60. 初酒のアリシア
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エドガーが正式に王太子となった日の夕方、式典を終えた本人はさすがに一度は疲れ果てていたものの、少し休むとすぐに元気を取り戻していた。しばらく部屋で横になっていたかと思えば、今度は第二近衛騎士団のところへ遊びに行きたいと言い出し、夕方になっても戻りたがらないほど楽しんでいるらしい。ユリウスやノアたちも、王太子になったからといって急に距離を置くことはなく、これまでと変わらずエドガーの相手をしてくれていた。アリシアもローゼンも、ようやく普段の様子へ戻りつつある息子を無理に連れ戻すことはせず、そのまま任せることにした。
その夜、二人はローゼンの自室で、エドガーの王太子就任をささやかに祝うことにした。大掛かりな宴ではなく、今日という日を無事に終えられたことを二人だけで労う程度のもので、卓上には軽い料理と酒が用意されている。アリシアが何の躊躇もなく酒杯へ手を伸ばしたところで、ローゼンはふと、彼女が酒を飲んでいる姿をこれまで一度も見たことがないと気づいた。
「そういえば、君が酒を飲むところは初めて見るな」
「私は今日が初めてよ。四年前はまだ飲める年齢じゃなかったし、その後はエドを育ててたもの。夜中に何があるか分からないのに、自分から酔おうなんて思わなかったわ」
辺境の村に酒がなかったわけではない。ただ、一人で幼いエドガーを育てていたアリシアには、自分がまともに動けなくなる可能性のあるものへ手を出す余裕がなかった。それを聞いたローゼンは少し黙ったものの、今日はその四年間について掘り下げようとはしなかった。ただ、初めてなら量は控えた方がいいとだけ忠告する。
「少しずつ飲むから平気よ」
アリシアはそれほど気にした様子もなく酒へ口をつけた。本人には適量というものが分からず、思っていたよりも飲みやすかったこともあって、一杯目を空けても特に警戒することはなかった。
「エド、ちゃんと最後まで立ってたでしょう。途中なんて、私の手を握る力がすごかったけど」
「あれだけの人数に見られていたからな。それでも十分立派だった」
ローゼンの言葉にアリシアも頷き、また酒杯へ口をつけた。話しているうちに自然と杯は進み、本人が気づかないまま少しずつ酒が回り始める。
最初に変わったのは笑う回数だった。普段よりよく笑い、話題も次々と移り、ローゼンへ向ける言葉にも妙な素直さが混じるようになる。それでも本人はまったく酔っていないつもりらしく、頬がかなり赤くなっていることにも気づいていない。
そしてローゼンが気づいた時には、向かい側に座っていたはずのアリシアが、いつの間にか自分の隣へ移っていた。
「アリシア……近くないか」
「別に隣に座ったくらいで何なのよ」
アリシアは気にした様子もなく、そのまま肩まで寄せてくる。普段なら自分から一定の距離を保とうとするはずなのに、今日はその気配がまるでなかった。ローゼンがどう接するべきか迷っていると、それすら気に入らなかったのか、今度は袖を掴まれて身体を自分の方へ向けられる。
「昔はこれくらい普通だったでしょう」
その言葉を聞いて、ローゼンは目の前のアリシアに四年前までの姿を重ねた。昔の彼女は、好きな相手に対してここまで慎重ではなかった。自分から近づき、触れたければ触れる。ローゼンが何かを躊躇えば、その方が気に入らないとでもいうようにアリシア自身が距離を潰していた。
「最近のあなた、遠慮しすぎなのよ。本当にもう!私がいるのに」
「遠慮しなければ、それはそれで怒るだろう」
「怒る時は怒るわ。でも、だからって何もしないのも違うのよ」
随分と理不尽な話だったが、酔っているアリシア本人にはまるで問題ではないらしい。言いたいことを言い切ると、今度はローゼンの腕へ自分の腕を絡め、そのまま身体を寄せた。
「昔みたいに甘やかしなさいよ」
ローゼンは少し迷った末、アリシアの頭へ手を置いた。酒に酔っていることを利用して距離を進めるつもりはない。ただ、本人が求めている程度なら応じてもいいだろうと、ゆっくり髪を撫でる。
するとアリシアは拒むどころか、気持ちよさそうに目を細め、その手へ自分から頭を寄せた。
「……そう。昔はこれくらい普通にしてくれたでしょう」
満足したらしく、そのままローゼンの肩へ頭を預ける。腕も絡めたままで、二人の間にはほとんど隙間がなくなっていた。普段のアリシアなら、ここまで近づいた時点で自分から意識して離れてしまう。それが今日は何の迷いもなくローゼンへ身体を預けている。その距離だけを見れば、四年前までの二人とほとんど変わらなかった。
「あなた、昔はもっと私のこと甘やかしてくれたじゃない」
「今も甘やかしたいとは思っている」
「じゃあ甘やかしなさいよ」
アリシアはそう言って笑った。けれど、しばらくするとその笑い方が少しだけ静かなものへ変わった。ローゼンの肩へ頭を預けたまま、酒杯にはもう手を伸ばさず、小さく息を吐く。
「私だって、本当はもっと普通にしたいのよ」
それまでとは違う声音に、ローゼンは何も言わず続きを待った。
「昔みたいに何も考えず話したり、近くに座ったりできたら楽なのに。今は何をするにも四年前のことを思い出すでしょう。あなたが少し近づいただけでも変に意識するし、自分でも面倒なのよ」
アリシアは目を閉じたまま、絡めていた腕へ少し力を込めた。
「昔なら、こんなこといちいち考えなかったのにね」
好きだと思えば自分から近づき、ローゼンが煮え切らなければアリシアの方から押してしまう。それが四年前までの二人だった。だからこそ、今の距離が余計に煩わしいのだろう。
「……あなたのこと、本当に嫌いになれてたら、こんなに面倒じゃなかったのよ。四年間ずっと腹が立ってたし、何度ももう知らないって思ったのに……それでも、嫌いにはなれなかったんだから」
ローゼンの表情が僅かに変わった。
それでも、都合のいい意味に受け取ることはしなかった。今も愛していると言われたわけではない。復縁したいと言われたわけでもない。ただ、四年間離れていても完全には消えなかったものがあると、アリシア自身の口から初めて聞いただけだった。
ローゼンが黙ったままでいると、アリシアは少しだけ顔を上げた。
「何か言いなさいよ」
「君がこうして私の隣にいてくれるだけで、今は十分嬉しい」
「……そういう言い方、ずるいのよ」
小さく文句を言いながらも、アリシアは離れようとはしなかった。むしろもう一度ローゼンの肩へ頭を戻し、そのまま身体を預ける。
そこからは急に眠気が強くなったらしく、さっきまでよく喋っていたアリシアの言葉も少しずつ減っていった。ローゼンが頭を撫でると、そのたびに安心したように目を細める。
「今日はもう少し、このままでいたい」
アリシアは、ほとんど抱きつくようにローゼンへ身体を預け、そのまま目を閉じた。やがて呼吸がゆっくりと一定になり、完全に眠ってしまったことが分かる。
エドガーは第二近衛のところで遊び疲れ、騎士の近くで休んでいる。ローゼンは眠ったアリシアを無理に起こして自室まで戻すことはせず、そのまま自分の寝台へ寝かせた。靴を外し、寝具を整える。それ以上何かをすることはなく、自分は別の場所で休むことにした。
◇
翌朝、アリシアは頭の重さと喉の渇きで目を覚ました。ぼんやりと天井を見つめ、しばらくしてから自分の部屋ではないことに気づく。ゆっくり身体を起こして周囲を見回したところで、ここがローゼンの寝室だと分かった。
昨夜の記憶を辿る。エドガーの王太子就任を祝って酒を飲み始めたところまでははっきり覚えている。しかし、その先になるとところどころ抜け落ちていた。ローゼンの近くへ座った気はする。肩へ寄りかかっていたような記憶もある。それ以上を思い出そうとすると、頭の重さとは別の意味で嫌な予感がしてきた。
しばらくしてローゼンが部屋へ戻ってくると、アリシアは寝台の上からしばらく彼を見つめた。
「私、昨日、何か変なことした?」
「……まぁ、アリシアにしては随分素直だった」
アリシアの顔が一気に赤くなった。
さらに思い出そうとすれば、もっと余計なものまで戻ってきそうだった。自分から身体を寄せ、昔のように触れていたことまでは何となく分かる。それ以上は掘り返さない方がいいと、本能的に判断した。
「もう二度と飲まないわ」
きっぱり宣言すると、ローゼンは少しだけ残念そうな表情を浮かべた。
アリシアはそれが気になったものの、昨夜のことを詳しく聞けば自分が後悔するだけだろうと思い直した。結局、「嫌いにはなれなかった」とまで口にしたことには気づかないまま、二日酔い気味の頭を押さえてローゼンの部屋を出ていった 。




