68. 四年前のあの日④【過去編・ローゼン視点】
アリシアが王宮を去ってから、しばらくが経った。王の体調は以前よりも明らかに悪化しており、寝台から起き上がることさえできない日が増えていた。それに伴い、国政の多くは王太子であるローゼンが代わって担うようになり、実質的には国王に近い仕事量を背負っている。
朝から晩まで政務に追われ、食事を取る時間すら削られる日も珍しくない。それだけ忙しければ離縁のことなど考える暇もなくなるはずだったが、実際にはそうではなかった。
仕事へ意識を向けている間だけ考えずに済むというだけで、手が止まればすぐにアリシアのことを思い出した。
無事なのか、どこで暮らしているのか、今も自分を憎んでいるのか。考え始めればきりがなく、そのたびに未署名の離縁契約書が机の奥に残っていることまで思い出してしまう。
王に対して抱く感情も、日に日に複雑になっていた。アリシアとの離縁を命じ、レインフォート家を一族もろとも処刑するとまで言ったことを許せるはずがない。
それでも病床で弱っていく父を前にすると、単純に憎み切ることもできなかった。正妃を亡くす以前の父は、少なくともローゼンにとって尊敬できる王だった。
厳しく、国を第一に考え、感情だけで物事を決めるような人ではなかった。幼い頃のローゼンが王とはどうあるべきかを学んだ相手も父であり、いつか自分も同じように国を背負わなければならないのだと覚悟したのも、その背中を見て育ったからだった。
それだけに、あの夜の父がなぜあれほど異常な判断へ固執したのか、今になっても理解できなかった。
オリーファは変わらず王のそばにいた。食事を勧め、薬の時間を気に掛け、ときには王が好んでいた濃い色の葡萄酒まで自ら用意している。ローゼンも何度かその姿を目にしたが、この時点では毒など考えもしなかった。
ただ、父の身体が弱れば弱るほど、オリーファだけが以前にも増して深く私室へ入り込んでいることには違和感を覚えていた。
医師や侍従が退出したあとも残り、他の者なら遠慮するような場所まで当然のように出入りしている。気にはなったものの、ローゼン自身が国政と王の代行で手一杯だったこともあり、その違和感を掘り下げる余裕まではなかった。
王の容体は一進一退を繰り返した。数日前まで起き上がれなかった者が翌日には少し食事を取れるほど持ち直したかと思えば、その次の日には再び酷く衰弱する。医師たちは長く患った末の衰弱だと説明し、ローゼンもそれを疑わなかった。今は父の病の原因を探るより、王国を止めないことの方が重要だった。
やがて、王が危篤に陥った。
知らせを受けたローゼンは政務を中断し、すぐに父の寝室へ向かった。そこにいた王は、つい数年前まで国を動かしていた人間と同一人物とは思えないほど痩せ細っていた。息をするだけでも苦しそうで、呼びかけても瞼がわずかに動く程度だった。ローゼンは寝台の傍らに立ち、その姿を黙って見つめた。
アリシアのことを謝ってほしいとは思わなかった。今さら謝罪されたところで、彼女が受けた傷が消えるわけではないし、王宮を去った事実も変わらない。だからローゼンも何も求めなかった。許すとも、許せないとも口にせず、ただ息子として最後までそこにいた。やがて王の呼吸は少しずつ浅くなり、最後に一度だけ大きく息を吸ったあと、その胸は二度と上下しなくなった。
部屋の中にいた者たちが一斉に頭を垂れる中、ローゼンだけはしばらく動けなかった。父が死んだ。その事実を理解するまで、少し時間がかかった。あれほど腹を立て、何度も許せないと思った相手だった。それでも、もう二度と話すことができないのだと分かった瞬間、胸の奥には確かな喪失感があった。尊敬していた頃の父も、厳しく叱られた記憶も、幼い自分へ王族としての責任を教えた姿も、すべて同じ人間のものだったからだった。
けれど、その喪失の中で、別の考えが浮かんでしまった。
もう、アリシアを脅す王命は存在しない。
レインフォート家を処刑すると言った父も、もういない。
今ならアリシアを探せるのではないか。
そう思った自分に、ローゼンはすぐに嫌悪を覚えた。父が息を引き取った直後だというのに、最初に浮かんだのがアリシアのことだった。あまりにも冷たい人間なのではないかと思ったが、それでも一度浮かんだ考えを消すことはできなかった。
王の死後、王宮は悲しみに沈む間もなく動き始めた。国葬の準備、国内貴族への通達、周辺国への使者、近衛の配置、そして新たな国王の即位準備。これまで王の名で動いていたものが一斉にローゼンへ集中し、悲しむ時間も、アリシアを探す方法を考える時間もほとんど与えられなかった。それでも、すべてが一段落したら必ず探すつもりだった。父はもういない。自分を縛っていた最も大きな理由は消えた。今度こそ、あの朝に言えなかったことを全部話せる。許してもらえるとは思っていない。それでも、あれが自分の本心ではなかったことだけは伝えたい。アリシアが何を選ぶのかは、そのあと彼女自身に決めてもらえばいい。
そんなことを考える間もなく、ローゼンは正式に国王となった。
即位して間もなく、その考えを形にしようとした矢先だった。重臣たちから別の問題を突きつけられた。
「陛下には、王妃がおりません」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。もちろん、自分に正式な王妃がいないことくらい理解している。離縁したばかりなのだから当然だった。ただ、重臣たちが言いたいのはそういうことではない。国王となった以上、王妃と後継者の存在は国の安定に関わる。王位が移ったばかりだからこそ、できるだけ早く次の婚姻を整えるべきだという話だった。
ローゼンは、その説明を聞くだけで強い拒否感を覚えた。アリシアとのことすら終わったと受け入れられていないのに、もう次の妻を選べと言われても考えられるはずがない。だが、重臣たちの言っていることが間違っているわけでもなかった。国王の婚姻は個人だけの問題ではなく、後継者がいない状態が長く続けば余計な思惑を抱く者も増える。それくらいローゼン自身が誰より理解していた。
「今すぐ決める話ではないだろう」
「ですが、陛下。王位継承直後だからこそ、国内外へ安定を示す必要がございます」
それ以上この場で拒めば、感情だけで話していると思われかねない。ローゼンは一度話を持ち帰ることにしたが、それを了承と受け取ったのか、数日もしないうちに王妃候補として何人もの高位令嬢の資料が届けられた。家格、教養、外交上の利点。どの令嬢も資料の上では申し分なく、王妃候補として大きな欠点はないらしい。
ローゼンも国王として、目を通さないわけにはいかなかった。しかし、どの名前を見ても何も感じなかった。容姿が美しいと書かれていても、語学に秀でていると説明されても、慈善活動へ熱心だと聞かされても、それがこの女性を妻にしたいという感情へ少しも繋がらない。それどころか、読み進めるほど無意識にアリシアと比べてしまった。
穏やかで控えめな性格だと書かれていれば、アリシアならそんなに長く控えめにはしていられないだろうと思う。社交に長けていると書かれていれば、退屈な会話が続いた時には、きっと誰にも気づかれないようこちらと目を合わせてくるだろうと考える。気遣いに長けていると聞けば、アリシアなら遠回しな言葉など使わず、疲れているなら休めと真正面から言ってくるだろうと思ってしまう。
比べるつもりなどなかった。それでも何を見ても、最後にはアリシアへ戻ってしまう。そのことが積み重なっていくうちに、ローゼンはようやく気づいた。自分は思っていた以上に、長い年月をアリシアありきで生きてきたのだ。
幼い頃から隣にいて、やがて婚約者となり、最後には妻になった。ローゼンが疲れている時にどう接すればいいのか、何を言われれば腹が立つのか、どんな時には一人にしてほしいのか、どんな時には何も言わず隣にいてほしいのか。
その全部をアリシアは知っていたし、ローゼンも彼女について同じくらい知っていた。誰かと一から関係を築くということ自体が、もう想像できなかった。
新しい妻に自分のことを少しずつ知ってもらい、自分もその人の好きなものや嫌いなものを一つずつ覚えていく。
夫婦とは本来そうやって関係を作るものなのだろう。それでもローゼンには、その過程が今さらひどく遠いものに感じられた。
妻という存在を考えた時、その中には最初からアリシアが入り込みすぎていた。
それは王宮で一人になる時間が増えるほど、はっきりと分かるようになった。朝食の席にアリシアがいない。執務を終えて部屋へ戻っても、今日あったくだらない話をする相手がいない。
疲れていても、そんなことなど気にせず隣へ座ってくる人もいない。何か面白いことがあった時に真っ先に聞かせたい相手も、誰かに腹を立てた時に愚痴を聞いてほしい相手も、もう王宮にはいなかった。
もちろん、生きてはいける。食事も取れるし、眠ることもできる。王として働くこともできるし、外から見れば何の問題もなく日々を送っているように見えるだろう。それでもローゼン自身には、ただ生きているだけで、暮らしているという感覚がなかった。王太子として一人で立ってきたつもりだったし、誰かがいなくなっても務めは果たせるのだ。
それでも重臣たちは諦めず、いくつかの家との顔合わせまで用意した。ローゼンもすべて断るわけにはいかず、形式上は応じた。相手へ失礼な態度を取ることはなく、会話もした。家や領地の話を聞き、趣味を尋ね、国王として礼儀正しく接したが、どうしても一人の女性として見ることができなかった。そのたびに自分でも嫌になった。目の前の女性たちは何も悪くないし、アリシアの代わりとしてここにいるわけでもない。それなのに、自分が勝手に比べてしまう。
ある日の会議で、一人の重臣が遠回しに言った。
「陛下のお気持ちは理解いたします。しかし、いつまでも前の婚姻に拘っておられるわけにもまいりません」
反射的に睨みそうになったが、ローゼンは堪えた。相手は間違っていない。国王である以上、後継者問題をいつまでも放置することはできない。それでも今すぐ誰かを妻にすることだけは、どうしても受け入れられなかった。
「王位を継いだばかりだ。今は国内を安定させる方が先だ。それに南の諸国の政情が不安定だ。王妃については、もう少し落ち着いてから考える」
国王の言葉として押し通し、妻選びそのものを一度延期させた。
その夜、ローゼンは遅くまで執務を続けたあと、一人で自室へ戻った。誰もいない部屋は静かだった。以前ならアリシアがいるのが当たり前だった場所なのに、今はその痕跡すらほとんど残っていない。しばらく机の前へ座っていたローゼンは、やがて引き出しの奥から一枚の書類を取り出した。未署名の離縁契約書だった。
父はもういない。自分は国王になった。それでも、アリシアは戻ってこない。今度は周囲から別の女性を妻にしろと迫られている。机の上には重臣たちから渡された王妃候補者の資料が積まれており、その横には、アリシアが王宮を去った日から何も変わらない離縁契約書がある。ローゼンは何人もの候補者の名前が並ぶ資料を眺めたあと、静かに閉じた。
どの女性も、王妃として不足はないのだろう。それでも、自分がその中から誰か一人を選ぶ姿だけはどうしても想像できなかった。どうやら自分は、とっくの昔にアリシアがいなければまともに暮らせないほど、彼女がいる人生へ慣れ切ってしまっていたらしい。それでもアリシアはここにはおらず、手元に残っているのは彼女の名だけが空白になった離縁契約書だけだった。
「……妻を選べと言われても、もう選んだ後なんだ」
誰もいない部屋でローゼンは呟いたのだった。




