46. 正式な嫌疑
王都祭を終えて数日が経つと、王宮の中もすっかり普段の空気へ戻っていた。アリシアの部屋では、エドガーが祭りで買ってもらった木彫りの馬や小さな飾りを床に広げ、気に入ったものを何度も手に取ってはアリシアやミレイユへ見せている。祭りそのものを改めて長く振り返ることはなくても、部屋に増えた小さな品々と、それを大切そうに扱うエドガーの様子を見ていれば、あの日をどれほど楽しんでいたのかは十分に分かった。
「ママ、これパパの部屋にも持っていっていい?」
「いいけど、帰る時にちゃんと持ってきなさいよ。向こうに置きっぱなしにしたら駄目だからね」
「うん。今日もパパと遊ぶんだよね?」
「ええ。お昼を食べたあとに行く約束でしょう」
「じゃあ、お昼になったらすぐ行く!」
エドガーは満足したらしく、また木彫りの馬を床の上で走らせ始めた。ローゼンの部屋へ遊びに行くことも、今ではすっかり日常の一部になっている。王宮へ戻ったばかりの頃であれば、二人だけで過ごさせることに多少の落ち着かなさもあったが、今ではアリシア自身も特に気にしなくなっていた。
そんな穏やかな時間の途中で、部屋の扉が叩かれた。ミレイユが応対すると、訪れた使用人はアリシアへ伝言を残した。宰相レオナードから話があるため、昼食前に指定された部屋へ来てほしいというものだった。ローゼンも同席するらしい。
「ママ、どこ行くの?」
「ちょっとお話してくるだけよ。お昼までには戻ると思うから、ミレイユと待ってて」
「パパのところは?」
「そのあとよ。約束は変わらないから安心しなさい」
エドガーはそれを聞くとすぐに頷き、また玩具へ戻った。アリシアも支度を整え、ミレイユを部屋に残して指定された場所へ向かう。何について呼ばれたのかを知ったのは、その扉を開けてからだった。
部屋にはすでにローゼン、レオナード、クラウス、ディートリヒが揃っていた。机の上には数通の文書が並べられている。差出人も書式も少しずつ違っていたが、すべて同じ問題について提出されたものだった。
エドガーの血縁である。
これまでも王宮内では、本当にローゼンの実子なのかという噂は存在していた。しかし噂はあくまで噂であり、誰が言い始めたのかも分からないものへ王宮が一つ一つ応じる必要はない。今回のものは、それとは明確に違っていた。複数の貴族が名を連ね、正式な文書として父子関係の確認を求めている。
「正式な疑義が出たのね」
アリシアは机の文書を見ながら静かに言った。オリーファとの茶会ですでに血縁について直接触れられているため、疑う者がいること自体には驚かない。それでも、ついに名を出して正式な手続きを取る者が現れたとなれば、さすがに無視はできないだろう。
「内容を教えて」
レオナードが文書の要点を説明した。
「エドガー様が陛下のお子ではないと断定しているものではありません。将来的に王位継承へ関わる可能性がある以上、その前に父子関係を王家の正式な記録として残すべきだという主張です。陛下ご自身が息子として認めておられることとは別に、公的な確認を求めています」
だからこそ、単なる中傷として退けるのは難しい。表向きには、王位継承に関わる血筋を曖昧なままにしておくべきではないという筋の通った主張になっている。
クラウスは机の文書へ視線を落とした。
「名を連ねた者たち全員が、同じ意図で動いているとは限りません。本当に将来の継承争いを避けたいと考えている者もいるでしょうし、エドガー様の存在によって自分や親族の立場が変わる者もいるでしょう。現時点で誰か一人の差し金だと決めつけるのは早いかと」
ディートリヒも続ける。
「今はまだエドガー様が四歳ですから、大きな政治問題として本人へ直接影響する場面は少ないでしょう。しかし数年後、王族としての教育を受け、継承順位について具体的な話が始まれば、同じ疑義はさらに強い形で持ち出される可能性があります」
その頃になれば、エドガー自身も自分が何を疑われているのか理解できる年齢になっている。今よりも精神的な負担が大きくなる可能性もある。それならば、まだ政治的な意味を完全には理解していない今のうちに正式な確認を済ませ、後から同じ問題を繰り返されないようにしておく方が本人のためになるという考え方もあった。
「王家には、そのための正式な手続きが残されています」
レオナードが説明を続ける。
親子関係に重大な疑義が生じた場合、親子それぞれから少量の血を採り、決められた器と水を用いて反応を確認する。血の繋がりがあれば二つの血は次第に境界を失うように混ざり合い、繋がりがなければ分かれたまま残る。使用する器や水、採血の手順、立会人まで細かく定められており、結果だけではなく、誰がどのような状態で確認したのかまで記録として残される。
「日常的に行うものではありません。王家の血筋や王位継承に関わる重大な問題が生じた場合にのみ用いられるものです。実施するのであれば、過去の例と同じ形式に従うことになります」
アリシアは説明を黙って聞いていた。
「エドからも血を採るのよね?」
「はい。ただし、ごく僅かな量です。身体への負担はほとんどありません」
「どれくらい時間がかかるの?」
「採血そのものは短時間で済みます。確認の手続き全体としては、立会人の確認や記録がありますので、多少時間はかかりますが」
アリシアは少し考え、今度はローゼンを見る。
「あなたも一緒にやるの?」
「ああ。同じ場で同じように血を採るつもりだ。エドガーだけに何かをさせる形にはしない」
「それなら、その方がいいわね」
少なくとも、父親も同じことをすると分かれば、エドガーも少しは安心するだろう。アリシアが気にしているのは、採血そのものの危険性だけではなかった。何も知らない四歳の子どもに、突然血を採る理由をどう説明するのかということも大きい。
そもそも彼女自身には、確認など必要ないと思っていた。エドガーがローゼンとの間に生まれた子であることは、自分が一番よく知っている。それを他人に確かめてもらうという感覚そのものには、どこか馬鹿馬鹿しさすらあった。
けれど、ここで必要なのはアリシア自身が納得するための証明ではない。エドガーがこの先も王宮で暮らし、王家の一員として扱われていくのであれば、自分たちが分かっているだけでは済まないこともある。そのくらいは、アリシアにも理解できていた。
「……これを受けたら、少なくとも同じことで何度も疑われることは減るのよね?」
「勿論で御座います」
レオナードの答えに、アリシアはしばらく黙った。確認を受けること自体に怖さはない。結果についても、不安など一つもなかった。ただ、それで終わる話ではないことも分かっていた。
◇
結局、その日の話し合いは進展せずにそこで一区切りとなった。
「ママ、お話終わった?」
「終わったわよ」
「じゃあ、ご飯食べたらパパのところ行ける?」
「ええ。約束通りね」
それを聞いた途端、エドガーは嬉しそうに笑った。先ほどまで話していたことなど何も知らず、頭の中はこのあとローゼンと遊ぶことでいっぱいらしい。
昼食を終えると、木彫りの馬を持ってすぐにローゼンの部屋へ向かっていった。アリシアはその背中を見送りながら、先ほどの話を思い返す。
本人は何も知らない。
自分の血筋について正式な疑義が出ていることも、その確認をするかどうかで今後の立場が変わる可能性があることも知らない。ただ父親と遊ぶことを楽しみにしているだけだった。




