4. 辺境のアリシアの日常
王宮を出た時のことを、アリシアはほとんど覚えていなかった。
気づけばその日に荷物をまとめ、王宮の門をくぐり、王都を離れる馬車へ乗っていた。使用人たちが何か声を掛けてくれていた気もするが、その言葉は何一つ耳に残っていない。胸の奥では、ローゼンから告げられた「離縁してほしい」という一言だけが、何度も何度も繰り返されていた。
どこへ向かえばよいのかも分からなかった。
一族の元へ帰ることも考えた。けれど、余計な心配を掛けたくはなかったし、何より、自分自身が何をどう説明すればよいのか分からなかった。
結婚式の翌朝、突然離縁を告げられた。
そんな話を、誰が信じるというのだろう。
だからアリシアは、王都から遠く離れた場所へ行くことだけを決めた。
馬車を乗り継ぎ、いくつもの町や村を通り過ぎ、辿り着いたのは北方にある小さな村だった。
そこは王都とはまるで違う世界だった。石造りの豪奢な屋敷も、華やかな舞踏会もない。木造の家々からは暖炉の煙が立ち上り、畑では村人たちが笑いながら鍬を振るい、子どもたちは土の道を元気よく駆け回っている。決して裕福な村ではない。それでも、人々の穏やかな笑顔を見ていると、不思議と心が少しずつ落ち着いていくのを感じた。
そこで暮らすうち、アリシアは一つの話を耳にした。
この村は、母方の祖母が母を出産した際に世話になった場所なのだという。
旅の途中で産気づいた祖母を、当時の村人たちが総出で支え、無事に子どもを取り上げたらしい。
数十年の時を経て、その孫であるアリシアもまた、この村へ辿り着いた。
偶然にしては、あまりにも不思議な巡り合わせだった。
◇
それから数週間が過ぎた頃だった。
朝になると決まって吐き気を覚えるようになった。最初は旅の疲れが残っているだけだと思っていたが、日を追うごとに身体は重くなり、食事の匂いだけで気分が悪くなることも増えていく。
心配した村人に勧められ、アリシアは村で唯一の診療所を訪れた。
診察を終えた老医師は、穏やかな笑みを浮かべる。
「おめでとうございます」
その一言だけでは意味が分からず、アリシアは首を傾げた。
「……何がですか?」
「ご懐妊です。お腹に新しい命が宿っていますよ」
医師の言葉を聞いても、すぐには実感が湧かなかった。
ぼんやりと自分のお腹へ手を添える。
そこに、新しい命がいる。
その事実だけが、現実味を持たないまま胸へ落ちてきた。
結婚式の夜だったのか。それとも婚約中、互いの想いを抑え切れず、一線を越えたあの日だったのか。
いつ授かった命なのかは分からない。
けれど、この子の父親がローゼンであることだけは疑いようがなかった。
診療所を出ても、アリシアはしばらく歩くことができなかった。
人気の少ない道端で立ち止まり、春風に吹かれながら、もう一度お腹へ手を添える。
何も変わっていないはずなのに、その場所だけが少し温かく感じられた。
「……そうなんだ。あなたの子が、お腹にいるのね」
涙が静かに頬を伝う。
悲しいのか、嬉しいのか、自分でも分からなかった。それでも、お腹の中には二人を繋ぐ命が残っていた。その事実だけが、絶望の中で唯一残された希望のように思えた。
アリシアは目元を拭い、もう一度お腹へ手を当てる。
「大丈夫」
その言葉は、お腹の子へ向けたものだったのか、それとも自分自身へ言い聞かせたものだったのかは分からない。
「お母さんがちゃんと守るから」
どれだけ辛いことがあっても、この子だけは守り抜こう。
何があっても、一人にはさせない。
そう心へ誓い、アリシアは、少しずつ前を向いて歩き始めたのだった。
◇
村人たちは身寄りのない彼女を、本当の家族のように迎え入れてくれた。
畑で採れた野菜を分けてもらい、薪運びを手伝ってもらい、冬支度や保存食の作り方まで教えてもらう。困っている人がいれば自然と手を差し伸べ、困った時には誰かが助けてくれる。そんな暮らしの中で、アリシアも少しずつ笑顔を取り戻していった。
持ち前の明るい性格もあって、村へ馴染むのに時間は掛からなかった。
「アリシアさん。これ持ってきたよ!」
ある日、近所に住む女性が大きな籠を抱えてやって来る。
「えっ、私にですか?」
「もちろん。赤ちゃん用の服よ。みんなで縫ったんだから」
籠の中には、小さな産着や帽子、おくるみが丁寧に畳まれていた。
一針一針、手縫いで作られている。
誰かが時間を掛け、この子の誕生を楽しみにしながら作ってくれたことが伝わってきた。
「ありがとうございます……」
思わず目頭が熱くなる。
「ほらほら、泣かないの。お腹の子まで心配しちゃうよ」
「はい……」
涙を拭きながら笑うアリシアを見て、女性も優しく笑った。
出産の日が近づくにつれ、村人たちは我が子のことのように気に掛けてくれた。
身体を冷やさないよう毛布を持ってきてくれる人がいれば、栄養のある食事を差し入れてくれる人もいる。子育てを経験した母親たちは、自分たちの経験を惜しみなく教えてくれた。
「そうそう、生まれたばかりの子に蜂蜜は食べさせちゃ駄目だからね」
「えっ、そうなんですか?」
「一歳を過ぎるまでは我慢だよ」
アリシアは何度も頷き、小さな手帳へ丁寧に書き留めていく。
「熱心なお母さんになるねぇ」
そんな言葉に照れながら笑う日々が、少しずつ増えていった。
そして季節は巡る。
やがてアリシアは、一人の元気な男の子を出産した。
その子はエドガーと名付けられ、多くの村人たちから祝福を受けながら、この小さな村で人生の第一歩を踏み出したのだった。
◇
エドガーは村中の人々に可愛がられながら、すくすくと成長していった。
よちよち歩きを始めて、話せる様になり、何年か経つ頃には、気づけば近所の家へ遊びに行き、昼になると「お腹すいたー」と言って帰ってくる。畑では野菜を分けてもらい、牧場では子羊と遊び、鍛冶屋では木片を金槌代わりに叩いては得意げな顔をしていた。
「こらこら、また勝手にお邪魔して」
アリシアが迎えに行くと、村人たちは決まって笑う。
「いいんだよ。エドガーが来ると賑やかになるからね」
「今日は薪運びを手伝ってくれたんだぞ」
胸を張るエドガーに、アリシアも思わず笑みを浮かべる。
「ありがとうございます。本当に、うちの息子がご迷惑をお掛けして……」
「何を言ってるんだい。村の子どもは、村みんなで育てるものさ」
それは、この村では誰もが当たり前のように口にする言葉だった。
王宮で暮らしていた頃、子どもは家が育てるものだと思っていた。けれど、この村では違う。畑へ行けば畑の人が面倒を見てくれ、牧場へ行けば牧場の人が遊び相手になってくれる。誰かが叱り、誰かが褒め、困れば皆で助け合う。その輪の中で、エドガーは明るく素直な子へと育っていった。
もちろん、アリシアも村の人々へ頼ってばかりではなかった。
本を見ながら、薬草の知識を活かして傷薬や風邪薬を作り、体調を崩した人がいれば様子を見に行く。畑仕事を手伝うこともあれば、子どもたちへ読み書きを教えることもあった。
「アリシアさん、本当に助かるよ」
「私も皆さんに助けてもらっていますから」
そう言って笑えるようになった頃には、この村はもう帰る場所になっていた。
◇
そんな穏やかな日々が四年ほど続いた、ある日のことだった。
最初に異変が起きたのは隣村だった。
高熱が何日も続き、全身に強い倦怠感が現れる。やがて食事も喉を通らなくなり、寝込む者が次々と増えていった。同じ症状は周囲の村へも広がり、この小さな村にも及ぶまで、それほど時間は掛からなかった。
「また一人倒れたらしいよ」
「今度は鍛冶屋のご主人だって……」
日に日に笑顔は消え、不安だけが村を覆っていく。
診療所には患者が溢れ返り、老医師は休む間もなく村中を走り回っていた。それでも薬は効かず、熱は下がらない。
幸いにも、アリシアとエドガーは病に罹ることはなかった。
けれど、世話になった人たちが苦しむ姿を見ているだけなのは耐えられなかった。
診療所から戻った夜、アリシアは棚の奥から一冊の古びた本を取り出す。
幼い頃、王宮の書庫で夢中になって読み込み、勝手に持ち出した薬学書だった。思い入れが深く、王宮を出る時も、この一冊だけは手放せずに持ってきたのである。
「……確か、この症状なら」
本をめくる手が止まる。
その頁を見た瞬間、一つの出来事を思い出した。
まだ婚約中だった頃、熱を出して寝込んだローゼンを少しでも楽にしたくて、医師に黙って薬を調合したことがある。幸い薬はよく効いたものの、勝手なことをしたと父や医師、侍女たちにひどく叱られた。
「……あの時は怒られたっけ」
思わず苦笑が漏れる。けれど、すぐに表情を引き締めた。
本へ視線を戻し、必要な材料を確認する。
「……これなら作れるかもしれない」
必要なのは乾燥させたペパーミントの葉、イラクサの葉、そして毒素と結び付く性質を持つ希少な薬草、星露草の若葉だった。
幸い、以前採取して乾燥させておいた星露草が一枚だけ残っている。
「エドガー、ちょっとお願いしてもいい?」
「いいよー!」
絵本を読んでいたエドガーが元気よく顔を上げる。
「棚の一番左にある瓶を持ってきて。いい匂いの葉っぱが入っているの。それから、触るとチクチクする葉っぱの瓶。最後に、小さな木箱をお願い」
「いいにおいと、チクチクと、木箱ね!」
エドガーは元気よく立ち上がると、小さな足で家中を駆け回った。
「これー!」
両腕いっぱいに瓶や木箱を抱えて戻ってきた姿に、アリシアは自然と頬を緩める。
「ありがとう。よくできました」
頭を優しく撫でると、エドガーは嬉しそうに笑った。
アリシアは乾燥させたペパーミントとイラクサを乳鉢へ入れ、最後に星露草を加える。乳棒でゆっくりとすり潰していくと、爽やかな香りが部屋いっぱいへ広がった。やがて混ざり合った薬草は、深い翡翠色へと変わっていく。
「……やっぱり」
本の記述通りだった。
翌朝、完成した薬を持って診療所へ向かう。
老医師は薬を見つめ、少し困ったような表情を浮かべた。
「正直に言えば、初めて見る調合です」
「王宮の者から教えて貰った事のある調合です。これではいけないでしょうか?」
医師も静かに頷く。他に打つ手は残されていなかったのだ。
最初の患者へ薬を飲ませたのは、その日の昼だった。すると、夕方には熱がみるみると下がり始める。
翌日には食事を口にできる者が現れ、さらに翌日には自分の足で歩けるまで回復した患者もいた。
「治った……!」
「本当に効いている!」
診療所へ久しぶりに明るい声が響く。
老医師は驚きを隠せないまま、深く頭を下げた。
「アリシアさん、どうか力を貸してください。このままでは薬が足りません」
「もちろんです」
それからの日々は慌ただしかった。
アリシアはエドガーの世話をしながら、朝から晩まで薬を調合し続ける。
村の若者たちは山へ薬草を採りに入り、女性たちは乾燥や選別を担当する。子どもたちは瓶を洗い、完成した薬を診療所へ運んだ。
小さな村は一つとなり、流行病へ立ち向かった。
その成果はすぐに現れた。
周囲の村では今なお患者が増え続けているにもかかわらず、この村だけは日に日に回復する者が増えていく。死者もほとんど出ず、流行病は急速に収束へ向かい始めた。
やがて、その噂は商人たちによって王都へ届けられる。
当初は尾ひれの付いた噂話として扱われていたが、各地から寄せられる報告を照らし合わせると、北方のその村だけが異様なほど被害が少ないことが判明した。
ついに王宮も、この異変を見過ごすことはできなかった。
王命により、流行病の原因と治療法を調べるため、調査団が北方の小さな村へ派遣されることとなる。
その決定が、四年前に王宮を去ったアリシアと、再び王家を結び付ける最初のきっかけになるとは、この時まだ誰も知る由はなかった。




