67. 四年前のあの日③【過去編・ローゼン視点】
翌朝になっても、ローゼンはアリシアのもとへ戻らなかった。戻れるはずがなかった。あの扉の向こうで彼女が泣いていると分かっていながら、自分の足で遠ざかった以上、今さら何事もなかったように顔を合わせることなどできない。ほとんど眠らないまま執務室へ入り、まだ朝も早いというのに側近を呼び出すと、離縁に必要な手続きを進めるよう命じた。口にした言葉は自分でも驚くほど事務的だったが、それ以外の話し方をすれば声が崩れてしまいそうだった。
必要な書類はいくつかあり、そのほとんどは王太子であるローゼンの署名と王家側の承認によって進められる。ただし、婚姻そのものを正式に終わらせる契約書については、アリシア本人の署名も必要だった。本来なら離縁の条件を双方で確認し、そのうえで二人の名を記す。婚礼の際にも似たような書類へ二人で署名したばかりだったため、その説明を聞いた瞬間、ローゼンは何とも言えない気分になった。昨日までは夫婦になるための書類へ二人の名前が並んでいた。それが今は、別れるための紙へ同じように名を書かなければならない。
ローゼンは自分の署名だけを済ませ、アリシアのもとへ持っていくよう命じた。自分で渡しに行くことはできなかった。もう一度あの顔を見れば何を言ってしまうか分からないし、離縁を自分の意思だと思わせると決めた以上、今さら会いに行くこと自体が余計な期待を持たせるようにも思えた。
ところが、書類を持って部屋を出ていった者は、さほど時間を置かずに戻ってきた。普段なら決して取り乱さない男の顔に、はっきりと困惑が浮かんでいる。
「殿下。アリシア様がお部屋にいらっしゃいません」
最初は、王宮のどこかへ出ているだけだと思った。昨夜あれほどのことがあったのだから、一人になりたくて庭へ出たのかもしれないし、誰か信頼できる者のところへ向かった可能性もある。しかし、部屋へ人をやって確認させると、すぐに別の報告が上がってきた。
衣装棚に並んでいた服の大半はそのままだった。婚礼のために用意されたものも、王太子妃として新たに仕立てられたものも残っている。宝石や贈り物にもほとんど手をつけていない。ただ、普段着の一部と旅に必要な最低限の品、それから自分で持ち運べる程度の金だけがなくなっていた。
そこで初めて、ローゼンは椅子から立ち上がった。
「門を確認しろ」
王宮の各門へ確認が回され、ほどなくして答えが戻ってくる。アリシアは朝になった頃にはすでに王宮を出ていた。王太子妃として用意されていた大掛かりな馬車も護衛も使わず、自分で持てる程度の荷物だけを持って出ていったらしい。
ローゼンはしばらく何も言えなかった。昨夜、自分が扉を閉めたあと、アリシアは泣いていた。その泣き声を聞きながら、自分は戻らなかった。そのあと彼女がどうしたのか、考えることさえ避けていたのかもしれない。朝になれば部屋にいるものだと、どこかで勝手に思っていた。離縁の話を受け入れていなくても、少なくとも王宮を出るには準備が必要であり、今日一日くらいはまだそこにいるのだと。
けれど、アリシアは待たなかった。離縁を告げられたその朝に、ほとんどすべてを置いたまま王宮から出ていった。
机の上には、先ほど用意した離縁契約書が残されていた。ローゼンの署名はすでに入っている。その隣にはアリシア・レインフォートの名を書くための欄があり、そこだけが空白のままだった。
「……署名は?」
「まだいただいておりません。書類をお持ちした時には、すでにお部屋を出られた後でした」
拒否したわけではない。書類を破り捨てたわけでもなく、おそらく用意されたことすら知らないまま出ていったのだろう。昨夜のアリシアを思い出せば、そんな手続きが残っていることまで考える余裕がなかったとしても不思議ではなかった。夫婦として迎えるはずだった朝に突然すべてを終わらせると言われ、自分が何をしたのかさえ分からないまま置いていかれた。その直後に、正式な離縁書類へ署名することまで考えられるはずもない。
ローゼンは契約書から目を離し、すぐにアリシアの行き先を確認させた。ただし、騎士団を動かすことも、王太子の名で各地へ大々的な捜索命令を出すこともしなかった。そんなことをすれば王
に知られる。昨夜、自分はアリシアとの関係を断つと約束した。その直後に王太子が兵を動かして元妻を追えば、離縁が形だけのものだと疑われかねない。そうなれば、再びアリシアだけでなくレインフォート家全体へ危険が及ぶ可能性がある。
だから、信頼できる少数の者だけを使うことにした。
「居場所を確かめろ。ただし、連れ戻すな。本人にも接触しなくていい。無事に王都を出たか、それだけ分かればいい」
口にしてから、自分が何を命じているのか嫌でも分かった。探してほしいのに、見つけても連れ戻してはいけない。話しかけることさえ許せない。本当なら今すぐ自分が馬に乗って追いかけたかった。まだ王都を出ていないのなら間に合うかもしれない。街道を探せば見つけられるかもしれないし、名前を呼べば振り返ってくれるかもしれない。それでも、追いついたところで何を言うのか。戻ってきてくれとは言えない。離縁を告げた本人が、その数時間後に追いかけて、もう一度離れてくれと告げるだけなら、かえって彼女を傷つけるだけだった。
昼頃には最初の報告が届いた。アリシアがレインフォート家の本領へ向かった形跡はないという。王都を出た者の話や街道沿いの宿を確認しても、本領へ向かう道では姿を見た者がいなかった。
ローゼンは少し意外に思った。離縁されたのなら、実家へ戻るのだろうとどこかで考えていた。少なくとも、家族のもとなら安全だと思っていた。だが、アリシアはそこへ向かわなかった。突然戻れば両親を巻き込むと思ったのかもしれないし、婚礼の翌日に離縁されたことを今はまだ家族へ知られたくなかったのかもしれない。あるいは、ただ誰にも会いたくなかっただけなのか。ローゼンには推測することしかできなかった。
さらに少数の者を使って足取りを追わせた結果、アリシアは本領へ向かう道ではなく、別の街道へ入った可能性が高いことまでは分かった。しかし、人の往来が多い場所へ出たところで情報は途切れた。乗合の馬車へ乗ったのか、途中で別の道へ逸れたのか、それすら判然としない。
王太子の権限を使えば、もっと探せた。各地の関所へ通達し、宿屋へ確認を取り、騎士を街道へ出せば、そう時間をかけずに見つけられた可能性はある。それでもローゼンは命じなかった。追えば追うほど、アリシアの居場所が王家にも知られることになる。自分が見つけられない場所へ行ったのなら、それは王やオリーファにも見つけられにくい場所へ行ったということなのかもしれない。そう考えなければ、追わずにいることなどできなかった。
その日のうちに、王から離縁について確認が入った。ローゼンは再び父のもとへ向かい、アリシアがすでに王宮を離れたことだけを伝えた。署名がまだ済んでいないことも、行き先が分からなくなっていることも言わなかった。王は、アリシアが離縁を受け入れ、自ら王宮を去ったのだと思ったらしく、それ以上深く尋ねようとはしなかった。
ローゼンには、どうしても確認しておかなければならないことがあった。
「レインフォート家については」
「お前があの女との関係を断った以上、今すぐ反逆者として裁く必要はない。ただし、金脈についての調査は続ける」
その答えを聞いた時、胸の奥にほんの少しだけ力が戻った。少なくとも、アリシアは殺されない。彼女の両親も、一族も、今すぐ斬首されることはない。その結果だけを見れば、自分の判断は間違っていなかったのだと思いたくなった。アリシアを泣かせ、何も説明せずに捨て、それでも彼女の命だけは守れたのだと。そう思わなければ、昨夜から自分がしたことすべてに耐えられなかった。
執務室へ戻ると、机の上にはまだ離縁契約書が残されていた。ローゼンの名だけがあり、その隣にあるはずのアリシアの名はない。側近がしばらく迷ったあと、今後どのように処理するのかと尋ねた。
正式に婚姻を終えるなら、アリシアの署名は必要だった。居場所を突き止め、人を送ればいい。離縁契約書へ署名してほしいと伝えれば、それで手続きは進む。ただ、それをするためだけにアリシアを探し出し、昨日自分が負わせた傷をもう一度抉るのかと思うと、どうしても命じる気にはなれなかった。
「今は、そのままでいい」
側近が何か言いかけたが、ローゼンは先に続けた。
「保管しておけ。私が指示するまで、誰も触れるな」
それ以上の質問は許さなかった。離縁を告げた以上、二人の関係は終わったのだと自分へ言い聞かせていた。署名の有無など形式上の問題でしかなく、アリシアを探し出してまで完成させる必要はない。そう考えようとしていた。
それから数日が過ぎても、アリシアの居場所について確かな情報は入らなかった。王都にはもういないらしいということだけは、ほぼ間違いなかった。ローゼンはそれ以上探すよう命じなかったが、無事なのか、どこで眠っているのか、きちんと食事は取れているのか、一人で泣いてはいないかと考え始めれば、今すぐすべてを放り出して探しに行きたくなった。それでも、王宮から遠ざかったということは王からも遠ざかったということなのだと自分へ言い聞かせ、何もしないことを選んだ。
状況が落ち着けば必ず探すつもりだった。王の疑念が消え、レインフォート家への危険が完全になくなれば、その時こそアリシアを探し出して、本当のことを話せばいい。なぜあんなことを言ったのか、どれだけ別れたくなかったのか、今でも愛していることも、その時なら全部話せる。数か月もすれば状況は変わるかもしれないし、長くてもそれほど遠い未来ではない。アリシアなら、きっとどこかで生きている。その時に謝ればいい。許してもらえなくても、本当のことだけは伝えればいい。
まさか、それから四年もの間、彼女を見つけられないことになるなど、この時のローゼンは考えてもいなかった。
その日の夜、誰もいなくなった執務室で、ローゼンは保管させたアリシアの署名のない離縁契約書をもう一度取り出していた。
ローゼン自身も、その空白に何か特別な意味があるとは思っていなかった。離縁を告げた以上、もう二人は終わったのだと考えようとしていたし、書類が完成していないからといって、あの朝に起きたことまでなかったことになるわけでもない。
やがてローゼンは契約書を静かに閉じ、机の奥深くへしまった。婚礼の翌朝、アリシアは王宮から姿を消し、地位も、荷物も、二人で始めるはずだった未来もほとんどすべて置いていった。ただ一つ、別れるための書類へ自分の名前を書き残すことだけをしないまま。
離縁を告げ、二人は離れた。それでも、婚姻という繋がりだけは途絶えていなかったのだった。




