59. 王太子の就任
正式な王太子就任式の日を迎えた朝、エドガーはいつもより早い時間から身支度を整えられていた。以前から何度も試着してきた礼装ではあったものの、実際に式典当日を迎えて袖を通してみると、普段の服よりずっと重く、襟元や袖、上着の縁にまで細かな装飾が施されている。ミレイユをはじめとした侍女たちに囲まれながら、エドガーは何度か腕を動かしたり、上着の裾を気にしたりしていたが、何度も練習してきたこともあって大きく嫌がることはなかった。少し前なら途中で飽きてしまっていたかもしれないが、今日は自分が何をする日なのかを幼いなりに理解しているらしく、いつもより大人しく侍女たちに任せている。
「エドガー様、少しだけこちらを向いてください」
ミレイユに言われ、エドガーは素直に身体の向きを変えた。ユリウスの負傷を知った直後こそかなり取り乱していたミレイユも、今は普段通りアリシア付きの侍女として仕事をしている。ただし、何度か襟元を確認しては少し離れ、また近づいて確認する姿を見る限り、本人も今日という日に多少緊張しているのだろう。
「これで大丈夫です。とてもよくお似合いですよ!」
「ほんと?」
「はい!本当に」
その返事にエドガーは少しだけ嬉しそうな顔をしたが、すぐに装飾のついた袖へ視線を落とした。綺麗だとは思っていても、やはり普段着ほど楽ではないらしい。
そこへ、同じく式典に合わせた装いを整えたアリシアが入ってきた。エドガーは母親の姿に気づくとすぐ顔を上げる。アリシアも普段とは違う華やかな衣装をまとっていたが、息子へ向ける態度まで改まったものにはならなかった。侍女たちの作業がほとんど終わっていることを確認してから近づき、襟元と袖を一通り見て、肩の辺りにわずかな乱れを見つけると指先で整える。
「苦しくない?」
「ちょっと重いけど、だいじょうぶ」
「そう。ならいいわ。歩きにくかったら今のうちに言いなさいよ」
「歩けるよ。いっぱい練習したもん」
少し誇らしげに答えるエドガーを見て、アリシアは小さく笑った。それ以上「頑張りなさい」と何度も励ますことはしなかった。それがかえって緊張させるだけだと思ったからだ。
式の直前になると、ローゼンも二人のもとへ顔を出した。すでに国王としての装いを整え、このあとの進行についても確認を終えている。普段より厳かな衣装をまとっているせいもあって、一見すればいつも以上に近寄りがたく見えるものの、エドガーの前まで来ると一度だけ全身を確認し、襟元にも目を向けた。
「苦しくないか?」
「だいじょうぶ」
それだけの短いやり取りだったが、エドガーの肩から僅かに力が抜けた。
奇襲を受けた直後ということもあり、王宮内の警備は以前より大幅に強化されていた。第一近衛と第二近衛の双方が要所へ配置され、式典へ参加する貴族や高官についても事前の確認が徹底されている。ただし、会場そのものを騎士で埋め尽くしてしまえば、本来祝うべき王太子就任式が物々しいものになってしまう。そのため警備の多くは会場周辺や出入口、普段なら目立たない位置へ配置され、式典の雰囲気を壊さない範囲で最大限の警戒が行われていた。
第二近衛ではユリウスが負傷のため休養しており、今日は別の騎士が現場をまとめている。ノアも軽傷だったことから必要な確認を終えて任務へ復帰し、他の騎士たちとともに警備へ加わっていた。第一近衛もクラウスを中心に配置され、奇襲の直後だからこそ、今度は何者にも近づかせないという意識が王宮全体に共有されている。
式典が行われる広間には、すでに多くの貴族や高官、王宮の主要な臣下たちが集まっていた。エドガーがローゼンの実子であることは血縁確認によって正式に証明されており、今日ここで王太子へ就任すれば、これまで揺れていた次代の王位継承について一つの明確な答えが示されることになる。
会場へ続く扉の前まで来た時、エドガーはまだ比較的落ち着いていた。ここまで何度も同じ場所を歩き、どこで止まり、どちらへ向けばいいのかも教えられている。けれど、実際に大きな扉がゆっくりと開き、その向こうに並ぶ大勢の大人たちから一斉に視線を向けられた瞬間、エドガーの足が僅かに止まった。
エドガーは一度だけアリシアを見上げた。
アリシアは何も言わず、普段と同じように目を合わせる。
それだけで十分だったらしく、エドガーはもう一度正面を向き、練習してきた通りに歩き始めた。最初こそ少し硬かった歩き方も、何歩か進むうちに落ち着いていく。ただ、広間の中央へ近づくほど周囲から向けられる視線の数は増え、エドガーの肩にも少しずつ力が入っていった。
所定の位置へ辿り着いたところで、エドガーの手が小さく動いた。
隣に立っているアリシアの手を探している。
アリシアはすぐに気づき、差し出された小さな手をそのまま握った。エドガーも安心したように指へ力を込める。
広間には大勢の臣下がいる。これから王太子となる者が、式典の最中に母親の手を握っている姿を見て何か思う者もいるかもしれない。それでもアリシアは離させるつもりなどなかった。四歳の子どもが大勢の大人に囲まれ、緊張して母親の手を求めただけである。それを王太子らしくないという理由で拒む方が、よほどおかしいと思った。
やがて進行役の声が広間へ響き、正式な儀式が始まった。内容は古くから続く形式に沿ったものではあったが、長大な言葉を延々と並べるようなものにはせず、必要な手順だけを一つずつ進めていく。今日の中心にいるのが四歳の子どもであることも考慮されており、エドガーが最後まで無理なく立っていられる程度にまとめられていた。
エドガーも事前に教えられた通り、一つずつ動作をこなしていった。最初に立つ位置、身体の向きを変える場所、礼をするタイミング。何度も繰り返したことなので大きく間違えることはなかったが、途中で一度だけ次に何をするのか分からなくなったらしく、少し迷ったように視線を動かした。近くにいた進行役が不自然にならないよう僅かに位置を示すと、すぐに思い出したように動き出す。アリシアもローゼンもそこで露骨に助けたりはせず、エドガー自身が最後まで進めるのを見守っていた。
式が進むにつれて、広間の空気も次第に引き締まっていった。血縁確認によってエドガーが国王ローゼンの実子であることはすでに公のものとなっている。しかし、実子として認められることと、正式な後継者として定められることは同じではない。今日の宣言をもって初めて、エドガーは国王の息子という立場から、次代を継ぐ者として公に位置づけられる。
やがて儀式の最後を迎え、ローゼンが一歩前へ出た。それまでエドガーの父親として隣にいた時とは違い、ここから口にするのは国王としての言葉だった。広間が静まり返り、多くの視線がローゼンとエドガーへ集まる。
「血縁確認により、エドガーが私の実子であることはすでに正式に証明されている。本日、その血統とこれまでの確認をもって、次代の王位を継ぐ者として正式に認める」
余計な言葉は加えなかった。
ローゼンはエドガーを見たあと、広間に集まった者たちへ向けて、はっきりと宣言した。
「エドガー・クライゼンを、王太子とする」
その言葉が広間へ響いた直後、集まっていた貴族や高官、臣下たちが一斉に頭を下げた。
突然、自分よりずっと年上の大人たちが一斉に礼を向けたことで、エドガーは僅かに目を見開いた。練習では何度も説明されていたものの、実際にこれだけの人数を目の前にすれば、やはり話で聞くのとは違うのだろう。周囲を見そうになったものの、そのまま逃げ出したり母親の後ろへ隠れたりすることはなく、アリシアの手を握ったままきちんとその場に立っていた。
式典はそのまま滞りなく進み、混乱が起きることもなかった。奇襲の影響を感じさせるような騒ぎもなく、警備に当たっていた騎士たちも最後まで持ち場を守っている。何者かが阻止しようとしたであろう王太子就任は、予定通り成立したのだった。




