72. 酒器に残った粉
先王が晩年に使っていた酒器は、あれから誰にも触れさせず、他の遺品とは分けて保管されていた。アリシアは必要な道具を揃えると、ローゼンとともに改めてそれを確認することにした。今回は最初から内部全体を見るのではなく、装飾の細かな溝や縁の裏側など、洗浄しても何かが残りやすそうな部分だけに絞って調べていく。古い品だけに埃も付着しており、見ただけでは何が残っているのか判別できない。それでもアリシアは焦らず、酒器そのものを傷つけないよう慎重に作業を進めた。
しばらくして、細かな装飾の溝からごく僅かな粉状のものが採れた。量は本当に少なく、乾燥して色もくすんでいるため、そのまま見ても正体は分からない。葡萄酒の澱が乾いたものかもしれないし、長い年月の間に入り込んだ埃である可能性もある。アリシア自身も、見つけた時点で毒だと決めつけるようなことはせず、採取したものを小さな器へ分けていった。
ローゼンはすぐ隣で、その様子を黙って見守っていた。アリシアがかなり真剣な顔をしているため、余計な声を掛けることもしない。ただ、少し前までなら互いにどこまで近づいていいのか探るような空気があったのに、今ではアリシアの方から自然に隣へ寄り、同じ机を覗き込んでいる。肩が触れそうなほどの距離でも本人はまったく気にしておらず、ローゼンも以前ほど戸惑わなくなっていた。
アリシアは採取した粉の一部を、透明な水を入れた小さな器へ落とした。最初はほとんど変化がなく、細かな粒が水面近くに浮いているだけだったが、しばらく待っていると少しずつ溶け始めた。
透明だった水の中に、薄い色が滲んでいく。
アリシアの手が止まった。
ほんの僅かだった色は、時間が経つにつれて少しずつはっきりしていく。完全に溶け切る頃には、見間違えるには難しいほどの色が水へ広がっていた。
ローゼンも何も言わず、その器を見つめた。透明だったはずの水は、以前の事件で目にしたものを嫌でも思い出させる紫色へ変わっている。
それでもアリシアは、すぐに同じ毒だとは断定しなかった。色が似ているというだけでは足りないし、採取できた量もあまりに少ない。残った粉をさらに分け、これまで自分が調べてきた紫色の毒と比べながら、性質がどこまで似ているのかを慎重に確かめていく。細かな方法についてローゼンが口を挟むことはなく、アリシアも余計な説明をせず、目の前の変化だけを一つずつ見ていった。
いくつか確かめるうちに、アリシアの表情が少しずつ険しくなっていく。
「……同じなのか?」
ようやくローゼンが尋ねると、アリシアはすぐには頷かなかった。もう一度だけ手元を確かめてから、慎重に口を開く。
「少なくとも、かなり近いわ。これだけの量じゃ完全に同じものだとは言い切れないけど、ただの埃や葡萄酒の澱ではないと思う」
その答えだけで十分だった。
しかも、その酒器がどこで使われていたものなのかを記録と照らし合わせると、さらに無視できない事実が浮かび上がった。
その酒器は宴席や通常の食事で使われていたものではなかった。先王とオリーファが二人で過ごすために使っていた私室に置かれていたものであり、使用中は侍従や侍女でさえ基本的に立ち入らない場所だった。先王が人払いをしたうえでオリーファと過ごすために使っていたため、そこに置かれた酒器が外へ持ち出されることもほとんどない。さらに残されている記録を確認すれば、その私室へ葡萄酒を持ち込んでいた人物として、オリーファの名が何度も記されていた。
ローゼンは記録へ視線を落としたまま、かつての父を思い出していた。晩年の先王は、以前とは比べものにならないほど疑り深くなっていた。レインフォート家に対しても、確かな証拠がないまま反逆を疑い、最後にはアリシア本人まで処刑すると言い出した。正妃を亡くした悲しみや長い病によって人が変わってしまったのだと思っていたが、もしあの頃すでに何らかの毒を繰り返し摂取していたのだとすれば、身体だけではなく判断力にも影響が出ていた可能性まで考えなければならなくなる。
それを考えた瞬間、ローゼンの表情が僅かに強張った。
アリシアはそれに気づき、何も言わず少しだけ近くへ寄った。
「もしこれを少しずつ何度も飲まされてたなら、症状が病気みたいに見えてもおかしくないわ。体調が良くなったり悪くなったりしてたのも、飲んだ量や間隔で変わってた可能性はあると思う」
「前にも話したとは思うが父の記録には、急に悪化したあと少し持ち直す時期が何度もあったんだ」
「だったら、なおさらね」
アリシアはそう言いながら、当時の記録をもう一度手元へ引き寄せた。先王の体調が大きく崩れた日の前後には、葡萄酒を口にした記録が複数残っている。そのすべてでオリーファが関わっているわけではないが、二人きりの私室で飲んでいたものについては、ほとんどが彼女によって持ち込まれていた。
ローゼンも同じ記録へ目を落とした。
「……偶然で片づけるには、出来すぎているな」
「ええ」
アリシアも否定しなかった。
もちろん、酒器に残った毒だけで、いつ、どれほどの量が入れられたのかまでは分からない。それでも、その酒器へ毒が付着した経緯を考えれば、候補は極端に少ない。先王とオリーファしか使わなかった部屋にあり、先王が飲む葡萄酒を持ち込んでいたのも彼女だった。
ローゼンは記録をめくり、先王が亡くなる直前の数日間を改めて確認した。その中には、オリーファが私室へ葡萄酒を持って入った翌朝、先王の容体が急激に悪化したという記録も残っている。その後、先王は一度も十分に回復することなく、そのまま亡くなった。
アリシアはそれを読み終えると、紫色に変わった水へ視線を戻した。
父の死が単なる病死ではなかった可能性は、もう無視できないところまで来ている。そして、誰が毒を入れたのかという問いに対しても、答えはほとんど一人へ絞られていた。
ローゼンはゆっくりと息を吐き、酒器のそばに置かれた記録へ視線を落とした。そこには、先王の私室へ葡萄酒を持ち込んだ人物として、何度も同じ名前が記されている。
アリシアは紫色に染まった水を見つめたまま、静かに告げた。
「……先王に毒を入れていたのは、オリーファだったのね」




