンは一度だけ視線を落としたあと、ゆっくりと顔を上げる。
「アリシア」
名前を呼ばれただけなのに、胸の奥が少しだけ強く鳴った。
ローゼンはしばらくアリシアを見つめたあと、余計な言葉を重ねることなく、静かに告げた。
「もう一度、私の妻になってほしい」
◇
いつか、こういう話をする時が来ることくらい分かっていた。今の二人の距離を考えれば、むしろ不思議ではない。それでも、実際にその言葉を聞くと、胸の中へ落ちてくる重さは想像していたよりずっと大きかった。
ローゼンは何も言い足さなかった。
ただ、しばらく視線を落としたまま、その言葉を胸の中でゆっくり受け止める。噴水の音と、葉の擦れる音だけが静かに続いていた。少し前まで話していたエドガーのことも、薬草園のことも、仕事のことも、今はずっと遠くに感じる。
やがてアリシアは小さく息を吐いた。
それから顔を上げる。
「私もよ。大好き」
言い終わると同時に、アリシアの方からローゼンへ飛び込んだ。
完全に不意を突かれたローゼンは一歩だけ後ろへよろめいたが、すぐに身体を支え、アリシアを抱きとめる。最初は驚いたまま腕に力を込められずにいたものの、アリシアが胸元へ顔を埋めたまま離れようとしないことを確かめると、ようやくその背へしっかりと腕を回した。
アリシアは顔を上げなかった。
言う前より、言ってしまったあとの方がずっと恥ずかしい。
ローゼンの胸元へ頬を寄せたまま、衣服を掴んでいた指へ少しだけ力を込める。近くで聞こえる鼓動はいつもより速く、それが自分のものなのか彼のものなのか分からなくなりそうだった。
ローゼンもそれ以上何も言わず、抱き締める腕を僅かに強めた。
二人はそのまま、しばらく動かなかった。
夕暮れは完全に夜へ変わり、庭の灯りが二人の周囲を淡く照らしていた。噴水から落ちる水が光を受けて揺れ、風が花の香りを運んでくる。少し冷たくなった夜風の中でも、抱き合っているところだけは暖かかった。
何かを話さなければならない気はしなかった。
今はただ、こうしているだけで十分だった。
少しして、アリシアがようやく顔を上げる。
ローゼンはまだ嬉しさを隠しきれていない顔をしていた。普段の落ち着いた表情とは違い、どこか少年のように見えるほど素直な顔だった。
「私、実はずっと待っていたんだから」
そう言った途端、アリシアの目元がわずかに潤んだ。笑っているつもりなのに、込み上げてきたものまでは隠せなかったらしい。ローゼンは一瞬だけ目を見開いたあと、何も言わずに手を伸ばし、頬を伝いかけた涙を親指でそっと拭った。
「すまなかった。本当に遅くなってしまった」
アリシアは目元を拭われたまま彼を見上げ、少しだけ唇を尖らせる。
「遅すぎよ。馬鹿っ……」
最後の方は少しだけ震えた声になった。それでもローゼンは何も言い返さず、ただ困ったように、けれど嬉しそうに笑っていた。そんな顔を見ていると、アリシアもいつまでも泣いているのが馬鹿らしくなり、涙の残る目元のまま小さく笑ったのだった。




