56. 第二近衛隊の迎撃
ローゼンの寝室へ逃げ込んだあとも、王宮内の戦闘は終わっていなかった。むしろ緊急招集を受けた近衛騎士たちが各所から動き始めたことで、先ほどまで遠くに聞こえていた剣戟や怒号は次第に数を増し、静まり返っていた王宮全体が完全に戦闘態勢へ移っている。最も早くローゼンの居室周辺へ到着したのは第二近衛だった。ユリウスが隊を率いて寝室へ続く廊下を塞ぎ、ノアを含む騎士たちがその左右へ広がって防衛線を作る。少し遅れてクラウス率いる第一近衛も別方向から合流し、侵入者たちの退路を削りながら、この区画へ迫ってくる者を挟み込む形で制圧を進めていた。
その頃、アリシアは寝室の奥でエドガーの手を握っていた。自室の扉を破られかけ、暗い外壁沿いの足場を渡ってようやくここまで逃げてきたばかりなのだから、四歳のエドガーが平静でいられるはずもない。廊下から剣のぶつかる音が響くたびに身体を強張らせ、アリシアの手が少しでも動けば、離されまいとするように握る力を強くする。このまま自分のそばに立たせておきたい気持ちはあったが、扉が破られるような事態になれば、寝室の奥まで見通される。姿が見えるところに置いておく方が危険だった。
「エド、ここに隠れていて。ママが呼ぶまでは絶対に出てこないでね。どんな大きな音がしても、何か聞こえても、そのままここにいるのよ」
アリシアが寝台の下を示すと、エドガーは狭い隙間を見たあと、不安そうに母親を見上げた。
「……ママは、どこにも行かない?」
「行かないわ。すぐここにいるから。だからエドも、ママとの約束を守って」
それでもすぐには手を離さなかったが、廊下から再び鋭い剣戟が響くと、小さく頷いて床へ膝をついた。そのまま身体を滑り込ませ、奥で小さく丸くなる。アリシアも床へ膝をついたまま、エドガーの顔が見える位置まで身体を低くし、もう一度だけ安心させるように頷いてから立ち上がった。
アリシアは寝台のすぐそばへ残り、ローゼンも寝室から大きく離れなかった。剣を手にしてはいるものの、自ら廊下へ出て戦うつもりはない。外には第一近衛と第二近衛がいる。二人がすべきことは、ここまで逃げてきたエドガーを最後まで守り切ることだった。
「エドは寝台の下よ。何があっても出ないように言ったわ」
「分かった。君もそこから離れないでくれ」
「そのつもりよ。今度こそ、絶対にこの子から離れないわ」
ローゼンは短く頷き、再び扉の方へ視線を向けた。アリシアも寝台のそばへ腰を落とし、エドガーが隠れている場所を背にするように位置を取る。
ユリウスは隊の中央で全体の動きを見ながら、決して寝室側へ通さないよう防衛線を維持していた。
ノアも与えられた位置を守り、若さに任せて単独で敵を追うことはせず、左右の騎士と足並みを合わせていた。第一近衛も別方向から着実に圧力をかけており、クラウスたちが退路を狭め、ディートリヒも生きたまま確保できる相手については可能な限り拘束するよう動いている。血縁確認の妨害に関わった男からは何も聞き出せなかった以上、今度こそ背後関係へ繋がる者を残す必要があった。
戦況は少しずつ良い方向へ傾き始めていたが、その途中で異変が起きた。
第二近衛の騎士の一人が腕へ浅い傷を受け、当初はそのまま戦える程度だと判断して剣を握り続けていたものの、ほどなくして足元がふらつき始めたのである。
顔色まで急激に悪くなり、傷口の周囲には普通の切り傷とは違う変色が広がっていたため、近くの騎士がすぐに身体を支えた。
傷の深さと症状が釣り合っていない。その場にいた者たちが異常を察し、襲撃者の武器に毒が塗られている可能性がすぐに共有された。その情報は間を置かずローゼンの寝室まで伝えられる。
報告を聞いたアリシアは表情を変えた。血縁確認の水に細工をした男が毒によって死んだあと、同じような手段を再び使われる可能性を考え、北部から持ち帰った薬草を使って解毒剤を増やしてある。
「医務室に翡翠色の瓶が置いてあるわ。すぐに持ってきて。それと、私の部屋に残っている分も回収できるならお願い」
伝令役の兵士がすぐに走り出した。ローゼンがアリシアを見たため、彼女は寝台から離れないまま簡潔に説明する。
「前のことがあったでしょう。必要になってから作り始めたんじゃ遅いと思ったのよ」
「備えていてくれて助かった」
「まだ分からないわ。まずは効いてくれないと」
ほどなくして医務室から解毒剤が届けられ、負傷した騎士へ使われた。しばらくは緊張した時間が続いたものの、急激に悪化していた顔色や呼吸は少しずつ落ち着き始め、処置が早かったこともあって最悪の事態は免れたらしい。
その間にも戦闘は続いていた。毒の存在が知られたことで第二近衛はさらに慎重に相手の刃を警戒しながら防衛線を維持し、誰かが負傷すればすぐ別の者がその位置へ入った。第一近衛からの圧力も強まり、侵入者たちは次第に逃げ場を失っていく。何人かは武器を奪われて拘束され、それでも残った者たちは退こうとせず、最後までローゼンの居室へ近づこうとしていた。
最後まで激しく抵抗していた男の一人が、第二近衛の騎士たちに押さえ込まれた。剣を奪われ、片腕を背後へ捻られた状態でも暴れ続けていたが、さらに身体を押さえ込まれようとした瞬間、空いていた手を腰へ伸ばした。
ユリウスがその動きに気づく。
男が引き抜いたのは小さな短剣だった。
しかし、それを近くの騎士へ突き立てることはしなかった。腕を大きく振り、開かれた扉の向こうにある寝室へ向けて投げつけた。
短剣は真っ直ぐ寝台の方向へ飛んでいく。
襲撃者がエドガーの正確な位置まで把握していたのか、それとも子どもなら寝室の奥に隠されていると判断しただけなのかは分からない。ただ、そのまま通せば刃は寝室へ入り、寝台の近くへ飛んでいく。
「危ない!!」
ユリウスは避けなかった。自分だけなら身体をずらせば十分に避けられる軌道だったが、その先に誰がいるのか分かっていた。考えるより先に身体を入れた結果、短剣はユリウスの身体を深く傷つけた。
周囲の騎士たちが一斉に動き、ユリウスが後ろへよろめくより先にノアと他の第二近衛がその位置へ入り、防衛線の穴を埋めた。短剣を投げた男もその場で完全に押さえ込まれ、さらに第一近衛が合流したことで、残っていた侵入者たちも次々に制圧されていく。ユリウスはそれを確認するように数歩後ろへ下がったところで、ようやく片膝をついた。
傷は命に関わる場所を外れているようだったが、決して浅くはなかった。制服にはみるみる血が広がり、床へも落ち始めている。短剣にも毒が塗られている可能性があるため、周囲の騎士がすぐに身体を支え、解毒剤を使いながら治療室へ運ぶ準備を進めた。
やがて廊下から聞こえていた剣戟は少しずつ減っていき、侵入者を取り押さえる声や負傷者を運ぶ指示だけが残った。それでもアリシアはすぐにエドガーを出さず、ローゼンが護衛から状況を聞き、王宮内に残る侵入者も含めて制圧されたことを確認するまで待った。
ようやく安全が確認されると、アリシアは寝台の前へ膝をついた。
「エド、もう出てきて大丈夫よ。怖い人たちはみんな捕まったから、ゆっくりこっちへおいで。ママの手を握って」
返事はなかった。アリシアが寝台の下を覗くと、エドガーは奥で身体を丸めたまま動いていない。無理に引きずり出すことはせず、ただ手を差し出して待った。
暗い隙間の奥で、小さな手が動いた。エドガーが少しずつ身体を前へずらし、ようやくアリシアの指へ触れる。アリシアがしっかり握り返すと、その手を離さないまま寝台の下から出てきて、ほとんど倒れ込むように母親へしがみついた。
「ママ……怖かった……」
「うん。よく頑張ったわ。もう隠れなくていいからね」
アリシアが抱き締めると、エドガーはその胸へ顔を押しつけた。ローゼンもすぐそばまで来て膝をつき、息子の背中へ手を添える。
「パパもいる?」
「ああ。ここにいるよ」
父親の声を聞いたところで、張り詰めていたものが完全に切れたらしい。エドガーはとうとう声を上げて泣き始めた。アリシアもローゼンも何度も話しかけることはせず、ただ身体を支えながらそばにいる。眠っていたところを突然襲われ、自室を追われ、暗い外壁沿いの足場を渡り、今度は寝台の下で剣の音を聞き続けたのだから、怖くなかったはずがない。
その間にも負傷者の処置は進められており、ユリウスは意識を保ったまま治療室へ運ばれた。出血は多いものの、すぐに手当てが始められ、毒の可能性を考えて解毒剤も使用される。ノアは隊長が運ばれたあとも持ち場を離れず、他の第二近衛とともに拘束した侵入者の確認と警戒を続けていた。第一近衛の側でも生きたまま確保した者たちの身柄がまとめられ、最終的には何人かを捕らえることに成功している。今度こそ背後関係を調べられる可能性が出てきたが、この夜にそこまでする余裕はなく、まずは王宮内の安全確認と負傷者の治療が優先された。
エドガーは自分の部屋へ戻ることを嫌がった。あの扉の向こうで巡回兵が斬られ、そのあと襲撃者に扉を破られた場所なのだから、いくらもう安全だと言われても今夜戻れるはずがない。そのため、割れた窓へ応急処置を施し、警備を大幅に増やしたうえで、そのままローゼンの寝室で夜を明かすことになった。
泣き疲れたエドガーを寝台へ横たえると、アリシアもそのすぐそばへ座った。ローゼンも離れず、反対側から息子の様子を見守る。エドガーは一度目を閉じたものの、廊下から足音が聞こえただけですぐに瞼を開いた。
「……まだいる?」
誰に尋ねたのかは分からなかった。アリシアはすぐにその手を取る。
「いるわよ。私もローゼンも、今夜はここからどこにも行かないから」
その言葉を聞いてようやく安心したのか、エドガーはもう一度目を閉じた。それでも眠りは浅く、誰かが扉の外で声を出せば身体を強張らせ、何度も両親の姿を確かめる。アリシアもローゼンも眠らず、そのたびに近くにいることだけを伝えた。
アリシア自身も、当然眠れる状態ではなかった。静かになった寝室に座っていると、今夜の出来事が何度も頭へ戻ってくる。狙われたのは、やはりエドガーだった。正式な王太子就任を目前にした四歳の子どもを狙い、巡回兵を斬り、毒まで使って殺そうとした。最後には防衛線を突破できないと判断し、寝室の奥へ短剣まで投げ込んでいる。あの刃をユリウスが受けなければ、どこへ飛んでいたのかは分からない。
夜が明け始める頃、ようやく治療室から報告が届いた。ユリウスの傷は深かったものの重要な場所を外れており、毒についても解毒剤を早い段階で使えたことで命に別状はない。ただし出血が多く、しばらくは安静が必要になるという。
アリシアはその知らせを聞き、ようやく長く息を吐いた。寝台ではエドガーが浅い眠りを続けている。起きたら、まずユリウスが無事だったことを伝えようと思った。
同じ頃、その負傷の知らせはミレイユにも届いていた。夜中の襲撃を受け、彼女も安全な区画へ避難させられており、アリシアとエドガーが無事であることはすでに知らされていた。しかし、そのあとに「エドガーを守る中でユリウスが大怪我をした」と聞かされた瞬間、表情を変えた。
ミレイユは、すぐに治療室へ向かったのだった。




