51. 四年間暮らした村
エドガーを王太子とするための話が少しずつ進
み始める中で、アリシアには一つだけ気になっていることがあった。正式に立太子されれば、今までのように気軽に王宮の外へ出ることは難しくなる。護衛の数も増え、行き先も選ばなければならなくなり、本人が行きたいと思った時にすぐ出掛けられるような生活ではなくなるだろう。それ自体は仕方のないことだと分かっている。だからこそ、その前に一度だけ、エドガーを北部へ連れて帰りたいと思った。
「村へ?」
「ええ。正式に王太子になる前に、一度だけ帰らせてあげたいの。エドが王宮で暮らすことを選んだからって、北で過ごした四年間までなくなるわけじゃないでしょう?あの子を小さい頃から知ってる人もいるし、昔から一緒に遊んでた子たちだっているもの」
アリシアから相談を受けたローゼンは、里帰りそのものにはすぐ賛成した。ただし、自分も同行したいと言い出したため、アリシアは途端に難しい顔をする。国王が公式に北部へ向かうとなれば、村へ知らせるだけでも大事になる。警備の騎士が大勢押し寄せ、村人たちは迎える準備に追われ、エドガーが昔の友人たちと気軽に遊ぶどころではなくなる。
「貴方まで来たら、ただの里帰りじゃなくなるでしょう」
「なら、お忍びで行けばいい。国王として行く必要はない」
「……本気?」
「護衛も最低限にして、目立たないようにする。それならエドガーも普通に過ごせるだろう。どうだ?」
そこまで考えているのなら、アリシアにも反対する理由はなかった。必要な公務は事前に整理し、レオナードとも予定を調整して、数日間だけ王宮を空けることになった。
里帰りの話を聞かされたエドガーは、当然ながら大喜びした。村へ帰れるというだけでも嬉しいのに、ローゼンも一緒だと知るとさらに機嫌が良くなり、村で見せたい場所や会わせたい人のことを次々に話し始めた。ローゼンが北部での暮らしをほとんど知らないことも分かっているため、自分が全部案内するつもりらしい。
「パパ、広場もあるんだよ。あとね、川もあるの!僕、そこで遊んだことあるよ」
「そうか。なら、案内してもらわないとな」
「うん!僕が全部教えてあげる!」
出発の日、ローゼンは国王だと分かるような装いを避け、旅慣れた貴族程度に見える簡素な服へ着替えた。アリシアも王宮で着ている華やかな服ではなく、北部で暮らしていた頃に近い動きやすい格好へ戻り、エドガーにも目立たない服を選ぶ。護衛も騎士団の制服を脱ぎ、旅装のまま一定の距離を空けて同行することになった。
村ではローゼンの正体を大声で言わないよう、エドガーにも念を押した。ただし父親であることまで隠すつもりはなく、普段通り「パパ」と呼んで構わない。国王だと言わないことだけを約束させると、秘密を任されたことが嬉しいらしく、エドガーは珍しく真剣な表情で何度も頷いた。
北部へ向かう道中、村が近づくにつれてエドガーの口数はどんどん増えていった。窓の外に山や川が見えるたびに身を乗り出し、自分の知っている景色をローゼンへ教える。この道はアリシアと一緒に通ったことがある、この先に川がある、あの辺りで遊んだことがあると、思い出したことを片っ端から話していく。ローゼンは細かく質問を重ねることもなく、エドガーが話したいだけ話させながら聞いていた。
アリシアはそんな二人を眺めながら、不思議な気持ちになっていた。
北部は、ローゼンと別れたあとに自分とエドガーだけで築いた暮らしの場所だった。四年間、その生活の中にローゼンはいなかった。そのはずなのに今は、そこへ本人を連れて戻ろうとしている。以前なら考えられなかったことだが、今ではそこまで強い拒絶感もなかった。
やがて村へ続く道が見え始めると、今度はアリシアの方が窓の外を気にするようになった。山や川の位置には見覚えがある。しかし、道そのものは記憶よりずっと広くなっていた。以前は馬車が一台通れば十分だった場所も、今では向かいから来た馬車とすれ違えるほど整えられている。何もなかったはずの道沿いにも家が建ち、かつて村外れだった辺りにまで人の姿があった。
「……こんな道だったかしら」
「ママ、あそこに家あった?」
「なかったわよ。少なくとも私たちがいた頃はね」
エドガーも自分の記憶にない建物が増えていることへ気づいたらしく、知っている景色を見つけては喜び、知らない店や家を見るたびに不思議そうな顔をしていた。
実際に村へ入ると、その変化はさらに大きかった。
昔から残る家々の間には新しい建物が増え、通り沿いには商いをする店もいくつかできている。人通りも以前とは比べものにならない。昔なら歩いている者のほとんどに見覚えがあったはずなのに、今は知らない顔が普通に行き交っている。規模だけを見れば、すでに村と呼ぶより小さな町と呼んだ方が近いくらいだった。
その理由を知ったのは、古くから住む村人たちと再会してからだった。
アリシアとエドガーが王宮へ戻ったあと、ローゼンは四年間二人を支えてくれた村人たちへ莫大な褒賞を与えていた。それぞれが今後の生活に一生困らないだけではなく、遊んで暮らしていける程の金額だったが、村人たちは受け取った金をすべて自分たちのためだけに使ったわけではなかった。必要な分を各家庭で確保したうえで、残りの多くを村全体へ回したのである。
道を整え、井戸や水回りを改善し、共同で使える施設を増やした。商いを始めたい者には場所を用意し、外から人が入りやすいよう環境を整えた結果、働き口も増え、近隣から移り住む者まで現れた。昔からの村を壊して作り替えたのではなく、残っていたものの周囲へ新しいものが積み重なり、少しずつ大きくなっていったらしい。
ローゼン自身も、褒賞を渡した時点では使い道まで指定していなかった。そのため、まさか村人たちがここまで将来を考えて金を使っていたとは思わなかったらしく、変わった通りを静かに眺めていた。
一方のエドガーは、途中から変化そのものより昔から残っているものを見つけることに夢中になった。見覚えのある建物が見えるたびにローゼンの袖を引き、これは前からあった、あそこは知っていると得意そうに説明する。その声に気づいたのか、やがて昔から住んでいる村人の一人が立ち止まった。
アリシアを見て、その隣のエドガーを見る。
次の瞬間、表情が一気に変わった。
そこからは早かった。誰かが二人の帰郷を知らせたらしく、昔からの住人たちが次々と集まってくる。新しく移り住んだ者たちは何事かと不思議そうに眺めているが、古くからいる者たちは久しぶりに帰ってきた二人を見て、まるで昨日までここにいたかのような調子で声をかけた。
特にエドガーは、あっという間に囲まれた。少し見ない間に大きくなったと頭を撫でられ、年配の者からは以前とほとんど変わらない扱いを受ける。昔から一緒に遊んでいた子どもたちもすぐに集まり、王宮へ行ったことを特別扱いするより、また一緒に遊べることの方を喜んでいた。
エドガーも王宮では見せないほど自然にその輪へ入っていった。相手の名前を迷いなく呼び、久しぶりに会った子どもたちと楽しそうに話している。
ローゼンは少し離れたところから、その光景を眺めていた。
王宮では、エドガーと父子になってからの時間はまだ新しい。呼ばれるようになった「パパ」という言葉も、一緒に遊ぶことも、三人で食事をすることも、ローゼンにとっては最近手に入れたものだった。
けれど、この村にはローゼンの知らないエドガーが当たり前のように存在している。
歩き始めた頃を知る者も、言葉を覚えた頃を知る者もいる。自分がいなかった四年間が、ここでは何の特別なこともなく日常として積み重なっていた。
やがて村人たちの視線がローゼンへ向いた。見覚えのない男がアリシアとエドガーと共に戻ってきているのだから当然だった。アリシアは余計な説明を加えず、ローゼンを一度だけ見る。
「エドの父親よ」
それだけだった。
村人たちは一瞬驚いた。四年間一度も姿を見せなかった父親が、今になって二人と一緒に戻ってきたのである。何か事情があったのだろうと察した者もいるはずだったが、その場で詳しく問いただす者はいなかった。何より、エドガー本人が何の躊躇もなくローゼンのところへ戻り、普段通り父親として接している。その様子を見れば、今の三人の関係をわざわざ壊すような質問をする必要もなかった。
ローゼンも身分を匂わせるようなことはせず、アリシアとエドガーが四年間世話になったことへの礼だけを伝えた。最初こそ少し警戒していた村人たちも、彼が必要以上に堅苦しい態度を取らないと分かると次第にいつもの調子へ戻り、むしろ自分たちの方がアリシアには何度も助けられたのだと話し始める。薬を作ってもらったこと、怪我人の手当てをしてもらったこと、体調を崩した者がいればすぐに様子を見に来ていたこと。ローゼンが知らなかったアリシアの四年間も、村人たちの口から少しずつ見えてきた。
その後は、今度こそエドガーが案内役になった。
昔よく遊んでいた広場、転んで膝を擦りむいた場所、アリシアと買い物へ行った店。本人にとっては特別な観光地でも何でもない場所ばかりだったが、ローゼンにとってはその一つ一つが初めて見るものだった。途中には以前なかった店や建物も増えており、エドガー自身が首を傾げることもあったが、昔から残っている場所を見つければ途端に嬉しそうになる。
村人たちからも、自然とエドガーの幼い頃の話が出た。歩き始めた頃には何度転んでもすぐ立ち上がっていたこと。言葉を覚えた頃には、気に入った言葉を何度も繰り返していたこと。少し大きくなると、年上の子どもたちの後ろをどこまでもついていきたがったこと。
本人はほとんど覚えていない話ばかりである。
最初こそ楽しそうに聞いていたエドガーも、自分の失敗談まで出始めると次第に恥ずかしくなったらしく、途中からアリシアの後ろへ隠れ始めた。それでも村人たちは懐かしそうに笑いながら話を続ける。
その中で、幼いエドガーが高い熱を出した夜の話も出た。
夜になっても熱がなかなか下がらず、アリシアが一晩中そばに付き添っていた。何度も水を飲ませ、額を冷やし、眠ってもすぐに目を覚まして様子を確かめていたため、翌朝には看病していた本人の方がすっかり疲れ切っていたらしい。
アリシアは昔のことなのだから大袈裟に話さなくていいと苦笑していたが、ローゼンは何も言わずに聞いていた。
初めて歩いた日も。言葉を話し始めた頃も。高い熱を出した夜も。自分はいなかったのだから。
しかし、それを今さら口に出して悔やむことはしなかった。過ぎてしまった四年間は戻らない。ただ、その時間がどんなものだったのかを知ろうとするように、ローゼンは村人たちの話を一つずつ受け止めていた。
昼を過ぎる頃には、エドガーは昔一緒に遊んでいた子どもたちから誘われ、そのまま外へ走っていった。王宮では常に大人の目が近くにある生活になっているが、この場所では以前と同じように子どもたちの輪へ入り、誰にも遠慮せず遊び始める。護衛は身分を伏せたまま遠巻きについていったものの、アリシアも村の中なら好きにさせておくことにした。
エドガーが離れたあと、アリシアとローゼンは四年間暮らしていた家へ向かった。
村全体が大きく変わっている中でも、その家だけはほとんど以前の姿を残していた。王宮の居室と比べれば驚くほど小さく、立派な家具があるわけでもない。それでも、アリシアと幼いエドガーが二人で暮らすには十分な場所だった。
扉を開けて中へ入る。
柱には、エドガーの身長を測った跡が今も残っていた。薬草を乾かすために使っていた場所も、小さな食卓もそのままである。村人たちから聞いた四年間が、今度は具体的な生活の形となってローゼンの目の前へ現れた。
「ここ、エドが歩けるようになってから大変だったのよ。少し目を離しただけで勝手にあちこち触るんだから。薬草だけは絶対に触らせないようにしてたけど、それ以外は何回片づけてもすぐ散らかされたわ」
アリシアも久しぶりの家へ入ったことで、自然と当時の話が出てくる。夜泣きが続いた時期には、エドガーを抱いたまま部屋の中を何度も往復したこと。眠ったと思って寝台へ置けばすぐに泣き出し、また抱き上げることを繰り返した夜もあった。
ローゼンは質問を次々に重ねることはしなかった。アリシアが話し始めれば静かに聞き、その中で気になったことだけを時折尋ねる。エドガーが小さい頃に何を食べると機嫌が良かったのか、どんな遊びを好んでいたのか。それは、本来なら父親であれば自然と知っていたはずの、ごく普通のことばかりだった。
やがて二人は、小さな食卓のそばで休むことになった。外からは子どもたちの声が微かに聞こえる。エドガーもその中にいるのだろう。
ローゼンは室内をゆっくり見回してから、アリシアへ視線を戻した。
「息子を育ててくれて、ありがとう」
突然の言葉に、アリシアは少し目を瞬いた。
ローゼンは四年間いなかったことを長く謝るわけでも、自分を責めるわけでもなかった。ただ、自分の知らない場所でエドガーをここまで育てたことへの礼だけを伝えた。
「……私の子なんだから、当然でしょう」
アリシアはいつもの調子で返したものの、その声に以前のような棘はなかった。少し間を置いてから、視線を食卓へ落とす。
「まあ……大変ではあったけどね」
二人とも、そこで必要以上に感傷的な話を続けることはしなかった。ローゼンにとっても今回ここへ来たのは、失った四年間を悔やむためではない。その時間を少しでも知るためだった。
しばらくすると玄関の扉が勢いよく開き、エドガーが戻ってきた。頬を赤くし、少し土までつけている。そのまま二人のところへ駆け寄ると、さっきまで何をして遊んでいたのかを一気に話し始めた。昔の友人と競争したこと、新しくできた店を見つけたこと、広場が以前より広くなったこと。ローゼンもその話を聞き、アリシアは途中で服についた土を払ってやる。
夕方になると、三人は村の道を歩きながら滞在先へ戻ることになった。エドガーはまだローゼンへ見せたい場所が残っているらしく、翌日はどこへ連れていくのかを楽しそうに考えている。アリシアも久しぶりに薬草を採りに行こうかと話し、ローゼンは二人の会話を聞きながら隣を歩いていた。
昔の面影を残しながら、少しずつ町へ近づいている北部の村。
アリシアとエドガーにとっては懐かしい場所であり、ローゼンにとっては四年間知らなかった二人の暮らしを初めて知る場所だった。
三人は夕暮れの村を並んで歩きながら、ゆっくりと滞在先へ戻っていった。




