7. ローゼンの後悔と葛藤
19時の予約投稿を忘れてました。申し訳ないです。
「じ、じ、自分の子どもだって……!?」
ローゼンは目を大きく見開き、その場で言葉を失った。先ほどまで国王として村人たちの前に立っていた人物とは思えないほど、その顔からは余裕が消えている。アリシアとエドガーを何度も見比べては、信じられないものを目の当たりにしたように息を呑んでいた。
本来なら、それは何よりも喜ぶべき事実だったはずだ。四年間、生きているかさえ分からなかった最愛の人が目の前にいる。その隣には、自分の血を引く息子まで立っている。二人とも生きており、こうして同じ場所で顔を合わせることができたのだ。その事実だけで、涙を流して喜んでもおかしくはなかった。
しかし、ローゼンの胸を満たしたのは喜びだけではなかった。激しい動揺と、押し潰されそうなほどの後悔が一気に押し寄せてきたのである。
「そんな……まさか……!」
力なく呟き、額へ手を当てる。もう一度エドガーへ目を向けると、先ほどまでは気付かなかったものまで目に入った。壁には小さな外套が掛けられ、玄関には子ども用の靴が揃えられている。机の端には木彫りの馬が置かれ、暖炉のそばには開きかけの絵本が残されていた。柱には幾つもの線が引かれ、その横には幼い子どもの成長を記すように、日付が書き添えられている。
一番下の線は随分と低かった。その上には少しずつ間隔を空けながら、新しい線が増えている。アリシアはこの家で、エドガーの成長を一つずつ見守ってきたのだろう。
妊娠したことも知らなかった。出産の日も知らなかった。子どもが生まれたことさえ知らず、初めて笑った日も、立ち上がった日も、言葉を覚えた日も、何一つ見ることができなかった。熱を出した夜も、転んで泣いた日も、好きな食べ物を見つけた瞬間も、自分はその場にいなかった。父親でありながら、四年間という歳月を丸ごと失ってしまったのである。
「私は……」
思わず頭を抱えた。呼吸の仕方さえ分からなくなるほど、自分がしてしまったことの重さが押し寄せてくる。目の前にいるアリシアは、もう王宮で無邪気に笑っていた頃の彼女ではない。辺境の小さな村で、一人の子どもを産み、育ててきた母親だった。柔らかかった手には薬草を扱った跡が残り、質素な服の袖口には何度も縫い直した跡まである。
その四年間を、自分は何一つ知らなかった。
一方で、アリシアはそんなローゼンを困惑したように見つめていた。
なぜ、今さらそこまで苦しそうな顔をするのだろう。あの日、自分を突き放したのはローゼンだった。泣きながら理由を尋ねても何一つ答えず、離縁を告げたのも彼である。アリシアが何度名前を呼んでも、ローゼンは最後まで振り返らなかった。
アリシアは一人で生きるしかなかったのだ。王宮を離れたあとに妊娠へ気付き、誰にも頼れないまま出産を決めた。不安で眠れない夜も、エドガーが高熱を出して泣きそうになった日も、隣にローゼンはいなかった。村の人々には何度も助けてもらったが、本当はそばにいてほしかった相手は、最初から一人しかいなかった。
アリシアはエドガーを自分のそばへ引き寄せると、一歩だけ後ろへ下がった。そのわずかな距離が、二人の間に流れた四年間を表しているようだった。
「何よ、そんな顔をして」
ローゼンはゆっくりと顔を上げた。
「アリシア……」
「まさか、子どもがいたことまで私の勝手だと言いたいわけ?私を捨てておいて、よくそんな顔ができるわね」
ローゼンは勢いよく顔を上げた。その声の大きさに、エドガーがびくりと肩を震わせる。ローゼンもすぐに気付き、慌てて声を落とした。
「私は……まさか……あの時の……!」
必死に言葉を繋ごうとする。しかし、焦れば焦るほど言葉はまとまらない。「違う」「そうじゃない」と繰り返すばかりで、肝心なことは何一つ説明しようとしなかった。その様子は、アリシアから見れば苦しい言い訳を探しているようにしか映らなかった。
アリシアは呆れたように息を吐いた。
「あの朝もそうだったわね。苦しそうな顔だけして、本当に大事なことは何も話してくれないじゃない。私は四年前も待ったのよ。何か理由があるんだって。でも、結局あなたは連絡すら寄越さず、何も教えてくれなかった。今さら『違う』だけ言われても、信じられるわけがないでしょう」
ローゼンは拳を強く握り締めた。反論できなかった。アリシアの言葉は、一つとして間違っていなかったからだ。
重苦しい沈黙が流れる。二人の間に挟まれたエドガーだけが、何の話をしているのか分からない様子で交互に顔を見上げている。やがて退屈したらしく、アリシアの袖を小さな手で引いた。
「ママー、おなかすいたー。ご飯たべよーよ」
あまりにも日常的な言葉に、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。アリシアはしゃがみ込み、エドガーの口元に残っていた焼き菓子の欠片を拭ってやる。
「さっきお菓子を食べたでしょう?」
「お菓子とご飯はべつだよ」
呆れながらも、アリシアの声は優しかった。エドガーは怒られているとは思っていないらしく、にこにこと笑いながら母親の腕へ抱きついている。
ローゼンは、その光景から目を離せなかった。
アリシアが息子の口元を拭う仕草も、エドガーが当たり前のように抱きつく様子も、自分の知らない四年間の中で何度も繰り返されてきたのだろう。そこには確かな親子の時間があり、今さら現れた自分が簡単に入り込めるような隙はなかった。
エドガーはふとローゼンへ顔を向けると、少しだけ首を傾げた。
「おじさんもご飯たべる?」
「お、おじ……」
ローゼンの表情がわずかに引きつる。
「エドガー。この方はおじさんではないわ」
「じゃあ、おじいさん?」
「違う。自分は……」
ローゼンが何か言おうとしており、エドガーは不思議そうに目を丸くした。アリシアはその反応に小さく息を漏らしたが、すぐに口元を引き締める。
「どちらでもいいでしょう。エドガーにとっては知らない人なのだから」
その一言に、ローゼンは何も返せなくなった。父親であることを知ったばかりとはいえ、エドガーにとって自分は突然家へ押しかけてきた見知らぬ男でしかない。それが当然だと分かっていても、胸の奥が痛んだ。
アリシアは立ち上がると、エドガーを背中へ隠すようにしてローゼンと向き合った。
「これ以上、私たちの生活に踏み込まないでちょうだい。エドガーもお腹を空かせているの。何の用があってこの村へ来たのかは知らないけれど、用が済んだのなら王都へ帰って」
アリシアは冷たく言い切ると、机の上へ置かれていた一冊の本へ手を伸ばした。何度も読み返したため、革表紙は色褪せ、角は擦り切れている。紙の端には折り目が付き、薬草の葉を挟んだ跡や、細かな書き込みまで残っていた。
「それと、これ」
アリシアは本をローゼンの胸元へ押し付けるように差し出した。反射的に受け取ったローゼンは、表紙へ刻まれた紋様を見た瞬間、目を見開く。
「これは……王宮の薬草学書か?」
「ええ」
「どうして君が持っているんだ」
見間違えるはずがなかった。王宮の書庫に所蔵されていた古い薬草学の本である。当時、一冊の本が見当たらないと司書たちが大騒ぎしていたことまで思い出す。
そんなローゼンの反応を見て、アリシアは少しだけ気まずそうに頬を掻いた。
「小さい頃に王宮から自分の部屋へ持ってきちゃったのよ。本当はすぐに返すつもりだったんだけど、そのまま忘れちゃって」
「忘れた?」
「当時は毎日のように王宮へ行っていたでしょう? いつでも返せると思っていたのよ」
「司書長が当時、何日も探していたぞ」
「じゃあ、私が持っていたことは黙っておいて」
一瞬だけ、二人の間に昔と同じ空気が戻った。こんな在りし日に何度も繰り返してきたやり取りだった。
「でも、この本があったおかげで助かったわ」
「どういうことだ?」
「この村で流行っていた病気は、私が治したの。この本に載っていた解毒剤を作ったのよ。手に入らない薬草もあったから、少し配合は変えたけれどね。医師と相談しながら試したら、効果があったわ」
ローゼンは手の中の本を見下ろした。開かれた頁の余白には、薬草の分量や煮出す時間、患者の症状まで細かく書き込まれている。アリシアが何度も試し、失敗を重ねながら薬を完成させたことが、その跡だけで分かった。
「君がこれを……」
「一人ではないわ。村のみんなが助けてくれたもの」
アリシアは何気なく答えた。その言葉に、ローゼンの視線が一瞬だけ下がる。
「他の辺境でも同じ病気が流行っているんでしょう?」
「ああ。すでに幾つかの村で被害が出ている」
「だったら、その本を持って行きなさい。私が使った配合も書いてあるから、王都の医師ならもっと安全に作れるはずよ」
「だが、これは君が使うものではないのか」
「内容はほとんど覚えているわ。必要なら書き写せばいいもの。それより、一人でも多く助ける方が大切でしょう」
アリシアは本を持つローゼンの手を軽く押した。自分を拒絶しながらも、病に苦しむ人々を救うためには惜しげもなく知識を渡そうとする。その優しさは、四年前から何一つ変わっていなかった。
ローゼンは本を胸へ抱えるように持つと、一歩だけアリシアへ近付いた。そして、震える手で彼女の左手をそっと包み込む。先ほど肩を掴んだ時とは違い、少し力を入れれば逃げられてしまいそうなほど、慎重な触れ方だった。
突然伝わった温もりに、アリシアは小さく肩を震わせた。振り払おうと思えば、すぐにできた。それでも、なぜか手は動かなかった。四年前と変わらない、大きくて温かな手だった。昔なら、その手を握られるだけで胸が高鳴った。けれど今は、懐かしい温もりがかえって苦しかった。
「ようやく君を見つけた」
国王としてではない。一人の男として絞り出したような声だった。
「今さら何を言っているのよ」
「分かっている。今さらだということは」
「分かっているなら、手を離して」
そう言われても、ローゼンはすぐには離さなかった。一度だけエドガーへ視線を向ける。事情も分からず、残っていた焼き菓子を小さく齧っている。自分の息子だと分かったばかりだというのに、抱き上げることも、父親だと名乗ることもできない。
「アリシア」
ローゼンは彼女の手を包んだまま、迷うように口を閉ざした。何かを言おうとして、何度も飲み込んでいる。その態度に、アリシアの瞳がわずかに細められる。
「君を……エドガーと共に王宮へ連れ帰りたい」
アリシアはあまりにも唐突で驚き、自分の手を引き、ローゼンをほどいたのだった。




