55. 部屋への襲撃
就任式を数日後に控えた王宮は、昼間の慌ただしさが嘘のように静まり返っていた。式典に使う広間では朝から設営が続き、エドガーも衣装の最終確認や当日の立ち位置について何度も説明を受けている。
ここ数日はエドガーの立場があってか、本人の周囲にも常に誰かがいた。それでも深夜になれば、さすがに人の出入りもなくなる。ミレイユも夜の仕事を終えて下がり、アリシアの部屋には親子二人だけが残っていた。
エドガーはすでに寝台へ入っていた。昼間に慣れない礼服を着たり、広間を何度も往復したりしたせいか、いつもより眠そうである。掛布の中でもぞもぞと身体を動かしながら何度かアリシアを見上げていたが、やがて瞼を開けていることさえ辛くなったらしい。
「ママも寝る?」
「エドが寝たらね。今日はたくさん歩いたんだから、もう目を閉じなさい」
「……うん」
それだけ答えると、エドガーは素直に目を閉じた。アリシアは寝台のそばへ腰掛けたまましばらく様子を見ていたが、やがて呼吸が規則正しくなり、完全に眠ったことを確認する。昼間は王太子として扱われ、見慣れない大人たちに囲まれていたというのに、眠ってしまえばいつもの四歳児だった。アリシアは肩から少しずれていた掛布を直し、ようやく自分も休もうと立ち上がった。
その時、廊下から足音が聞こえた。一定の間隔で近づいてくる、聞き慣れた巡回兵のものだった。血縁確認の一件以来、アリシアとエドガーの周囲は以前より警備が厚くなっている。まして今は式典を目前に控えており、夜間でも定期的に兵士が通るため、アリシアも最初は気に留めなかった。
しかし、その足音が部屋の少し手前まで来たところで止まった。
アリシアは灯りへ伸ばしていた手を止め、何となく扉へ目を向けた。兵士が何かを確認しているだけかもしれない。それならすぐにまた歩き始めるはずだったが、しばらく待っても音は戻ってこなかった。代わりに、金属同士が激しくぶつかるような音が一度だけ響き、その直後、何か重いものが壁へ叩きつけられる。
続いて、男の短い叫び声が聞こえた。
アリシアの表情が変わった。寝台を振り返ると、大きな音でエドガーも目を覚ましている。何が起きたのか分からないまま身体を起こし、不安そうにこちらを見ていた。
「エド、そこにいて」
声を抑えて伝え、アリシアは扉へ向かった。廊下の向こうから荒い呼吸が聞こえる。何かを引きずるような音も混じっており、普段の巡回とは明らかに違った。大きく扉を開けるようなことはせず、鍵へ手をかけたままほんの僅かに隙間を作る。
最初に見えたのは、壁へ押しつけられた血まみれの手だった。巡回していた兵士が、片手で壁へ縋りながらこちらへ向かっている。衣服の脇腹が大きく裂け、そこから流れた血が床へ点々と落ちていた。まともに歩くこともできないらしく、何度も壁へ肩をぶつけながら、それでも何とかこちらまで逃げようとしている。
アリシアは思わず扉をもう少し開きかけた。しかし、兵士の背後に別の人影が現れたことで手が止まる。
片手には抜き身の剣を持っていて、その刃にはすでに血がついていた。負傷した兵士も背後の気配に気づいたらしく振り返ろうとしたが、男は迷うことなく距離を詰め、剣を振り下ろした。
兵士の身体が大きく揺れ、苦痛に満ちた声を漏らしながら床へ崩れ落ちた。
アリシアは息を呑んだ。目の前で人が斬られる光景に身体が固まり、ほんの僅かな間だけ何も考えられなくなる。だが、襲撃者は倒れた兵士へ視線を落とすこともなく、ゆっくりと顔を上げた。
扉の隙間越しに、目が合った。
その顔には驚きがなかった。偶然そこにいたアリシアを見つけたというより、最初からこの部屋を目指していた者が、ようやく目的の相手を見つけたような目だった。
男がこちらへ一歩踏み出した瞬間、アリシアは勢いよく扉を閉めた。鍵をかけると同時に後ろへ下がり、寝台の方を振り返る。エドガーはすでに裸足で床へ降りており、母親の様子がおかしいことを察してこちらへ駆けてきた。
「ママ、どうしたの?」
「エド、こっちへ来て。ママから離れちゃ駄目よ」
詳しいことを説明している余裕はなかった。アリシアが手を伸ばすと、エドガーはすぐにその手を掴み、身体を寄せてくる。次の瞬間、凄まじい衝撃が扉へ加わり、エドガーの身体がびくりと震えた。間を置かず二度目の衝撃が続き、分厚い扉全体が大きく軋む。拳で叩いているような音ではなく、身体ごとぶつかっているのか、それとも武器か何かを使っているのか、一撃ごとに鍵の周辺から木が裂ける嫌な音まで聞こえてきた。
エドガーはアリシアの服を強く掴んだ。アリシア自身も恐怖を感じていたが、扉の前に立っていても何もできないことは分かっている。巡回兵は倒された。他の兵士がいつ来るのかも分からず、扉がどれだけ持つのかも分からない。アリシアは室内を素早く見回し、最後に窓へ視線を止めた。
そこには、ローゼンの部屋へ続く外壁沿いの細い通路がある。幼い頃、二人で使用人の目を盗んで互いの部屋を行き来するために何度も使った場所だった。つい最近もエドガーと三人で通ったため、足場がまだ使えることも分かっている。
「エド、窓から行くわよ。パパのところまで行くから、私の手を絶対に離さないで」
エドガーが窓の方を見る。背後では扉を壊そうとする音が続いており、迷っている時間はなかった。アリシアは息子の手を握ったまま窓へ向かい、一気に開ける。冷たい夜気が室内へ流れ込み、薄い寝間着越しに身体を刺した。
窓の外は暗かった。昼間ならそれほど恐ろしく感じない細い足場も、夜になるとまるで別のものに見える。下には地面すらはっきり見えず、ただ深い闇だけが広がっていた。エドガーは窓辺で足を止め、明らかに怯えた顔になる。
「……怖い」
「分かってる。でも、ママがいるから。下を見ないで、私だけ見て」
アリシアが先に窓枠を越えて足場へ立つ。その直後、背後で扉へ大きな衝撃が加わり、木材が割れるような音が響いた。エドガーが振り返ったが、アリシアはすぐに両手を伸ばした。
「エド、おいで」
小さな手が迷いながらも差し出される。アリシアはそれを掴み、身体を支えながら外へ出した。エドガーを自分と壁の間へ入れ、自分は外側へ立つ。昼間ならまだ余裕のある幅だったはずなのに、今は一歩足を踏み外せば終わるようにしか感じられなかった。
二人はローゼンの部屋へ向かって進み始めた。急いで逃げたい気持ちはある。しかし、エドガーを走らせることなどできない。壁へ身体を寄せ、小さな足が確実に足場へ乗ったことを一つずつ確認しながら進むしかなかった。背後からはなおも扉を壊す音が続き、そのたびにエドガーの手へ力が入る。
「右足をそこへ。そう、そのまま前へ。大丈夫だから」
必要なことだけを短く伝えながら進む。アリシア自身の心臓も激しく鳴り続けていたが、エドガーの前ではそれを見せるわけにはいかなかった。少しでも母親が怯えていると分かれば、今にも泣き出しそうなこの子は足を動かせなくなるかもしれない。
しばらく進んだところで、背後からこれまでで最も大きな破壊音が響いた。
扉が壊されたのだと、アリシアは直感した。振り返って確認したところで何も変わらない。襲撃者が部屋へ入ったなら、窓が開いたままになっていることにもすぐ気づく。アリシアはエドガーの手を握り直し、歩調を僅かに速めた。
その時、エドガーの右足が足場の端を外れた。
「……っ!」
小さな身体が外側へ傾き、アリシアは反射的に腕を掴んで自分の方へ引き寄せた。勢いで自分の足まで僅かにずれ、背中に冷たい汗が流れる。エドガーの顔は青ざめ、声も出なかった。
アリシアは壁へ身体を押しつけたまま、エドガーの肩と手を確かめるように掴んだ。
「怪我してない?」
「……うん」
「なら行くわよ。パパのところまでもう少しだから」
泣かせないためというより、自分にも言い聞かせるような言葉だった。エドガーは何度か小さく頷くと、再び足を前へ出した。
その間にも、王宮の別の場所から新たな音が聞こえ始めていた。遠くで誰かが叫び、剣と剣が激しくぶつかる硬い音が続く。さらに別の方向からも騒ぎが起こり、静まり返っていたはずの王宮が少しずつ戦場のような音に包まれ始める。
アリシアはそこで初めて、襲撃者が一人ではないことを悟った。
王宮の中へ、複数の者が侵入している。
そう考えた瞬間、ローゼンのことが頭をよぎった。自分たちのところへ来た者だけではないのなら、国王であるローゼンが狙われていてもおかしくない。しかし、もし彼の部屋まで襲われていたとしても、今さら別の場所へ逃げる選択肢などなかった。
前方にローゼンの寝室の窓が見えてくる。
室内は暗い。
「もう少しよ」
アリシアはエドガーを壁側へ寄せたまま、自分だけ慎重に窓へ近づき、拳で窓枠を叩いた。一度では反応がなく、もう一度強く叩く。それでも室内に動きは見えず、背後から聞こえる物音ばかりが気になっていく。
「ローゼン……!」
声を上げながら窓を叩いた、その時だった。
背後で、足場を踏む音がした。
アリシアの身体が固まった。
聞き間違いではない。風が何かを揺らしている音でも、エドガーが足を動かした音でもなかった。
誰かが、こちらを覗いている。
アリシアはゆっくり振り返った。
先ほど二人が出てきた窓のところに、人影が見えた。
男がいた。あの襲撃者だったのだ。
アリシアはエドガーを自分の背後へ押し込むように壁へ寄せた。ここには逃げ場がない。窓が開かなければ、この狭い足場の上で剣を持った男を迎えることになる。武器など何もなく、エドガーを庇いながら戦えるはずもない。
「ママ……」
エドガーの声が震えた。
「大丈夫。私の後ろにいて」
何が大丈夫なのか、自分でも分からなかった。それでも、そう言うしかなかった。
アリシアは再び窓へ向き直り、拳が痛くなるほど強く叩いた。
「ローゼン!起きて!ローゼン!」
背後から足音が少しずつ近づく。
窓までの距離より、襲撃者の方が気になって仕方がない。振り返りたいが、ローゼンが気づく瞬間を見逃すわけにもいかなかった。エドガーは声を出さず、アリシアの寝間着を握りしめている。
ようやく室内の奥で灯りが揺れた。
その光が少しずつ近づき、やがてローゼンが窓の向こうへ姿を現した。寝起きらしい顔で外を見た彼は、そこに寝間着姿のアリシアとエドガーがいることに気づいて目を見開く。さらに二人の向こうから剣を持った男が近づいているのを見た瞬間、その表情から眠気が消えた。
「アリシア!?」
「早く開けて!」
窓がすぐに開いた。
ローゼンは事情を尋ねるより先に両腕を伸ばす。アリシアはエドガーを自分の前へ出し、その背中を支えながら窓まで進ませた。
「先にエドをお願い!」
「分かった。エドガー、こっちへ来い」
「パパ……!」
エドガーが手を伸ばすと、ローゼンはその身体を抱き上げるようにして室内へ引き入れた。小さな両足が床へ着いたことを確認した瞬間、アリシアも窓へ手を掛ける。
「アリシア、手を!」
ローゼンが伸ばした腕を掴み、アリシアはほとんど引き上げられるように窓枠を越えた。身体が室内へ入ると同時にローゼンが窓を閉め、鍵を掛ける。
エドガーが息を呑み、ローゼンへしがみつく。
アリシアは思わずエドガーを自分の方へ引いた。
「何があった?」
ローゼンはすでに完全に目を覚ましていた。
「廊下にいた兵士が斬られたの。あの男がそのまま私たちの部屋へ来て、扉を壊し始めたから窓から逃げたわ。でも、途中で王宮の別のところからも戦ってる音が聞こえた。一人じゃない」
ローゼンは急いで、二人を繋ぐ通路をロープを切り、通れないように破壊した。
ほどなく、王宮のどこかで緊急を知らせる鐘が鳴り始めた。
アリシアとエドガーの居室が襲撃されていること、侵入者が複数いる可能性が高いことを伝え、第一・第二近衛の双方へ緊急招集をかける。二人がいた区画を最優先で確認させ、各通路を封鎖し、自室周辺にも護衛を集めるよう命じると、兵士たちは即座に走り出した。
先ほどまで眠っていた王宮が、一気に目を覚ます。廊下を走る兵士の足音が増え、遠くで飛び交う指示の声と剣戟が重なっていく。
アリシアはそこで初めて、自分の手が震えていることに気づいた。それでも、今は自分よりエドガーの方が先だった。
ローゼンへしがみついているエドガーの肩は、まだ小さく震えている。それまで必死に泣くのを我慢していたのか、父親のところまで来た途端に緊張が切れたらしい。片手でローゼンの服を掴み、もう片方をアリシアへ伸ばしてきた。
アリシアはすぐにその手を握った。
「ママもいるわ。ここにいるから」
エドガーは返事をしなかったが、握る力だけが強くなった。ローゼンも無理に落ち着かせようとはせず、息子を自分のそばへ置いたまま護衛からの報告を待つ。
最初の報告が届いたのは、それから間もなくだった。
侵入者は一人ではない。
王宮内の複数箇所で兵士との交戦が発生しており、少なくとも数人以上が内部へ入り込んでいる。緊急招集を受けた第二近衛はユリウスを中心にすでに動き始め、ノアを含む騎士たちも侵入者の確認と制圧へ向かっている。第一近衛にも連絡が届き、クラウスたちも別方向から王宮内の通路を封鎖し始めているという。
しかし、報告が重なるにつれて奇妙なことも分かってきた。
侵入者たちは宝物庫へ向かっていなかった。重要書類を保管する場所を探している様子もなく、国王であるローゼンの寝室へ真っ先に押し寄せたわけでもない。
最初に最も激しい攻撃を受けたのは、アリシアとエドガーの居室がある区画だった。
巡回兵を斬った男も、倒れた相手を完全に仕留めることより、アリシアの部屋へ向かうことを優先している。
アリシアはそれを聞いた瞬間、エドガーへ視線を落とした。
数日後には、王太子就任式が控えている。
正式に王太子となることが完全に決まったわけではない。それでも、ローゼンの実子であることが認められた今、最有力の後継者として見られているのは間違いない。
その直前の深夜に、自分たちの部屋が狙われた。偶然とは思えなかった。
ローゼンも同じ結論へ至ったらしく、僅かに表情を険しくした。しかし、エドガーの前で襲撃の目的を口にすることはせず、自室周辺の警備をさらに固めるよう命じた。扉だけでなく窓側にも兵を回し、この部屋へ近づく者は身元を確認するまで通さないよう徹底させる。
その時、廊下の向こうから剣と剣が激しくぶつかる音が響いた。
エドガーの身体が大きく震える。
先ほどまで遠くで聞こえていた戦いの音とは違う。明らかにこの区画へ近づいている。
ローゼンがすぐに立ち上がり、近くに置かれていた剣を手に取る。アリシアはエドガーを自分の方へ引き寄せ、その手を強く握った。
廊下の外では、護衛たちが一斉に動き始めていた。緊迫した声が飛び交い、足音が近づいたかと思えば、再び激しい剣戟が響く。ほどなくして駆け込んできた兵士から、第二近衛がこの区画へ向かっていた侵入者と接触したとの報告が入った。
ローゼンはアリシアとエドガーを背後へ置き、扉の向こうへ視線を据えた。アリシアもエドガーを抱えるようにしてそばへ寄せる。エドガーは二人のどちらかへ必ず触れていなければ落ち着かないらしく、片方の手でアリシアを掴んだまま、もう片方をローゼンへ伸ばしていたのだった。




