62. 舞踏会にて
王太子就任式からしばらく経った頃、王宮では久しぶりに大きな舞踏会が開かれた。奇襲事件の直後ということもあり、警備は以前より明らかに厳しくなっていたが、広間そのものはいつも通り華やかだった。第一近衛と第二近衛の騎士たちは会場内外の要所へ配置され、招待客の確認もこれまで以上に徹底されている。それでも、そうした物々しさを必要以上に表へ出すことはなく、広間には楽団の演奏が響き、天井から吊るされた燭台の光が磨かれた床や貴族たちの衣装を照らしていた。王太子就任を巡る騒動や奇襲によって緊張の続いていた王宮も、ようやく少しずつ以前の日常を取り戻し始めている。
アリシアも正式な招待客として舞踏会へ参加していた。ミレイユに整えてもらった髪には、誕生日にローゼンから贈られた髪留めが使われている。淡い宝石の控えめな装飾は今日の衣装にもよく馴染んでおり、本人としては単純に気に入ったから身につけているだけだった。ミレイユも朝から何も言わずに髪へ留めてくれたが、鏡越しにほんの少し嬉しそうな顔をしていたことには気づいている。それでもアリシアはわざわざ理由を説明しなかったし、外してとも言わなかった。
ローゼンは国王として多くの貴族や高官から挨拶を受けていたため、最初からアリシアと行動を共にしていたわけではない。アリシアも顔見知りの者たちと話しながら過ごし、時折エドガーの方へ目を向けていた。王太子となったエドガーも最初だけは会場へ顔を出しており、周囲から向けられる礼にまだ少し緊張しながらも、教えられた通りに応じていた。
もっとも、まだ四歳である。大人たちに交じって夜遅くまで付き合わせる必要もなく、一通り挨拶を終えたところで早めに退出することになった。
「まだねむくないよ」
そう言いながら小さく欠伸をしたエドガーに、アリシアは思わず笑った。そのそばには第二近衛騎士団隊長のユリウスが立っている。奇襲で負った傷はかなり回復しており、まだ完全に元通りというわけではないものの、今夜は任務へ戻っていた。
ユリウスが自然に片手を差し出すと、エドガーは迷うことなくその手を握った。
「じゃあ、いってくる」
「ええ。おやすみなさい。ちゃんと休むのよ」
エドガーはユリウスと手を繋いだまま広間を出ていき、途中で一度だけ振り返ってアリシアへ小さく手を振った。王太子となったからといって、ユリウスとの距離まで急に変わるわけではない。そんな二人の姿を見送りながら、アリシアも小さく手を振り返した。
それからしばらくして、アリシアは会場の端で一息ついていた。何人かとの会話を終え、人の波から少し離れたところでようやく肩の力を抜く。そこへ、挨拶回りをひと通り終えたローゼンが近づいてきた。
「やっと少し空いたの?」
「ああ。しばらくは大丈夫そうだ」
ローゼンが隣に立っても、アリシアは以前ほど身構えなかった。誕生日の日、自分からローゼンの頬へ口づけたことについて、本人はあれから何も言ってこない。からかわれることも、意味を問いただされることもなかったので、その点ではかなり助かっていた。
ちょうどその時、広間に流れていた曲が終わり、新しい曲へ変わった。ローゼンは会場の中央へ視線を向けたあと、自然な動作でアリシアへ片手を差し出す。
「一曲、どうだ?」
アリシアは差し出された手を見てから、周囲へ一度だけ目を向けた。国王と、その元妻である自分が一緒に踊れば目立つことくらい分かっている。二人がまだ正式に復縁していないことも、ここにいる者の多くが知っているだろう。
それでも、断る理由までは思いつかなかった。
「……一曲だけよ」
そう言ってローゼンの手を取る。
二人が会場の中央へ進むと、やはり周囲からいくつもの視線が向けられた。露骨に囁き合う者こそいないものの、意識されていることくらいはアリシアにも分かる。それでも曲が始まると、すぐに意識はローゼンの方へ向いた。
「……やっぱり見られてるわね」
「気になるか?」
「あなたは慣れてるでしょうけど、私は嫌なのよ」
そう言いながらも、アリシアの足は止まらなかった。ローゼンもそれ以上何も言わず、そのまま一曲を踊りきる。
曲が終わると、二人は互いに礼をした。本来ならそこで別れてもよかったが、会場の熱気と集まる視線に少し疲れたアリシアは、そのまま外の空気を吸おうとテラスへ向かった。
扉を抜けると、広間の音楽は遠くから聞こえる程度になった。夜風が火照った頬に心地よく、アリシアは手すりの近くまで歩いて小さく息を吐く。少し遅れてローゼンも出てきたが、何かを尋ねるでもなく、そのまま隣へ立った。
「エド、もう寝てるかしら」
「ユリウスと出ていった時点でかなり眠そうだったからな。部屋へ着く頃には寝ていてもおかしくない」
「最後まで眠くないって言い張ってたのにね」
アリシアは少し笑った。王太子になったからといって、エドガー自身が急に変わったわけではない。眠くなれば欠伸をするし、遊びたければ遊びたがる。さっきもユリウスの手を握って素直に帰っていった。その姿を思い返すと、それでいいのだと思えた。
二人はそのまましばらく庭を眺めながら、舞踏会のことやエドガーの話をしていた。二人きりになったからといって、毎回何か大切な話をしなければならないわけではない。話題が途切れても、無理に次を探す必要はなかった。静かな夜風に当たりながら隣に立っているだけでも、以前のような居心地の悪さは感じない。
やがてローゼンの視線が、アリシアの髪へ向いた。
「その髪留め、似合っている」
何のことかすぐに分かり、アリシアは少しだけ目を逸らした。
「そう。ならよかったわ」
それだけだった。せっかくもらったから使っているだけだと説明する必要もなければ、気に入っていないふりをする理由もない。今では普段から使っていることも、ローゼン自身が当然知っているだろう。
再び静かな時間が流れたあと、ローゼンの手がアリシアの指先へそっと触れた。
アリシアは一度、その手へ視線を落とした。
ローゼンはそのままゆっくり手を取り、しばらく何もせずにいた。アリシアも黙ったまま、その手を預けている。昔なら何でもなかったことなのに、今はそれだけでも少しだけ胸が騒いだ。それでも、嫌だとは思わなかった。
やがてローゼンはアリシアの手を少し持ち上げ、その甲へ静かに口づけた。
ほんの短いものだった。
アリシアは僅かに目を見開いたものの、手を振り払わなかった。ローゼンが顔を上げても、その手はまだ重なったままだった。
「……全くもう。私は許した覚えはないんだけど」
言葉だけなら以前と変わらないが、口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
「分かっている」
ローゼンもそれ以上は何もしなかった。からかうことも、さらに距離を詰めようとすることもなく、ただアリシアの手を取ったまま夜の庭を眺めている。
アリシアも、すぐに離す理由を見つけなかった。
広間から流れてくる音楽と、庭を抜ける夜風だけが二人の間を通り過ぎていく。会話はほとんどなかったが、沈黙が気まずいとは感じなかった。
やがて新しい曲が聞こえてきたところで、アリシアは自然にローゼンの手を離した。
「そろそろ戻りましょう」
二人でテラスを離れ、広間へ続く扉まで歩いていく。扉の前まで来たところで、アリシアは少しだけローゼンの方を見た。
「一曲だけのつもりだったのに、随分長く付き合っちゃったわね」
そのままローゼンの隣を歩き、二人で再び舞踏会の明かりの中へ戻っていく。
その距離はもう以前とは大きく変わり始めていた。




