65. 四年前のあの日①【過去編・ローゼン視点】
お待たせしました!!!過去編です!!
婚約破棄した理由諸々書いております!!!
その夜、ローゼンは自室へ戻ってからもなかなか眠る気になれなかった。先王が亡くなる前の記録、何度も名前の出てきたオリーファ、そして最後の夜に持ち込まれていた濃い色の葡萄酒。昼間に確認した資料の内容が、時間が経っても頭から離れない。四年前の自分は、父が少しずつ弱っていく姿をただ病によるものだと受け入れていた。
正妃を亡くしてから精神的にも不安定になり、以前とは違う判断をすることが増えていたことも、それとは別の問題だと思っていた。けれど今になって振り返れば、あの頃の父の周囲にはオリーファがいて、父の死にも、その少し前に起きた出来事にも、彼女がいた。まだ何一つ証明されてはいない。
先王が毒殺されたと決まったわけではないし、オリーファが何かをしたと断定する材料もない。それでも、四年前のあの夜を思い出すほど胸の奥に重いものが沈んでいった。
寝台へ入り、目を閉じても眠気はなかなか訪れなかった。考えないようにしようとするほど、記憶は鮮明になっていく。あの日、自分は何を考えていたのか。何を信じていたのか。そして、何を失ったのか。やがて意識が少しずつ沈んでいくと、ローゼンの記憶は自然と四年前へ戻っていった。
◇
婚礼を終えた夜だった。
ローゼンにとって、その日はずっと先にあると思っていた未来が現実になった日でもあった。アリシアとは幼い頃から一緒にいた。互いの部屋を行き来し、くだらないことで言い争い、しばらく口を利かなくなったかと思えば、次の日には何事もなかったように同じ菓子を食べている。
婚約が決まった時も、それによって二人の関係が大きく変わったわけではなかった。周囲から見れば王太子とその婚約者であっても、二人にとっては以前と変わらず、ローゼンとアリシアだった。いつか結婚する。それはずっと当たり前のように存在していた未来であり、改めて疑うようなものでもなかった。
それでも実際に婚礼を終え、アリシアが正式に自分の妻となった時、ローゼンは初めてその言葉の重みを知った気がした。これから先、アリシアは自分の隣にいる。明日も、その次の日も。王太子として公務へ向かい、疲れて部屋へ戻れば、そこに彼女がいる。朝になれば顔を合わせ、食事をし、ときには喧嘩をして、それでも同じ場所へ戻る。これまで婚約者として別々の場所へ帰っていた二人が、これからは同じ場所で生活していく。そんな当たり前のことが、妙に嬉しかった。
ローゼンは昔から、自分の人生を自分の意思だけで選べる立場ではなかった。王太子として生まれた以上、それは当然のことだった。幼い頃から学ぶものは決められ、会う相手も、出席する場所も、将来背負う責任も決められている。何かを選ぶ時には、自分が好きか嫌いかではなく、王国にとって利益があるかどうかを先に考えなければならない。気分が乗らないから行かないという選択も、疲れているから休むという選択も、普通の人間ほど簡単には許されなかった。
それを恨んだことはない。生まれた時からそういうものだと教えられ、その責任を受け入れてきた。ただ、ときどき窮屈だった。どこへ行っても王太子として見られる。少し黙っていれば機嫌を伺われ、笑えば周囲も笑い、怒れば必要以上に空気が張りつめる。ローゼンが何を考えているのかではなく、王太子が何を考えているのかとして受け取られることが多かった。
その中で、アリシアだけは違った。彼女は昔から、ローゼンが王太子だという事実を忘れているのではないかと思うほど遠慮がなかった。疲れて無口になっていれば「機嫌悪いの?」と平然と聞き、何でもないと言えば「嘘ね」と勝手に隣へ座る。公務を理由に約束を忘れれば本気で怒ったし、ローゼンが正論を並べれば、正しいかどうかではなく「でも私は嫌なの」と言い返すこともあった。そんな彼女といる時だけは、自分が王太子であることを少し忘れられた。
だからこそ、アリシアとの結婚は、単に王太子として相応しい婚姻というだけではなかった。家同士が決めた婚約から始まったとしても、最後に彼女と生きたいと思ったのは自分自身だった。王太子として用意された人生の中で、それだけは自分が心から望んだものだった。
それは、運命としかいいようのない恋愛結婚だったのだ。
二人きりになってからも、アリシアはいつもと変わらなかった。夫婦になったからといって急に畏まることもなければ、ローゼンへ妙な遠慮をすることもない。むしろ普段以上に距離が近く、当然のようにこちらへ寄ってくる。そんなアリシアに振り回されることさえ、ローゼンには嬉しかった。結婚したからといって、昨日までの二人が消えてしまうわけではない。今までの関係が、そのまま夫婦として続いていく。そう思えたことに、安心していた。
夜がかなり深くなってからも、ローゼンはなかなか眠れなかった。緊張していたからではない。むしろ逆だった。妙に満たされていた。隣にアリシアがいる。少し手を伸ばせば触れられる距離にいて、息遣いも、体温も全てを感じられる。それだけのことが、なぜか眠ってしまうのが惜しいほど嬉しかった。
アリシアはそんなローゼンの気持ちなど知らず、これからの暮らしについて好き勝手に話していた。
「朝はなるべく一緒に食べたいわ。毎日は無理でも、できるだけね」
「毎日は難しいかもしれないね」
「最初から諦めないでよ。毎日とは言ってないでしょう?忙しいのは分かってるけど、夫婦になったのに何日もまともに顔を合わせないのは嫌なの」
「分かった。できる限り時間は作る」
「できる限り、じゃなくて努力するの」
「……努力する」
そう答えると、アリシアは満足そうに笑った。そのまま、たまには昔のように王宮を抜け出して城下を歩きたいことや、何でもない日に一緒に食事をしたいことまで話し始める。王太子という立場では簡単ではないこともあるだろう。それでも、ローゼンは全部叶えたいと思った。国のために諦めなければならないことはこれから先いくらでもある。だからせめて、アリシアが望む程度の小さな幸せまで奪いたくはなかった。
そのうち、話は子どものことにまで及んだ。まだ何も決まっていないのに、アリシアは自分に似た子がいいなどと言い始める。
そんなアリシアの顔は楽しそうだった。
ローゼンもつられるように、その未来を思い描いた。これまで漠然と跡継ぎが必要だと考えたことはあった。王太子である以上、いずれ子を持つことも義務の一つだと理解している。けれど、その夜初めて、それを義務ではなく自分の子どもとして想像した。アリシアに似てよく笑う子でもいい。自分に似て少し無愛想な子でもいい。どちらでもよかった。二人で育てるのだから。
父親になることへの不安がなかったわけではない。自分は良い父親になれるのか。将来、父のような王になれるのか。まだ小さい頃、それこそまだ母が生きていた頃は、ローゼンにとって、先王はまだ尊敬する父だった。
正妃を亡くしてから少しずつ様子がおかしくなっていたとはいえ、それ以前の姿まで否定することはできない。幼い頃から見てきた父は、厳しくも国を第一に考える王だった。
自分もいつか、その重責を背負う。その時、正しく判断できるのか。子どもが生まれた時、王太子や国王ではなく、父親として向き合えるのか。そんな不安を抱いても、隣にアリシアがいるなら何とかなるような気がしていた。
自分に足りないものを、彼女は昔から当たり前のように補ってきた。ローゼンが立ち止まれば、アリシアが勝手に引っ張っていく。アリシアが勢いだけで進めば、ローゼンが止める。昔からそうだった。きっとこれからもそうなのだと思っていた。
「これからも、ずっと隣にいるわ」
アリシアが何気なく言った。特別な誓いのように口にしたわけではなく、これからの生活を話す中で自然に出てきただけの言葉だった。だからローゼンも、深く考えることなく頷いた。離れる未来など存在しないと思っていたし、むしろ自分の方こそ彼女を離すつもりなどなかった。何十年経っても隣にいる。それは二人にとって、わざわざ誓うまでもない当然の未来だった。
その少し後だった。
深夜にもかかわらず、扉の向こうから控えめな声がした。王からの呼び出しだった。しかも、至急。
ローゼンはさすがに眉を寄せた。婚礼当日の、それもこんな時間である。よほど重大なことなのだろう。父の体調が急変したのかもしれない。あるいは国境や政務に関わる緊急の知らせか。まさか、それが数時間前に始まったばかりの自分たちの結婚そのものに関する話だとは、ほんの少しも考えなかった。
ローゼンが身支度を始めると、アリシアは露骨に不満そうな顔をした。
「今日くらい放っておけばいいのに」
「至急と言われている以上、そういうわけにもいかない」
「王太子って、本当に面倒ね」
本当はローゼンも同じ気持ちだった。今夜くらいは王太子であることを忘れたかった。国のことも、仕事のことも考えず、ただアリシアの夫として隣にいたかった。けれど、王からの呼び出しを無視することはできない。上着を整えながら立ち上がると、アリシアが少し名残惜しそうにこちらを見た。
「すぐ戻る?」
「ああ。すぐ戻る。用事が済んだら、またここで寝る」
そう言って、今度はアリシアの額へ軽く口づけてからアリシアを抱き寄せた。
彼女はようやく納得したように頷いた。
その言葉に嘘はなかった。本当に、少し部屋を離れるだけのつもりだった。用事を済ませたら戻る。戻ったらまたアリシアの隣で眠る。朝になれば、二人で初めての朝を迎える。そう思っていたから、何の迷いもなく部屋を出た。
王の私室へ向かう途中も、ローゼンが考えていたのは早く用事を終わらせることばかりだった。今夜くらいこれ以上仕事をしたくない。アリシアを待たせたくない。あまり遅くなれば、きっとまた怒られる。それでも戻れば、最後にはいつものように笑うだろう。そんな、ごく普通のことを考えていた。
◇
扉が開き、中へ足を踏み入れた瞬間、最初に感じたのは違和感だった。そこにいたのは、王とオリーファだけだった。国に関わる重大な話なら、宰相や重臣がいるはずだった。父の体調についてなら、医師や側仕えがいてもおかしくない。けれど誰もいない。
王は痩せていた。正妃を亡くして以降、父は目に見えて弱っていた。身体だけではない。以前なら決してしなかったような判断をしたり、些細なことで激昂したりすることも増えていた。ローゼンはそれを、病と喪失のせいだと思っていた。最愛の妻を失ったのだから、簡単に立ち直れるものではない。時間が経てば戻る。そう信じていた。
「アリシアと別れろ」
一瞬、意味が分からなかった。
「……何を仰っているのですか」
婚礼はもう終わっている。数時間前に夫婦になったばかりだ。今日まで何年も婚約してきた相手と、ようやく正式に結ばれた。それを、なぜ今になって別れろと言われるのか。
先王は同じことを繰り返し、そこで初めてレインフォート領で巨大な金脈が見つかったことを聞かされた。ローゼンにはますます意味が分からなかった。金脈が見つかったのなら、王国にとっても喜ばしいことのはずだった。その話が、なぜアリシアとの離縁へ繋がるのか。
説明したのは主にオリーファだった。金脈が発見された時期が不自然であること。レインフォート家が以前から存在を把握しながら、王家へ報告せず隠していた可能性があること。そして、アリシアを通じてローゼンへ影響を与え、将来的に王家を操ろうとしていたのではないか。
聞けば聞くほど、胸の奥に強い不快感が広がった。金脈の話ではない。アリシアとの関係を、そんな打算だけで説明されたことが許せなかった。
アリシアはレインフォート家が送り込んだ駒ではない。それは彼女の実家も分かっていた。
幼い頃から一緒にいて、何度も喧嘩をし、意地を張り合い、互いに謝れず気まずくなったこともある。それでも嬉しい時には真っ先に知らせ、辛い時には言葉がなくても隣にいた。互いの格好の悪いところまで知って、それでも一緒にいることを選んできた。
それを、王太子を操るための関係だと言う。
何も知らないくせに。
自分たちの何を知っているのだ。
怒鳴りたくなるほど腹が立った。それでもローゼンは、感情だけで話すことを避けた。
「なら、正式に調べれば済む話でしょう。金脈がいつ見つかったのか、レインフォート家が本当に隠していたのか、アリシアがそれを知っていたのか。調査すれば分かります」
疑いがあるなら調べればいい。それで問題がなければ終わる。もし問題があるなら、その時に対処すればいい。それが当然だと思っていた。
しかし先王は首を横に振った。
「お前がそこまで庇うこと自体、すでにあの女に操られている証拠だ」
その言葉を聞いた瞬間、ローゼンは言葉を失った。
かつての父なら、そんなことは言わなかった。息子が強く反論したからと、それだけで疑いを深めるような人ではなかった。理由を聞き、事実を確認し、そのうえで判断する。ローゼンが尊敬していた王は、そういう人だった。だからこそ、目の前にいる父が本当に以前とは違ってしまったのだと、その時初めて認めざるを得なかった。
「離縁はしません」
ローゼンははっきりと言った。
「アリシアはもう私の妻です。何の証拠もない疑いだけで手放すつもりはありません。私は彼女を心の底から愛しています。父上も分かっているはずではありませんか」
たとえ王命でも従う気はなかった。その時点では、本気でそう思っていた。父が何を言おうと、アリシアは守る。自分の妻なのだから。それで済むと思っていた。
だが、王はまるで最初から準備していたかのように次の言葉を口にした。
「拒むなら、レインフォート家を反逆者として処罰する」
ローゼンの表情が変わった。
「……何を」
「必要なら、一族もろとも斬首する」
「なぜ、そこまで!そんな事を言うのですか!!」
初めて声が荒れた。それまで胸の中にあったのは怒りだったはずなのに、その瞬間には、それ以上に強い恐怖が込み上げていた。
父の目を見る。冗談ではない。脅しでもない。この男は本気で命令を出すつもりなのだと分かった。判断を誤っているのだとしても、今この瞬間、父は国王だった。
王命を出せるし、兵を動かせるし、人を殺せるのだ。
ローゼンは必死に別の道を探した。自分が責任を持って調査する。金脈を王家の管理下へ置いてもいい。レインフォート家へ監査を入れても構わない。必要なら財産の一部を王家へ差し出させてもいい。アリシアとの離縁以外なら、ほとんど何でも受け入れるつもりだった。
だが、先王は聞かなかった。
「問題は金脈だけではない。レインフォート家そのものが危険なのだ」
何度話しても、返ってくるのは同じ言葉だった。
「……わかりました。そうします。アリシアに話してきます」
その隣でオリーファは、王をなだめるような態度を見せていた。だが、不思議なことに一度も「離縁までは必要ない」とは言わなかった。父を落ち着かせているように見えるのに、結論だけは最初から一度も動かない。まるで、そこへ辿り着くことだけが決まっているようだった。
時間が経つにつれ、ローゼンは何度もアリシアのことを思い出した。きっと今も待っている。もしかすると眠らずにいるかもしれない。戻ったら少し怒られるだろう。遅い。どれだけ待たせるの。そんなことを言われるかもしれない。それでも最後には笑ってくれる。つい数時間前まで、そんな未来しかなかった。
自分自身だって耐えられない。初めて愛し、愛された女性と別れるか死を選べなんて選択肢は。
アリシアを選べば、彼女を含めた家族を失う。
そして手放せば、アリシア本人が許すはずがない。そして、自分も許し難い事だ。
夜が明け始めても、ローゼンはまだ離縁を受け入れ難かった。
窓の外が少しずつ白み始めていた。夜が終わる。アリシアが待っている部屋へ戻らなければならない。
その時、ローゼンの頭に、ほんの少し前に聞いたばかりの声が蘇った。
――これからも、ずっと隣にいるわ。
自分も同じつもりだった。離すつもりなどなかった。何があっても守るつもりだった。それなのに今は、その約束を守ろうとすることが、彼女の死に繋がるかもしれないのだ。
それでもアリシアを選ぶと言えるのか。
ローゼンは窓の外の白み始めた空を見つめたまま、初めて考えてしまった。
――別れるしか、ないのか。
その考えが頭に浮かんだ瞬間、胸の奥が冷たくなった。否定したかった。そんなはずはないと思いたかった。何か別の方法がある。まだ探せる。そう思っていた。
そしてローゼンは、初めて自分の望みよりも、アリシアを自分から遠ざけることの方が彼女を守れるのではないかと考えてしまったのだった。
その夜が明ける前に、それを自分の手で捨てなければならないかもしれないなど、あの時のローゼンはまだ受け入れることができなかった。




