57. それぞれの容態
治療室へ向かうミレイユの足は、普段より明らかに速かった。アリシアとエドガーに怪我はなく、現在はローゼンと一緒にいる。そのことはすでに聞いている。それでも、続けてユリウスがエドガーを守る最中に深い傷を負い、かなりの血を流したと知らされた瞬間から、胸のざわつきだけはどうしても収まらなかった。「命に別状はない」と何度説明されても、それだけで安心できるほど簡単ではない。自分の目で確かめるまでは、何を言われても落ち着けそうになかった。
治療室へ近づくにつれて、薬草と血の匂いが混じった独特の空気が濃くなっていった。中では奇襲で負傷した騎士や兵士たちの処置がまだ続いており、包帯を巻かれた者や、寝台へ横になったまま治療を受けている者の姿がある。襲撃者の刃で傷つき、毒によって一時容体を悪化させた騎士についても、アリシアが用意していた解毒剤が間に合ったことで状態は安定しているらしい。ミレイユは入口で一度立ち止まり、慌ただしく人が行き交う室内を見回した。
そして、少し奥の寝台に横になっているユリウスを見つけた瞬間、足が止まった。
治療そのものはすでに終わっているらしく、身体には厚く包帯が巻かれていた。顔色は普段より明らかに白く、近くの台には血に染まった制服と、処置に使われた布がまとめて置かれている。命に別状はないと何度も聞いていたのに、それを見た途端、聞かされていた以上に大量の血を失ったのだと嫌でも分かってしまった。
それでも、ユリウスはそこにいた。
胸がゆっくり上下している。
ちゃんと息をしている。
そのことを確認した途端、それまで必死に張り詰めていたものが一気に緩んだ。
「……よかったです。本当に……」
自分でも驚くほど声が震えた。目の奥が熱くなり、慌てて手で拭おうとしたものの、一度溢れた涙は簡単には止まらなかった。泣くつもりで来たわけではない。顔を見て無事を確かめ、それからアリシアのところへ向かうつもりだった。それなのに、ユリウスが生きていると分かった瞬間から、自分でもどうしていいのか分からなくなっていた。
その声に気づいたのか、ユリウスがゆっくり目を開けた。何度か瞬きをしたあと、寝台のそばまで近づいてきたミレイユを見つけ、僅かに目を見開く。
「ミレイユさん?」
名前を呼ばれたことで、本当に無事なのだという実感がさらに強くなる。ミレイユは何とか返事をしようとしたが、また涙が溢れ、そのまま寝台の脇まで歩み寄った。そして次の瞬間には、自分でも考えるより先に身体が動いていた。
傷に触れないよう気をつけながら身を屈め、ユリウスの身体をそっと抱きしめる。
突然のことに、ユリウスの身体が僅かに強張った。ミレイユ自身もそこでようやく自分が何をしているのかに気づいた。普段ならこんなことはしない。まして治療を終えたばかりの相手である。それでもすぐには離れられなかった。ちゃんとここにいて、ちゃんと生きている。そのことを確かめるように、ほんの少しだけ腕へ力を込める。
「すみません……でも、少しだけ……」
声はまだ震えていた。
ユリウスは何も言わなかった。普段のミレイユがここまで取り乱す姿を見ること自体ほとんどないうえ、自分のために泣き、そのまま抱きしめられている。どう反応すればいいのか分からないらしく、しばらく戸惑ったような表情を浮かべていた。
少しして、ミレイユはようやく身体を離した。抱きしめてしまった事実を意識した途端、涙で赤くなっていた頬が今度は別の意味でも熱くなる。それでも、恥ずかしさよりユリウスが無事だったことへの安堵の方が遥かに大きかった。
「……本当に、無事でよかったです」
そう言いながら、また目元を拭う。
ユリウスは少し間を置いたあと、申し訳なさそうに表情を緩めた。
「心配をかけてしまいましたね」
「責めてるわけじゃないです。エドガー様を守ってくださったことも分かっています。でも……かなり血を流したって聞いて、本当に怖くて……」
そこまで口にしたところで、ミレイユの視線が脇へ向いた。血に染まった制服と、その隣に重ねられた処置用の布が目に入る。いくら命に別状はないと言われても、その量を見れば軽い怪我ではないことくらい分かった。
ユリウスもその視線に気づいたのだろう。安心させるように、いつもの穏やかな声で言う。
「もう大丈夫ですよ。傷も処置してもらいましたし、毒についても念のため解毒剤を使ってもらいましたから」
けれど、その言葉を聞いた瞬間、ミレイユの目元はまた潤んだ。
「……大丈夫な人は、そんなに血を流しません……」
怒鳴ったわけではなかった。むしろ声は小さく、涙混じりで、どう見ても心配になる状態なのに「大丈夫」と言われたことへの素直な反応だった。
ユリウスは少し困ったような顔をした。それでも、大丈夫だと言い張れば余計に心配させるだけだと分かったのだろう。少し考えてから、素直に頷いた。
「……では、今日は大人しく休みます」
「今日だけじゃなくて、治療をする方がいいと言う間はちゃんと休んでくださいね。隊長だからって、すぐに戻ろうとしたら駄目です」
「はい。そうします」
思ったより素直な返事が返ってきて、ミレイユはようやく少しだけ安心したような表情を見せた。寝台の横に置かれていた椅子へ腰を下ろし、まだ涙の残る目元をもう一度拭う。
しばらくして、ユリウスがエドガーのことを口にした。
「エドガー様は無事ですよ。あのあと、寝室側へは誰も通していません」
「はい。アリシア様もエドガー様も怪我はないって、ちゃんと聞いています」
「それなら……アリシア様のところへ行かなくていいんですか?」
その問いに、ミレイユは一瞬だけ言葉を止めた。アリシア付きの侍女なのだから、本来なら真っ先に主のもとへ向かっていてもおかしくない。実際、普段の自分ならそうしていたはずだった。
「二人とも無事で、ローゼン様と一緒にいることは確認できています。だから……今はこちらに来ました」
口にしてから、自分でその意味に気づいた。
主とその息子が襲われた夜に、二人の無事を確認したあと、顔を見に行くより先にユリウスのところへ走ってきた。これまで彼との距離が少しずつ近くなっていたことは分かっていたつもりだったが、自分がここまで心配していたことには、ミレイユ自身が一番驚いていた。
ユリウスもその言葉の意味には気づいたらしい。彼はほんの少しだけ嬉しそうに表情を緩める。
その穏やかな反応の方が、ミレイユにはかえって困った。何となくそれ以上顔を見ていられなくなり、視線を寝台の端へ落とす。先ほどとは違う理由で頬が熱くなるのを感じたが、自分の感情について今ここで考え始めたところで、どうせ答えなど出ない。
そこへ治療を担当していた者がやって来て、ユリウスの状態を改めて確認した。傷自体は問題なく処置できており、毒についても解毒剤を早い段階で使えたため深刻な影響は避けられた。ただし、かなりの血を失っているため、しばらく安静が必要で、すぐに職務へ戻ることは認められないという。
ミレイユは説明を真剣に聞いたあと、担当者が離れてからもう一度ユリウスを見る。
「ちゃんと休んでくださいね」
少し離れた別の寝台では、ノアも軽い傷の処置を受けていた。毒が使われていた可能性があるため念のため確認されていたものの、幸い傷はごく浅く、身体にも異常はない。その頃、治療室の入口に一人の女性が姿を現した。
アリスだった。
もともとは隣国の第四王女だったものの、現在は勘当され、家出同然に国を離れて王都で暮らしている。そのため今の彼女には王宮の奥へ自由に出入りできる立場はなく、今回も勝手に入り込んだわけではない。奇襲に巻き込まれたノアのもとへ行きたいと申し出て、事情を知ったローゼンから特別に許可を得たうえで王宮内へ入っていた。
治療室へ入ったアリスは、すぐにノアを見つけた。普段のような明るい調子もなく、真っ直ぐ寝台のそばまで行くと、まず顔を見て、それから処置された傷へ視線を落とす。
「……無事でよかった」
「心配かけましたね。ごめんなさい」
ノアが申し訳なさそうに返す。
アリスはそれ以上すぐには言葉を続けなかった。大きな怪我ではないことは分かった。それでも、今夜のようなことがまた起きない保証などどこにもない。近衛騎士である以上、ノアが命を懸ける場面はこれから先もあるかもしれない。
その時、嫌でも考えてしまった。
いつか結婚できればいい、仕事が落ち着いてからでもいい。ちゃんと順番を踏んで、それからでも遅くないとそう思っていた。けれど、その「いつか」が来る前にノアがいなくなったら。
国を出てまでこの人のそばへ来たのに、夫婦になることさえできないまま終わったら。それだけは絶対に嫌だった。
アリスは少しの間黙っていたが、やがて真っ直ぐノアを見る。
「ノア。私、待てないわ」
突然の言葉に、ノアが目を瞬いた。
「今日みたいなことがまたあって、結婚する前にあなたが死んだら……私、絶対に嫌よ。今までは、仕事が落ち着いてからでもいいって思ってた。でも、もう『いつか』じゃなくて、ちゃんと今から考えたいの」
勢いに任せて結婚を迫っているわけではなかった。声には、今夜ノアを失うかもしれないと思った恐怖がまだ残っているのだ。
ノアは心配そうなアリスを見て、周囲に誰もいない事を確認して、額にキスをした。
「……分かりました。帰ったら話し合いましょう。今は忙しいですので、これで許してください」
今この場で何もかも決める必要はない。それでも、二人の間にずっと置かれていた「いつか」という言葉が、ようやく具体的な未来へ変わり始めた。




