66. 四年前のあの日②【過去編・ローゼン視点】
王へ離縁を受け入れると答えたあと、ローゼンは夜明け前の王宮を一人で歩いていた。行きに通ったはずの廊下なのに、今はまるで別の場所のように感じる。
部屋の前まで辿り着いても、ローゼンはすぐに扉へ手を掛けられなかった。ここで全部話してしまえばいいのではないかという思いが、最後まで胸の中に残っている。
父が何を言ったのか、オリーファがレインフォート家へどんな疑念を向けたのか、そして離縁を拒めばアリシア本人まで殺すと脅されたこと。そのすべてを打ち明けて、二人で考えればいい。本来なら、それが正しいのだろう。昨日ようやく夫婦になったのだから、一人で決めるのではなく、アリシアにも事情を話して、彼女がどうしたいのかを聞くべきだった。
けれど、それを想像するだけで、ローゼンにはその先まで分かってしまった。
アリシアは絶対に黙っていない。自分にもレインフォート家にも王家を操ろうとする意図などないと、先王の前へ出て直接訴えるだろう。
自分一人が何かを差し出すことで家族を守れると思えば、本当にそうしようとする人だった。
普段なら、その真っ直ぐさこそローゼンが愛してきた部分だった。相手が誰であろうと、間違っていると思えば簡単には引かない。何度その強さに救われてきたか分からない。
けれど今だけは、その強さが危険だった。王はすでにレインフォート家を疑い切っている。
そこへアリシア本人が出ていけば、彼女の反論さえ王太子を操ろうとしている証拠だと受け取られる可能性がある。
ならば何も知らせない方がいい。自分だけが悪者になり、アリシアに嫌われて、自分からも王宮からも遠く離れてもらう。その方が彼女を守れるのだと、ローゼンは何度も自分へ言い聞かせた。
正しいやり方だとは思えなかったし、アリシアが知れば必ず怒ることも分かっている。それでも命を奪われるよりはいい。自分を憎んで生きてくれるなら、それでいいと思うしかなかった。
ようやく扉へ手を掛け、静かに開く。その瞬間、寝台へ腰掛けていたアリシアが勢いよく立ち上がった。
「ローゼン……!」
その声を聞いただけで、胸の奥が締めつけられた。アリシアは真っ直ぐこちらへ駆け寄ってきた。怒っている様子はなく、むしろ、ようやく帰ってきたことへ心から安堵したように笑っている。
「お帰りなさい」
昨夜、自分はすぐ戻ると約束した。その言葉を信じて、一晩中待っていたのだろう。寝台はほとんど乱れておらず、彼女が眠っていないことはすぐに分かった。
「お帰りなさい」と言ってくれる。その一言だけで、ローゼンの決意は崩れそうになった。
今すぐ抱き締めたかった。遅くなってすまないと謝り、このまま何もなかったことにして、昨夜の続きを始めたかった。けれど、それをすれば何のためにあの部屋で父の要求を受け入れたのか分からなくなる。
「……ただいま」
掠れた声で、どうにかそれだけを返した。アリシアはすぐにローゼンの様子がおかしいことへ気づいたらしい。笑みを消し、顔を覗き込んでくる。
「大丈夫?顔色が真っ青よ。一晩中起きていたのでしょう?」
そのまま頬へ触れようと、手が伸びてくる。ローゼンは反射的に、ほんのわずかだけ身体を引いた。本当は触れてほしかったし、その手を取って頬へ押し当てたかった。けれど、今ここでいつものように触れられたら、昨夜までの気持ちが一気に戻ってきてしまう。アリシアの温度に触れた瞬間、自分が何を守ろうとしているのかさえ忘れてしまいそうだった。
伸ばされた手が途中で止まり、アリシアは一瞬だけ傷ついたような顔をした。それでも何も責めず、疲れているのだと思おうとしたのか、伸ばしかけた手を下ろして少し無理をしたような明るい声を作った。
「何か食べる?朝食を用意してもらうわ。それとも、先に少し休みましょう。今日は結婚式の翌日だもの。急ぎの予定がないなら、何もしなくても許されるはずよ」
結婚式の翌日。その言葉が胸へ刺さった。本来なら、その通りだった。今日くらい何も考えず、二人でゆっくり過ごしてもよかった。朝食を一緒に取り、昨日の婚礼について話し、これからの予定を決める。それが夫婦として迎える最初の朝になるはずだった。
「アリシア」
名前を呼ぶと、彼女が少しだけ身体を揺らした。ローゼンは扉の近くから動けなかった。いつもなら、疲れている時ほどアリシアの隣へ行った。言葉を交わす余裕がなくても、彼女がそばにいるだけで落ち着いた。それなのに今日は近づけない。近づけば、触れたくなるからだった。
「その前に……話がある」
「話?」
アリシアは、昨夜王から呼び出された理由を話すのだと思っているのだろう。すぐにこちらへ来て座るよう促したが、ローゼンは首を振った。
「ここでいい」
自分でも、ひどくよそよそしい言い方だと思った。隣へ座れば、きっと彼女はいつものように距離を詰める。腕へ触れるかもしれないし、疲れているなら休めばいいと身体を寄せてくるかもしれない。そのすべてを拒むことなどできないし、受け入れてしまえば、もう離縁を口にできる自信もなかった。
何度も口を開こうとして、それでも声が出なかった。ほんの数語を言えばいいだけなのに、喉の奥で言葉が詰まる。
「ローゼン?」
もう一度名前を呼ばれた。その声に背中を押されるように、ローゼンはようやく口を開いた。
「……君との婚姻を終わらせたい」
言った瞬間、自分の言葉ではないように聞こえた。アリシアは何も返さず、ただ呆然とこちらを見ている。
「……え?」
聞き間違いだと思っているのだろう。そうであってほしいと、自分自身も思った。それでも、もう一度言わなければならない。
「離縁してほしい」
今度は、はっきりと口にした。アリシアの顔から、先ほどまでの安堵が完全に消えた。
「……どういうこと?」
震えた声だった。
「昨日、結婚したばかりよ?大勢の前で誓ったじゃない。これから一緒に生きていくって。昨夜だって、あんなに楽しそうに未来の話をしていたでしょう?朝になったら全部なかったことにするなんて、そんなのおかしいわ」
全部覚えている。朝はなるべく一緒に食べたいと言われたことも、たまには城下へ行きたいと言われたことも、まだ見ぬ子どもの話をしたことも、その一つひとつが、つい数時間前まで自分にとって未来そのものだった。ローゼンが何も答えられないでいると、アリシアは一歩近づいた。
「何かあったの?お義父様に何か言われたの?この結婚に反対する人がいた?それとも、私の家に何か問題が見つかったの?」
最後の言葉を聞いた瞬間、胸の奥が大きく揺れた。やはり気づく。昨夜の呼び出しと今の離縁が無関係なはずはないと、アリシアならすぐに考える。
「違う」
咄嗟に否定した。
「じゃあ、何なの?」
答えられない。ここで少しでも本当のことを言えば、彼女はさらに踏み込んでくる。
「……君には関係のないことだ」
口にした瞬間、自分でも最低な言葉だと思った。
「私たちの話なのに、私に関係がないわけがないでしょう!」
その通りだった。二人の婚姻について、アリシアに関係がないはずがない。本来なら彼女にも知る権利があり、どうするのかを選ぶ権利がある。それを自分一人で奪おうとしている。守るためだと分かっていても、自分が正しいことをしているとは思えなかった。
「お願い。ちゃんと話して。私が何かしたのなら教えて。知らないうちに誰かを傷つけたの?王太子妃として相応しくないことをしてしまった?」
それだけは、どうしても嘘をつけなかった。
「君は何もしていない」
「だったら、どうしてなの!」
アリシアの目から、ついに涙が零れた。
「私が悪くないなら、どうして離縁しなければならないの!?何も説明されないまま、はいそうですかって受け入れられるわけがないでしょう!」
その涙を見て、ローゼンは今すぐ何もかも話してしまいたくなった。君は本当に何も悪くない。離れたいわけでもない。父に殺すと脅されたのだ。君も、君の家族も。だから自分には、こうするしかなかった。喉まで出かかった言葉を、必死に飲み込む。
アリシアが袖を掴んだ。
「誰かに脅されているの?」
心臓が大きく鳴った。
「違う。そうじゃないんだ」
「嘘よ。昨夜までの貴方が、たった一晩でこんなことを言い出すはずがないもの。私を守るため?何か危険なことがあるの?」
もう少しで、肯定してしまいそうになった。そこまで自分を分かっていることが、今だけは辛かった。ここで認めれば、アリシアは誰から守ろうとしているのかを聞く。そして先王だと知れば、必ず動く。
「違うと言っている」
「なら、私を見て言って!!」
アリシアの声が震えた。
「本当に私と別れたいのなら、ちゃんと私の目を見て言って。もう愛していないと、私と夫婦でいることが苦痛なのだと、そう言ってよ」
できなかった。顔を上げることさえできなかった。愛していないなど、言えるはずがない。昨日まで愛していたのではない。今この瞬間も、どうしようもないほど愛している。それなのに、その本人へ愛していないと言うなど、どれほど自分を偽ってもできなかった。
「ローゼン、お願い……私を見て」
アリシアが近づき、頬へ触れようとする。ローゼンは逃げるように顔を背けた。その手に触れられたら、目を見たら、泣いている顔を正面から見たら、抱き締めてしまう。抱き締めれば、もう離せなくなる。
「私の顔も見たくないの?どうして見てくれないのよ」
胸の奥を抉られるようだった。
違う。見たくないのではない。見れば離せなくなるから見られないのだ。
けれど、それを言ってしまえばすべてが崩れる気がして何も答えられなかった。
ローゼンが何も言わないことで、アリシアは沈黙を拒絶だと受け取ったのだろう。やがて、自分自身に原因を探し始めた。
「私、何かしてしまったのよね?何がいけなかったのか教えて。私の嫌だったところも、直してほしいところも全部言って。妃教育が足りないならもっと勉強する。私の振る舞いが貴方の負担になっていたなら改める。王宮で暮らすことが難しいなら、離宮でも領地でも構わない。貴方が望むことなら、何だってするから」
聞いているだけで耐えられなかった。直すべきところなど何もない。アリシアは何も悪くない。昨夜までの彼女のままでよかった。それなのに、自分が何も説明しないせいで、彼女が自分自身を責めている。
「全部直すから、離縁だけは嫌……」
震える声に、ローゼンは無意識に拳を握り込んだ。
「私は貴方と一緒にいたいの。王太子妃になりたいから結婚したわけじゃない。貴方だったから、妻になりたいと思ったのよ。王太子じゃなくても、何も持っていなくても、私は貴方を選んでいたわ」
その言葉を聞いた瞬間、決意が大きく揺らいだ。自分も同じだった。王太子妃として相応しいからアリシアを選んだのではない。レインフォート家の娘だったからでもない。ただアリシアだったから、一緒に生きたかった。王太子として用意された人生の中で、彼女だけは自分が心から選んだものだった。そして、その願いがようやく叶ったと思ったのだ。
「……これは、私が決めたことだ」
「嘘よ。そんな顔で言われても信じられない」
当然だった。ローゼン自身、自分がどんな顔をしているのか分からなかった。それでも、もう後へは引けない。
「君には、王宮を出てもらう」
「嫌よ」
「レインフォート家へは、こちらから説明する。今後の生活に困らないだけの金も用意する」
「そんなものはいらない!」
アリシアの叫びが部屋に響いた。
「お金が欲しくて貴方と結婚したんじゃない!屋敷も宝石も地位もいらないわ。欲しいのは貴方だけなの!」
その瞬間だけ、ローゼンは耐えきれず顔を上げた。視線が重なる。ほんの一瞬だったが、その一瞬だけは何も隠せなかった。離れたくないことも、嫌いになったわけではないことも、苦しくて仕方がないことも、全部表情に出てしまった。
アリシアも、それに気づいた。
「ローゼン……?」
その声で我に返り、ローゼンは再び視線を伏せた。これ以上見ていれば、本当に何もかも話してしまう。
袖を掴むアリシアの手に、自分の手を重ねる。
「……すまない」
それしか言えなかった。
アリシアの指を一つずつ、静かに外していく。乱暴に振り払うことはできなかった。本当なら、その手を握り返したかった。それなのに、自分から離さなければならない。嫌われるために突き放しているのに、最後まで傷つけないように触れてしまう。その優しささえ今のアリシアには残酷だと分かっているのに、どうしても冷たく扱うことだけはできなかった。
指がすべて離れたところで、ローゼンは踵を返した。
「待って!」
すぐに追いかける声がした。
「まだ話は終わっていないわ!私は何も分かっていない!こんな一方的な話、受け入れられるはずがないでしょう!」
足を止めたら、振り返ってしまう。だから歩き続けた。
「お願い、行かないで……!」
昨夜と同じ言葉だった。昨夜は、その言葉に対してすぐ戻ると答えた。戻ったらまた隣で眠ると約束した。今は、何も返せない。
扉へ手を掛ける。
「貴方を、あれだけ愛していたのに!」
手が止まった。
「今だって愛しているわ!昨日まであれほど愛してくれた貴方が、どうして何も教えてくれないの!?私たちは夫婦になったのでしょう!一人で勝手に決めないでよ!」
最後の言葉が、最も深く刺さった。一人で勝手に決めないで。まさにその通りだった。アリシアがどうしたいのか、一度も聞いていない。危険だからという理由で、何を知るかも、何を選ぶかも、自分が勝手に決めた。彼女を守るためだと思っているが、本当に夫婦として正しいことをしているのかと問われれば答えられない。アリシアの意思を尊重しているわけではなく、むしろ彼女なら危険を承知で動くと分かっているからこそ、その選択肢自体を奪っている。
それでも、もし選ばせた結果としてアリシアが殺されたら、自分は一生耐えられない。正しくなくてもいい。恨まれてもいい。生きてさえいてくれればいい。そう思うしかなかった。
ローゼンは振り返らなかった。振り返れば、泣いているアリシアを抱き締めてしまう。抱き締めれば、もう二度と離せなくなる。それが分かっていたから、何も答えず扉を開いた。
「ローゼン!」
最後に名前を呼ばれた。
その声を背中に受けながら、廊下へ出る。そして扉を閉めた。
扉の向こうから、もう一度自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
ローゼンは目を閉じたまま、拳を強く握った。戻るな。これでいい。これでアリシアは守られる。自分を憎めばいい。二度と顔も見たくないと思ってくれればいい。
そうすれば、きっと自分から遠く離れて生きていける。何度そう言い聞かせても、胸の苦しさは少しも薄れなかった。
やがて、扉の向こうから押し殺しきれない泣き声が聞こえてきた。ローゼンはその場で俯き、今すぐ戻って抱き締めたいという衝動を必死に押し殺した。謝りたい。何もかも話して、離れたくないと伝えたい。それでも扉へ手を伸ばすことはできなかった。戻れば、次に危険へ晒されるのは自分ではなくアリシアだった。
だからローゼンは、しばらく扉の前で動けないまま立ち尽くしたあと、ようやく一歩だけ前へ進んだ。その一歩は、これまで歩いてきたどんな道よりも重かった。歩き出してからも背後を振り返ることはできなかった。振り返れば戻ってしまうし、戻れば抱き締めてしまう。そして一度抱き締めれば、もう二度と手放せないことが分かっていたからだった。
自分が選んだやり方が正しかったのかどうかなど、もう分からなかった。ただ、アリシアを死なせるくらいなら、どれほど憎まれても構わない。そう信じるしかなかった。
それでも、歩みを進めるうちに頬を伝った涙だけは、どうしても止めることができなかった。夫婦として迎えるはずだった最初の朝、扉の向こうでアリシアは泣いていた。そしてその扉のこちら側でも、ローゼンは最愛の妻を自分の手で失ったことに、声を殺して泣いていた。




