50. 子どもの時間
血縁確認から数日が経った。エドガーがローゼンの実子であることは正式な記録として残され、あれほど王宮内を騒がせていた血統への疑義も、少なくとも表立って口にする者はいなくなった。しかし、一つの問題が片づけば、それまで後ろに隠れていた別の問題が前へ出てくる。今度は、次代の王位を誰が継ぐのかという話だった。
それまで次代の王位については、先帝とオリーファの間に生まれた息子も有力な候補の一人として見られていた。現国王であるローゼンに子がいないと思われていた以上、それ自体は不自然な話ではない。だが、今は事情が違う。ローゼンには実子であるエドガーがいる。その事実が正式に認められた以上、現国王の息子を差し置いて別の者を次代の王とするのかという声が出るのは当然だった。
午後、アリシアはローゼンから話があると呼ばれ、執務室を訪れた。室内にはレオナードもおり、机の上には何通もの文書がまとめられている。つい数日前にも似たような光景を見た覚えがあり、アリシアは椅子へ座る前から嫌そうに眉を寄せた。
「……今度は何?」
「エドガー様の今後についてです」
レオナードが示した文書には、王位継承に関する貴族たちからの意見が記されていた。血縁確認以前から先帝の息子を推していた者がいる一方、エドガーがローゼンの実子だと確定したことで、彼を王太子とすべきだという声が急速に強まっているらしい。今すぐ立太子しなければならないわけではないが、いつまでも何の方針も示さないままというわけにはいかない。
「つまり、今度はエドを王太子にするかどうかって話なのね。……血縁確認が終わったと思ったら、もう次なのね」
アリシアは小さく息を吐いた。いずれこういう話になることは分かっていた。エドガーがローゼンの実子であり、この先も王宮で暮らしていく以上、王位継承から完全に切り離して考えることなどできない。それでも、まだ四歳の息子を見ているアリシアにとって、王太子という言葉はあまりにも重かった。
「最初に言っておくけど、エドはまだ四歳だからね。王族として必要なことを覚えさせるなとは言わないわ。これからもここで暮らすなら、何も知らないままってわけにもいかないでしょうし。でも、王太子になるかもしれないからって、明日から生活を全部変えるようなことは嫌よ。遊びたい時は遊ばせたいし、疲れたなら休ませたいの」
アリシアが気にしているのは、王太子という肩書きそのものより、それによってエドガーの日常まで変えられてしまうことだった。つい最近まで北の村で暮らしていた子である。王宮へ来てからも、ようやく父親との生活に慣れ、毎日のようにローゼンの部屋へ遊びに行き、王宮の中を探検して楽しめるようになったばかりだった。
そこへ突然大勢の教師をつけ、朝から晩まで勉強や礼儀作法を詰め込み、遊びも外出も制限するような生活を押しつけるつもりなら、アリシアは到底受け入れられない。王太子として立派に育てることばかりを優先して、四歳の子どもとして過ごせる時間を失わせるようなことだけはしたくなかった。
しかし、その点についてはローゼンも同じ考えだった。
「必要な教育は受けてもらうが、私が受けたものをそのままエドガーにやらせるつもりはない。まだ四歳だ。学ぶ時間と同じように、遊ぶ時間も家族と過ごす時間も必要だろう」
アリシアは少し意外そうにローゼンを見た。
ローゼン自身、幼い頃から王太子として育てられた。物心がついた頃にはすでに将来の国王として扱われ、学ぶ内容だけでなく、一日の予定や遊ぶ時間、誰と会うのかまで周囲に決められることが多かった。王太子として必要な教育だったことまで否定するつもりはない。それでも、かつて自分が感じていた不自由まで、四歳のエドガーへそのまま押しつけたいとは思っていなかった。
王族として覚えなければならないことはある。読み書きも、礼儀も、この国や王家についての知識も、これから少しずつ身につけていく必要があるだろう。しかし、それ以外の時間まで王太子として振る舞わせる必要はない。ローゼンの部屋へ遊びに来ることも、外へ出かけることも、服を汚しながら遊ぶことも、それだけで制限するつもりはなかった。
「……そこまで考えてたのね。もっと『王族なんだから必要だ』って言われるかと思ってたわ」
「必要なものは必要だと言う。ただ、それと子どもでいる時間を奪うことは別だと思っている」
「そう。なら、その点は私も同じよ」
二人の方針が一致していることを確認すると、レオナードは具体的な教育について説明を始めた。仮にエドガーを王太子とする方向で話を進めるとしても、いきなり本格的な王太子教育へ移る必要はない。まずは年齢に合わせた読み書きや簡単な歴史、最低限の礼儀から始め、それも一日の大半を占めない程度にする。教師についても、単に王族への教育経験が豊富な者ではなく、幼い子どもへ教えることに慣れた人物を選ぶという。
その案ならば、アリシアにも大きな異論はなかった。ただし、教師が王太子候補という肩書きを意識するあまり、最初から何でもできて当然という態度を取らないことだけは念を押した。エドガーは分からないことがあれば素直に分からないと言うし、興味を持てば何度でも質問する。その性格まで押さえつけて、言われたことだけを黙って覚える子にしたいわけではない。
教育についての大まかな方針が決まったところで、アリシアは改めて机の上の文書へ目を向けた。
「それで、王太子にすること自体はもう決まってるの?」
「まだ正式な決定ではありません。ですが、エドガー様が最有力となったことは間違いないでしょう」
レオナードの説明によれば、先帝の息子を支持する勢力も依然として残っている。これまで次代の候補として扱われてきた以上、エドガーの存在が確定したからといって、全員がすぐに考えを変えるわけではない。そのため、王宮としても貴族たちとの調整を進めながら、正式な立太子へ向けて必要な手続きを整理していくことになる。
アリシアはしばらく黙って考えた。王太子になれば、エドガーは今まで以上に政治の中へ巻き込まれる。それは血統確認の一件だけでも十分に思い知らされていた。それでも、危険があるからという理由だけで何も準備させないまま育てれば、困るのはいつかエドガー自身になる。
「……分かったわ。必要な勉強は始めましょう。ただし、王太子になるかもしれないからって、エドじゃなくなるわけじゃないからね」
「ああ。それは分かっている」
ローゼンが迷わず答えたため、アリシアもそれ以上同じことを繰り返さなかった。必要な教育は受けさせる。それでも、四歳の子どもとして遊ぶ時間も、家族と過ごす時間も残す。その前提さえ二人の間で揃っているのなら、今はそれで十分だった。
話し合いを終えると、アリシアとローゼンは一緒にエドガーのいる部屋へ戻った。扉を開ければ、ミレイユが見守る中、当の本人は床いっぱいに玩具を広げて遊んでいる。木彫りの馬を何頭も並べ、その周囲を小さな積み木で囲んでいるらしい。二人が揃って入ってきたことに気づくと、エドガーはすぐに顔を上げた。
「ママ、パパ!一緒に遊ぼう!」
つい先ほどまで、自分が次の王太子になるかもしれないという話をされていたことなど知る由もない。エドガーは当然のように二人を床へ座らせると、自分が考えた遊びについて一生懸命説明し始めた。
アリシアはそんな息子を見ながら、やはり王太子という言葉はまだ似合わないと思った。目の前にいるのは、父親と母親が揃って戻ってきただけで喜び、自分の遊びに付き合わせようとする四歳の子どもである。
ローゼンも国王らしく椅子へ座って見守るようなことはせず、エドガーの隣へ腰を下ろした。アリシアも反対側へ座る。エドガーによれば、床に作った囲いの内側は城で、その外には川が流れているらしい。事情を知らないローゼンが木彫りの馬を川の上へ進ませれば、すぐに違うと止められてしまう。どうやら橋を渡らなければならないらしく、ローゼンが言われた通りに馬を戻すのを見て、アリシアは堪えきれず笑った。
将来、本当にエドガーが王太子となれば、覚えなければならないことも、背負わなければならない責任も増えていく。その時が来れば、ローゼンもアリシアも親として向き合うつもりだった。
しかしローゼンは、自分が幼い頃に味わった不自由を息子へ押しつけたくなかった。アリシアもまた、王太子という立場を理由にエドガーから子どもでいられる時間を奪いたくなかった。恋愛については未だ曖昧なところを残している二人だったが、エドガーをどう育てたいのかということになると、不思議なくらい同じ方向を見ている。
エドガーはそんな両親の考えなど知らないまま、今度はアリシアへ木彫りの馬を一つ渡した。
三人はそのまま床に座り、しばらくエドガーの遊びに付き合った。
王太子になるかもしれない四歳の少年にとって、その日の午後は、いつもと何も変わらない時間だった。




