58. それでも王太子になる
奇襲から数日が過ぎ、エドガーも少しずつ普段の様子を取り戻し始めていた。
しかし、夜になれば少しの物音で目を覚ますことがあり、一人になることを嫌がることも増えている。それでも、アリシアとローゼンが近くにいる時には笑うことも増え、昼間には玩具を広げて遊ぶようにもなっていた。
王太子就任式の日程は、もう目前まで迫っている。礼服も仕上がり、当日の流れもほとんど決まり、あとは予定通りその日を迎えるだけだった。しかし、アリシアの中には奇襲以前にはなかった迷いが生まれていた。エドガーが正式にローゼンの実子だと認められ、後継者として立場を固めることには意味がある。王位継承を巡る争いを終わらせるためにも必要なのだと、頭では理解している。それでも、その立場へ近づいた直後に命を狙われたという事実は、母親として簡単に受け流せるものではなかった。
その日はエドガーが昼寝をしている時間を選び、アリシアはローゼンと二人で話すことにした。寝台ではエドガーが穏やかな寝息を立てており、奇襲の日以来、こうして安心して眠っている姿を見るだけでも少しほっとする。アリシアはしばらくその寝顔を見つめていたが、やがてローゼンへ視線を向けた。
「この子を王太子にしたら、これからも狙われるんじゃないの?」
最初から遠回しな言い方をするつもりはなかった。ローゼンもすぐには答えず、眠っているエドガーへ一度目を向ける。
「可能性がないとは言えない」
聞きたくなかった答えではあったが、簡単に「大丈夫だ」と言われるよりはよかった。ローゼンはアリシアを安心させるためだけに都合のいいことを言わなかった。
「王太子になれば、エドガーを邪魔だと思う者が出てくる可能性はある。今回の襲撃が誰の命令だったのかはまだ分かっていないが、少なくとも王位継承に関係している可能性は高いと思っている」
「だったら……」
アリシアはそこまで口にして、続く言葉を飲み込んだ。ならば王太子にしなければいい。その考えが浮かばなかったわけではない。しかし、それで本当に何もかも解決するわけではないことくらい、自分でも分かっていた。
ローゼンも同じことを考えたらしい。
「ただ、王太子にしなければ安全になるわけでもない。エドガーが私の息子だと正式に認められた事実は変わらないし、王位継承に関わる立場から外れるわけでもない。称号を与えなくても、利用したい者も、排除したい者も出てくる可能性がある」
アリシアは黙ったまま聞いていた。
「それに、後継者を中途半端なままにする方が長期的に見て、危険だ」
「……分かってるわ」
アリシアはそう言ってから、もう一度寝台へ視線を向けた。眠っているエドガーの顔は穏やかで、数日前に自分たちが命を狙われたことなど嘘のように見える。それでも、夜中に物音で目を覚ますたび、あの時の恐怖がまだ残っていることは嫌でも分かってしまう。
「この子は襲われる前に、王太子になるって言ったわ。でも、あの時はこんなことになるなんて知らなかったのよ。勉強が増えるとか、将来は国のために働くとか、そういう話はした。でも、自分が王太子になることで命を狙われるかもしれないなんて、考えてなかったでしょう」
「……ああ」
「だから、前に一度『やる』って言ったからって、それで決めてしまうのは違う気がするの」
ローゼンはすぐには答えなかった。しばらくエドガーの寝顔を見つめたあと、静かに頷く。
「私もそう思う。襲撃の前と今では、エドガーが知っていることが違う。なら、もう一度本人に聞いた方がいい」
「やっぱり、そうよね」
「前に決めたことを変えてはいけないわけじゃない。怖くなったなら、それも含めてエドガーの答えだからな」
アリシアはその言葉を聞き、少しだけ肩の力を抜いた。王太子にしなければならない理由はある。政治的に見れば、むしろ今ここで立場を曖昧にする方が危険なのかもしれない。それでも、だからといって四歳の息子の意思を置き去りにしたまま進めることだけはしたくなかった。
「じゃあ、起きたら三人で話しましょう」
「ああ。ただ、難しいことまで全部話す必要はないと思う。王位継承だの派閥だのと説明したところで、今のエドガーには重すぎる」
「分かってるわ。怖いことが起きるかもしれない。でも、一人で全部背負うわけじゃないって、それくらいでいいと思う」
それからしばらくして、エドガーが昼寝から目を覚ました。寝起きで少しぼんやりしていたものの、アリシアが顔を覗き込むと安心したように手を伸ばしてくる。最近は目を覚ました時に両親のどちらかが近くにいることを確認する癖がついていた。
アリシアはその手を取ったあと、少し時間を置いてから三人で話すことにした。改まって机を挟む形ではなく、長椅子へ座ったアリシアとローゼンの間にエドガーを座らせる。以前にも王太子について同じように話したことがあるため、エドガーもすぐに何の話か気づいたらしい。
「将来のお話?」
「そうよ。でも、前とは少し違うお話」
アリシアはそう答えながら、エドガーの手を自分の膝の上で包んだ。
「前に、エドは王太子になるって言ったでしょう?」
「うん。言ったよ」
「今も覚えてるのね」
「ぼく、パパのお仕事のお勉強するんでしょ?」
「そう。でもね、そのあと怖いことがあったでしょう」
エドガーの表情が僅かに曇った。
アリシアはそこから先を急がなかった。あの夜のことを細かく思い出させる必要はない。それでも、王太子になることと危険がまったく無関係ではないことだけは、今度こそ伝えておかなければならなかった。
「王太子になると、前より大変なことに巻き込まれるかもしれないの。この前みたいなことが絶対にまた起きるって意味じゃないわ。でも、何も怖いことはありませんって言うのも違うと思ったの」
エドガーはすぐには答えず、膝の上に置いた自分の手を見つめた。襲撃前なら、王太子という言葉を聞いてここまで黙り込むことはなかった。今はあの夜を知っている。だからこそ、以前とは同じようには受け止められないのだろう。
ローゼンも、できるだけ穏やかな声で続けた。
「前に『やる』って言ったから、今も絶対にそう言わなきゃいけないわけじゃない。もし怖くなったなら、怖いって言っていいんだ」
「……やめてもいいの?」
「いい。ただ、王太子にならなくても、エドガーが私の息子であることは変わらない。だから、危ないことが全部なくなるわけじゃない。でも、前に言ったからという理由だけで無理をする必要はないよ」
エドガーはしばらく黙っていた。アリシアもローゼンも急かさず、その答えを待つ。
「ぼく、一人でするの?」
やがて出てきたのは、王太子の仕事についてではなかった。
アリシアはすぐに首を横に振る。
「一人じゃないわ。ママもいるし、パパもいる。先生だって騎士だっているし、助けてくれる人はたくさんいるのよ」
「パパも?」
「ああ。私もずっと一人で国のことを決めているわけじゃない。分からないことがあれば誰かに聞くし、手伝ってもらうこともある。エドガーも同じでいい」
「王太子になっても?」
「もちろん」
エドガーは少しだけ安心したような顔をしたものの、まだ完全には納得していないらしく、今度はアリシアの方を見る。
「この前みたいになったら?」
その問いに、アリシアは一瞬だけ息を止めた。
「守るわ」
それでも答えは迷わなかった。
「絶対に何も起きないとは言えない。でも、今度もその次も守るわよ。ママもパパも、みんなで」
「騎士のお兄ちゃんも?」
「ええ。今は怪我をして休んでるけど、元気になったらきっとそう言うわ」
エドガーはそこで少し俯いた。ユリウスの血を見たことを思い出しているのかもしれない。アリシアはそれ以上言葉を重ねず、ただ手だけは離さなかった。
しばらくして、エドガーが顔を上げる。
「ぼく、頑張るよ。でも、ママとパパも一緒だよね?」
「もちろんよ」
二人とも迷わず答えた。
「前にお話した時と同じよ。王太子になるからって、エドだけをどこかへ行かせたりしないわ」
エドガーはその言葉を聞くと、少しだけ表情を緩めた。それでもすぐには答えず、もう一度考えるように黙り込む。
そして、やがて小さく頷いた。
「……じゃあ、ぼく、頑張るよ」
襲撃前の時のような、少し楽しそうな「やる」とは違った。怖いことがあると知ったあとで、それでも両親が一緒なら進んでみようと、自分なりに考えて出した答えだった。
アリシアはその横顔を見つめ、少しだけ目を細める。
「本当にいいの?」
「うん。でも、怖くなったらママのところ行っていい?」
「当たり前でしょう。そんなことまで我慢しなくていいのよ」
ローゼンも頷いた。
「遊ぶことも、甘えることも、今まで通りでいい。王太子になったからって、急に大人になる必要はないよ」
その言葉を聞いて、エドガーは少し考えたあと、アリシアを見上げる。
「じゃあ、ママのお膝もいい?」
「それは王太子になっても変わらないわよ。エドは私の息子なんだから」
そこでようやく、エドガーがいつものように笑った。張り詰めていた空気も少しだけ和らぎ、アリシアもつられて表情を緩める。
不安が完全になくなったわけではない。王太子になる以上、今後も危険があるかもしれないし、今回の奇襲を指示した者すらまだ分かっていない。それでも、襲撃前に一度出した答えをそのまま押し通すのではなく、怖さを知った今のエドガーの気持ちを聞くことができた。そのことには意味があると思えた。
「それなら、王太子就任式は予定通り行う」
ローゼンが静かにそう告げる。
アリシアはエドガーの手を握ったまま頷いた。
「分かったわ。よろしく頼むわね」
三人で改めて決めた。
奇襲より前に出した答えを、そのままなぞったわけではない。怖いことがあると知ったあとでもう一度話し、それでもエドガー自身が同じ道を選んだ。
話が終わると、三人は一緒に部屋を出た。エドガーはいつものようにアリシアとローゼンの間へ入り、それぞれの手を握る。王太子になると決めたからといって、その姿が急に変わるわけではない。まだ四歳で、父親と母親に挟まれて歩く一人の子どもだった。
そして今度こそ、その三人で王太子就任式の日を迎えることになるのだ。




