69. アリシアによる看病
ローゼンは、息を詰めるようにして目を覚ました。夢の中では四年前の出来事があまりにも鮮明で、しばらくは自分がどこにいるのかさえ分からなかった。離縁を告げた朝のアリシアの顔も、閉ざした扉の向こうから聞こえてきた泣き声も、まだ耳の奥に残っているような気がした。
ようやく今いる場所が自室だと理解し、起き上がろうと身体へ力を入れたものの、全身が鉛のように重く、腕も脚も思うように動かない。頭はぼんやりとして、額から首筋にかけて異様な熱がこもっている。そこでようやく、自分がかなりの熱を出しているのだと気づいた。
それでも何とか身体を起こそうとして、ふと寝台の脇に人の気配を感じた。視線を向けると、そこにはアリシアが座っている。傍らには水を張った器と、何枚かの布が用意されていた。つい先ほどまで額を冷やしていたらしく、アリシアの手には濡れた布が握られている。悪夢から覚めたばかりだったこともあり、ローゼンは一瞬、本当に目を覚ましたのか分からなくなった。
「……アリシア?」
声に気づいたアリシアがこちらを向き、そのまま手を伸ばして額へ触れる。
「凄い熱よ、ローゼン。悪い夢を見ていたのね」
「何をしているんだ。一体どこから」
「そんなの窓からに決まってるじゃない」
少し笑いながら当然のように返され、ローゼンは呆れたように窓へ目を向けた。確かに、普段なら閉じているはずの窓がわずかに開いている。以前から二人が使っていた外壁沿いの道を通ってきたのだと理解した。物騒な時期そんな危ない真似をするなと言おうとしたものの、身体を起こしかけただけで力が抜け、そのまま枕へ戻ってしまった。
「ほら。病人が無理して起きないの」
アリシアは軽く叱るように言うと、手にしていた布を水へ浸し、絞ってからローゼンの額へ置き直した。その動きにはほとんど迷いがなく、昔から何度も同じことをしてきたような手慣れ方がある。
「どうしてここにいるんだ」
「様子を見に来たのよ。そしたら酷くうなされてるし、呼んでもほとんど反応しないし、触ってみたらこの熱でしょう。放っておけるわけないじゃない」
アリシアはそう言いながら、水差しへ手を伸ばした。すでに必要なことは済ませているらしく、医師にも診せてあり、しばらく休むよう言われているという。ローゼンが自分で杯を持とうとすると、案の定うまく力が入らず、アリシアに止められた。
「いいから、そのまま。今くらい大人しくしてなさい」
少し身体を支えられ、水を飲ませてもらう。こんなふうに世話をされるのは久しぶりだったが、不思議なくらい違和感がなかった。むしろ懐かしさの方が強い。
「こうやって看病するの、久しぶりね」
アリシアは少し懐かしそうに笑った。
その言葉で、ローゼンも昔のことを思い出す。幼い頃から身体を壊した時には、アリシアがよく部屋へやって来た。侍医も侍従もいるのだから、彼女が何かをする必要などなかった。それでも当然のように居座り、水を持ってきたり、暇潰しに本を読んだり、眠るまで近くにいた。
「君が看病する必要はない」
昔と同じようなことを口にすると、アリシアは特に気にした様子もなく肩をすくめた。
「別に必要だからしてるわけじゃないもの」
返ってきた言葉まで昔とほとんど変わっていなくて、ローゼンはそれ以上何も言えなくなった。
「それにしても、昔から変わらないわね。熱があっても大人しく寝ていないところ」
「そんなことはない……はずだ」
「あるわよ。子どもの頃だって、具合悪いくせに本を読もうとしてたでしょう。止めても『少しくらいなら問題ない』って聞かなかったし」
「そんな事、覚えていないな」
「都合の悪いことだけ忘れるのね。少し大きくなってからは仕事のことばかり気にしてたし、今も同じじゃない」
弱々しく反論しても、アリシアは取り合う気がないらしい。布をもう一度冷たいものへ替えながら、昔からそうだったと勝手に話を進めている。そのやり取りがあまりにも自然で、ローゼンは一瞬、四年間など本当は存在しなかったのではないかと思いそうになった。
けれど、少し目を閉じればすぐに夢の続きが蘇ってくる。四年前、自分がアリシアへ離縁を告げた朝。何も知らない彼女を傷つけ、それでも真実を言わず、最後には扉を閉じた。あの時泣いていた人が、今は何事もなかったように自分のそばへ座り、額を冷やしている。その事実が、熱のせいもあって妙に現実味を失わせていた。
「まだ具合悪い?」
いつの間にか黙り込んでいたらしく、アリシアが顔を覗き込んできた。
「……大丈夫だ」
「大丈夫な人はそんな顔しないと思うけど」
そう言われても、今の顔色の悪さが熱のせいなのか、別の理由なのか、ローゼン自身にも分からなかった。視線を逸らしてしまうと、アリシアはそれ以上無理に聞こうとはせず、額の布を置き直したあと、欲しいものがあれば言うように告げて椅子へ座り直した。
「本当にもう戻っていいんだ。今晩は助かったよ」
「こんな熱の人を一人にして帰れるわけないでしょう」
あまりにも当然のように言われ、ローゼンは思わず小さく息を吐いた。
「君は昔からそうだったな」
「何が?」
ローゼンは少し迷ってから答えた。
「誰かのことになると、自分から動かずにはいられないところとか」
「あら、悪い事かしら? 」
ローゼンは何も言わずにゆっくり目を閉じた。今までなら、このまま黙っていただろう。今さら話して何になるのか、傷を掘り返すだけではないのかと理由をつけて、また先延ばしにしたかもしれない。実際、再会してからも何度か機会はあった。それでも言えなかった。言えば、四年前の自分がしたことと改めて向き合わなければならないし、アリシアがどう受け取るのかも怖かった。
けれど、四年前の夢を見た直後に、昔と変わらない様子で自分を看病しているアリシアを前にすると、もう一度何も言わないという選択だけはしたくないと思った。あの時は、話さないことが彼女を守ることだと信じた。今も同じように黙るのなら、それはもう守るためではなく、自分が怖いから逃げているだけだった。
アリシアが新しい布を水へ浸し、ローゼンの額へ置こうと手を伸ばした時だった。
「……アリシア」
「なに?」
呼び止められたアリシアは手を止めた。
「……少し、聞いてほしいことがある」
アリシアは一度ローゼンの顔を見た。
「熱が下がってからじゃ駄目なの?」
いつものような少し軽い調子だったが、ローゼンの表情を見て冗談ではないことには気づいたらしい。
ローゼンはゆっくり首を横に振った。
「今でなければ……また、言えなくなる気がする。熱で浮かされている今だから話しておきたい」
その言葉で、アリシアの表情から笑みが消えた。何も聞き返さず、椅子を少しだけ寝台へ近づけると、今度は真正面からローゼンを見る。
ローゼンは一度息を整えた。熱のせいで頭はまだ重く、喉も乾いていた。それでも、今度こそ視線を逸らさなかった。
「……四年前のことだ」
アリシアは何も言わなかった。ただ、その一言だけで何の話なのか理解したように、じっとローゼンを見つめている。
「君に、ずっと話していないことがあるんだ」




