6. アリシアの子ども
ローゼンの視線は、家の玄関から顔を覗かせたエドガーへ釘付けになっていた。つい先ほどまで国王として村人たちの前に立っていたとは思えないほど、その表情からは余裕が失われている。大きく見開かれた青い瞳が、エドガーの顔立ちを確かめるように動いていた。
「ママー。もうお話終わったの?」
エドガーは玄関の扉へ小さな手を掛けたまま、不思議そうに首を傾げている。もう片方の手には、戸棚から持ってきた焼き菓子が握られており、口元には小さな欠片が付いていた。家の中で待っているように言い聞かせたはずだが、外があまりにも騒がしかったため、気になって様子を見に来てしまったらしい。
「まだ終わっていないわ。お家の中で待っていてちょうだい」
「でも、ママ、すぐ戻るって言ったよ?」
「そうだけれど、もう少し掛かりそうなの。だから――」
アリシアが何とかエドガーを家へ戻そうとした時、隣にいたローゼンが突然動いた。何の断りもなくアリシアの横を通り過ぎ、真っ直ぐ玄関へ向かって歩き始める。
「ちょっと、ローゼン?」
呼び掛けても足を止めない。先ほどまで呆然としていたのが嘘のように大股で進み、あっという間に玄関の前まで辿り着いてしまう。見知らぬ男が近づいてきたことで、エドガーは驚いたように目を丸くすると、扉の向こうへ引っ込んだ。
「待ちなさい。何を勝手に入ろうとしているのよ」
アリシアは慌てて腕を掴もうとしたが、わずかに間に合わなかった。ローゼンは扉へ手を掛け、そのまま家の中へ入ってしまう。
「もう!人の話を聞きなさいよ!」
四年ぶりに再会したというのに、挨拶も説明もなく、いきなり人の家へ踏み込むとはどういうつもりなのか。
アリシアも急いで後を追い、扉を閉めた。広場に残された騎士や村人たちがこちらを見ていた気もするが、今は気にしている場合ではない。
室内では、エドガーが机の向こうへ隠れ、そこからローゼンの様子を窺っていた。突然知らない大人が入ってきたため、どうすればよいのか分からないらしい。手にした焼き菓子だけはしっかりと握ったまま、机の端から顔を半分だけ覗かせている。
「ママ、この人だれ?」
「ええと、その人は……」
何と説明すればよいのか、すぐには言葉が出てこなかった。国王陛下だと教えれば、今度は国王とは何かという説明が必要になる。昔の知り合いとだけ伝えるのも間違いではないが、それではあまりにも簡単に片付けすぎている気がした。
ローゼンはアリシアの迷いなど気にも留めず、エドガーを凝視していた。髪の色や目の形、鼻筋や口元まで、一つずつ確認しているように見える。エドガーが居心地悪そうに身体を動かしても、その視線は外れなかった。
「そんなに見つめないでちょうだい。エドが怖がっているでしょう」
アリシアは咄嗟にエドガーの前へ立ち、ローゼンの視線から隠した。すると、背後からエドガーが外套の裾を掴んでくる。普段は人見知りをしない子だが、さすがに今のローゼンは怖かったのだろう。
その小さな手の感触に、アリシアの声は自然と厳しくなった。
「いきなり人の家へ押し入ったうえに、幼い息子をジロジロと見るなんて、国王陛下は随分と立派な振る舞いをなさるのね」
「睨んでいるわけではない」
「同じようなものよ。少なくとも、エドにはそう見えているわ」
嫌味を言われたローゼンは、ようやくエドガーから目を離した。だが、次にアリシアへ向けられた視線は、先ほどよりも強いものだった。
「アリシア」
「な、何よ」
名を呼ばれただけなのに、思わず身構えてしまう。ローゼンは何も言わず、一歩ずつ距離を詰めてきた。アリシアも反射的に後ろへ下がるが、すぐに背中が壁へ触れ、それ以上は逃げられなくなる。
「ちょっと、近いわよ」
言ってもローゼンは止まらなかった。目の前まで来ると、両手を伸ばし、アリシアの肩を掴む。
「きゃっ……!」
突然のことに小さな悲鳴が漏れた。ローゼンの手には思いのほか強い力が込められており、逃がすつもりはないらしい。
「まさか、君がこの村にいたことにも驚いた。だが……子どもまでいたのか」
「見れば分かるでしょう!」
アリシアは平静を装って答えたが、心臓は落ち着きなく跳ねていた。四年ぶりに顔を合わせた相手に肩を掴まれ、これほど近い距離から見つめられているのだから、動揺するなという方が無理である。それでも、悟られるのだけは悔しくて、わざと眉を寄せた。
「それがどうかしたの?」
「どうかしたのではない」
「じゃあ、何なのよ」
ローゼンの手にさらに力が入った。痛いほどではないが、その切迫した様子にアリシアも誤魔化すことができなくなる。
「誰なんだ」
「何が?」
「この子の父親だ」
低く絞り出すような声だった。その問いを聞いた瞬間、アリシアの胸の中で、四年間押し込めてきたものが一気に膨れ上がった。
「……どうして、あなたに答えなければならないのよ」
「アリシア……まさか浮……」
手を振り払おうと肩を動かしたが、彼は離そうとしなかった。アリシアも負けじと睨み返す。
「あなたには関係ないでしょう」
「関係ないわけがない」
「どうして?私たちはもう終わったのよ。そうしたいと言ったのは、あなたでしょう?」
ローゼンの表情が僅かに歪んだ。しかし、アリシアはそれを見ても言葉を止めなかった。
「離縁してほしいと告げて、理由も話さずに出て行ったのはあなたよ。それから四年間、一度も会いに来なかった。それなのに今さら現れて、この子の父親が誰かなんて、随分と勝手なことを聞くのね」
「それは……」
「何かしら。今度はきちんと説明してくれるの?」
皮肉を込めて問い返すと、ローゼンは口を閉ざした。やはり何も話さない。その態度が昔と変わらないことに、アリシアは腹立たしさを覚えた。
「ほら、また黙る。自分は何も話さないくせに、私には答えろと言うの?」
「今は、この子のことを聞いている」
「私は四年前のことを聞いているのよ!」
二人の間で視線がぶつかる。どちらも引くつもりはなかったが、背後で小さな物音がして、アリシアは我に返った。振り向くと、エドガーが机の陰から心配そうにこちらを見ている。
「エド、大丈夫よ。少しお話しているだけだから」
アリシアから肩を離し、ローゼンがエドガーと向かい合うと、否応なく似ているところが目についた。真剣になると眉間へ僅かに皺を寄せる癖も、警戒しながら相手を真っ直ぐ見返すところも、驚くほどよく似ている。髪や瞳の色だけなら偶然で済ませられるかもしれないが、こうして並べば血の繋がりは明らかだった。
それなのに、ローゼンはまだ確信を持てずにいるらしい。
しばらくして、ローゼンがエドガーへ尋ねた。
「……君、今は何歳だい?分かるかい?」
「よんさい」
「四歳……」
その年齢を聞いた瞬間、ローゼンの顔からさらに血の気が引いた。頭の中で年月を数えているの だろう。アリシアが王宮を去ってから四年。少し考えれば、可能性にはすぐ気付くはずだった。
それでもローゼンは、アリシアへ視線を戻した。
「本当に誰の子なんだ。頼む、教えてくれ。覚悟はできているんだ」
先ほどのような勢いのある声ではなく、確かめることを恐れているような、掠れた声だった。
アリシアは腕の中のエドガーを見下ろした。何の話をされているのか理解できないらしく、残っていた焼き菓子を齧っている。口元へ付いた欠片を親指で拭ってやりながら、答えるべきか迷った。
ここで誤魔化すこともできる。あなたの子ではないと言えば、ローゼンは絶句するかもしれない。四年前に捨てられた身としては、それくらいの意地悪をしても許される気がした。
だが、目の前のローゼンは、国王としての体裁も忘れるほど取り乱していた。エドガーを見るたびに表情を変え、答えを待つ手まで僅かに震えている。その姿を見ていると、腹が立つ一方で、胸のどこかが妙に熱くなってしまった。
ローゼンは今にも泣きそうな顔で答えを待っている。
もしかすると、嫉妬しているのだろうか。
そんな考えが浮かび、アリシアは慌てて打ち消した。期待してはいけない。今になって少しばかり必死な顔を見せられたからといって、心を許すつもりなどなかった。
「そんなに知りたいの?」
「ああ」
「どうしても?」
「どうしてもだ」
「国王陛下ともあろう方が、随分と必死なのね」
「何とでも言ってくれ」
あまりにも迷いのない返事に、アリシアは言葉を詰まらせた。嫌味の一つでも返してくるかと思っていたのに、ローゼンは少しも目を逸らさない。
「答えるまで帰らないつもり?」
「ああ、絶対に帰らない。絶対にだ」
「本当に子どもみたいなことを言うのね」
呆れたふりをしながらも、アリシアの頬は次第に熱を帯びていった。
ここまで真剣に求められて、何も感じないわけがない。昔のローゼンは、自分の感情を正面からぶつけてくるような人ではなかった。
何かを望んでも我慢し、一人で抱え込んでしまう人だった。その彼が今は、国王としての立場まで忘れ、答えを聞くまでは帰らないと駄々を言っていた。
少しだけ嬉しいと思ってしまった自分が、どうしようもなく悔しかった。
アリシアは熱くなった頬を隠すように顔を背け、唇を尖らせた。
「……馬鹿ね」
「……?」
「昔から、そういうところは全然変わっていないんだから」
ローゼンは意味が分からないというように眉を寄せた。その表情が、隣で焼き菓子を食べているエドガーとあまりにもよく似ており、アリシアは余計に腹が立ってきた。
「何で分からないのよ。目は付いているのよね」
「アリシア、何を――」
「年齢だって聞いたでしょう。少しは自分で考えなさいよ!」
恥ずかしさを誤魔化すため、声が次第に大きくなっていく。ローゼンはようやく何かに気付いたらしく、目を見開いた。しかし、まだ本人の口から答えを聞くまでは信じられないようだった。
「まさか……」
「まさか、何よ。最後まで言いなさいよ」
ここまで来ても続けて話す事ができない彼に、アリシアの我慢はとうとう限界へ達した。
「この私が!!!!」
エドガーが驚いて顔を上げるほど、大きな声が室内へ響いた。
「あなた以外の人と子どもを作るわけがないでしょう!!!!」
言い切った途端、恥ずかしさが一気に押し寄せた。もっと落ち着いて伝えるつもりだったのに、まるで今でもローゼンだけを想っていると宣言したようなものであった。
だが、今さら取り消すこともできない。アリシアは真っ赤になった顔のままローゼンを睨みつけ、勢いに任せて続けた。
「エドは、あなたと私の子よ!!見れば分かるでしょう!!この馬鹿っっっ……!」
アリシアは顔を赤らめ、腕を組んでプイッと顔を背けた。
何も知らないエドガーは、固まったままのローゼンを見上げ、首を傾げる。
「ママー、この人、どうして泣きそうなの?」
「そんなの、知らないわよ!」
アリシアはつんと顔を背けたまま答えたが、ローゼンの顔をもう一度見ることはできなかった。




