3. 別れてくれと言ったあの日の朝
《閲覧注意》です。
人によっては気分が悪くなるかもしれません。(エログロではないです)
東の空が白み始めた頃、寝室の扉が静かに開いた。その音を聞いた瞬間、寝台へ腰掛けていたアリシアは勢いよく立ち上がる。一睡もしていなかった。何度も横になろうとはしたものの、「すぐ戻る」というローゼンの言葉を信じて待ち続けていたのである。窓の外で月が傾き、やがて夜が明けても、彼は戻ってこなかった。それでも何か急を要する事態が起きたのだろうと自分へ言い聞かせ、不安を押し込めて待ち続けていたのだ。だからこそ、ようやく姿を見た瞬間、胸を締め付けていた重苦しいものは一気にほどけた。
「ローゼン……!」
アリシアは嬉しそうに駆け寄ると、心から安堵したように笑みを浮かべた。
「お帰りなさい」
その笑顔を見たローゼンは、一瞬だけ目を細めた。
「……ただいま」
掠れた声だった。昨夜、部屋を出ていった時とは別人のように顔色は悪く、目の下には濃い隈が浮かんでいる。整えられていた黒髪も乱れたままで、上着の襟元さえわずかに崩れていた。何があったのかは分からないが、一晩中休むこともできなかったのだろう。アリシアはすぐに笑みを消し、心配そうに彼の顔を覗き込んだ。
「大丈夫?顔色が真っ青よ。一晩中起きていたのでしょう?」
そっと頬へ触れようと手を伸ばす。けれど、ローゼンはほんの少しだけ身体を引いた。その動きはごく小さなものだったが、幼い頃から彼の仕草を見てきたアリシアには、はっきりと分かってしまった。
それでもアリシアは、彼が疲れ切っているからだと思うことにした。今は触れられることさえ負担なのかもしれない。そう考え、伸ばしかけた手を下ろすと、明るい声を作った。
「何か食べる?朝食を用意してもらうわ。それとも、先に少し休みましょう。今日は結婚式の翌日だもの。急ぎの予定がないなら、何もしなくても許されるはずよ」
「アリシア」
名を呼ばれ、アリシアは少しビクッとする。ローゼンは扉の前に立ったまま、こちらへ近づこうとしない。いつもなら疲れて帰ってきた時ほど、アリシアの隣へ座る人だった。言葉を交わす余裕がなくとも、傍にいるだけで落ち着くのだと、何度もそうしてきた。それなのに今は、わずか数歩の距離が、ひどく遠いものに感じられた。
「その前に……話がある」
「話?」
国王から呼び出された理由だろうか。この時間まで戻れなかったほどなのだから、余程の事態が起きたに違いない。国内で何か問題が起きたのか、他国との関係に異変があったのか、それとも国王の身に何かあったのか。考えられる理由はいくつもあったが、どれも明るい話ではなさそうだった。
「分かったわ。聞くから、取りあえずこちらへ来て。ずっと立っていたら疲れるでしょう?」
「ここでいい」
短い返答だった。その声には、昨夜まであった雰囲気がまるでなかった。アリシアの胸に、言いようのない不安が広がっていく。ローゼンは視線を落としたまま、固く手を握り締めていた。何かを言おうとしては唇を閉じ、息を吸っても、すぐには声にならない。
寝室の外では、朝を迎えた王宮が少しずつ動き始めている。遠くから鳥のさえずりが聞こえ、廊下の向こうでは使用人が行き交う足音が響いていた。窓から差し込む朝の光は、昨夜の祝福の名残が残る部屋を明るく照らしている。白い花々も、二人分用意された衣服も、婚礼の贈り物も、何一つ変わっていない。それなのにローゼンだけが、まるで別人になってしまったようだった。
「ローゼン?」
もう一度名前を呼ぶと、彼の肩がかすかに揺れた。やがて長い沈黙の末に、ローゼンは小さく息を吐いた。
「……君との婚姻を終わらせたい」
何を言われたのか分からなかった。
「……え?」
間の抜けた声が零れる。婚姻を終わらせる。その言葉の意味自体は理解できる。けれど、それが自分たちに向けられたものだとは、どうしても思えなかった。
「今……何て言ったの?」
聞き間違いだと思いたかった。昨夜まで二人は、あれほど幸せだったのだ。夫婦として迎える最初の朝を楽しみにしていた。これからどのように暮らしていくか、どんな家庭を築きたいか、笑いながら語り合った。その相手が、わずか数時間後に婚姻を終わらせたいなどと言うはずがない。
けれど、ローゼンは顔を上げないまま、今度ははっきりと言った。
「離縁してほしい」
その一言で、頭の中が真っ白になった。何か返さなければならないのに、声が出ない。指先が急に冷たくなり、足元から身体の感覚が失われていくようだった。
「……どういうこと?」
ようやく出た声は、自分のものとは思えないほど震えていた。
「昨日、結婚したばかりよ?」
当たり前の事実を確かめるように口にする。
「大勢の前で誓ったじゃない。これから一緒に生きていくって。昨夜だって、あんなに楽しそうに未来の話をしていたでしょう?朝になったら全部なかったことにするなんて、そんなのおかしいわ」
ローゼンは答えない。アリシアは戸惑いながら一歩近づいた。
「何かあったの?」
国王に呼び出されたことと無関係であるはずがなかった。
「お義父様に何か言われたの?この結婚に反対する人がいた?それとも、私の家に何か問題が見つかったの?」
「違う」
初めて返事があった。
「じゃあ、何なの?」
「……君には関係のないことだ」
「私たちの話なのに、私に関係がないわけがないでしょう!」
思わず声が大きくなる。しかし、ローゼンは何も説明しようとしなかった。昨夜までなら、アリシアが不安そうな顔をしただけで、拙くても言葉を尽くそうとしてくれた。王太子として明かせない事情があった時でさえ、今は話せないと正直に伝えてくれた。それなのに今は、何もかもを一人で抱え込むように、頑なに口を閉ざしている。
「お願い。ちゃんと話して。私が何かしたのなら教えて。知らないうちに誰かを傷つけたの?王太子妃として相応しくないことをしてしまった?」
「君は何もしていない」
「だったら、どうしてなの!」
抑えきれない涙が瞳から溢れ、頬を伝った。
「私が悪くないなら、どうして離縁しなければならないの!?何も説明されないまま、はいそうですかって受け入れられるわけがないでしょう!」
ローゼンの唇がかすかに動く。けれど、声は聞こえなかった。アリシアは袖を掴む手に力を込めた。
「誰かに脅されているの?」
「違う。そうじゃないんだ」
「嘘よ。昨夜までの貴方が、たった一晩でこんなことを言い出すはずがないもの」
ローゼンの顔には、別れを望む者の晴れやかさなど欠片もなかった。疲れ切り、苦しそうに呼吸を繰り返し、今にも何かに耐えきれなくなりそうな顔をしている。そんな人から、これは自分の望みだと言われても信じられるはずがない。
「私を守るため?何か危険なことがあるの?」
「違うと言っている」
「なら、私を見て言って!!」
アリシアは震える声で告げた。
「本当に私と別れたいのなら、ちゃんと私の目を見て言って。もう愛していないと、私と夫婦でいることが苦痛なのだと、そう言ってよ」
ローゼンは顔を上げなかった。俯いたまま、握り締めた拳をわずかに震わせている。
「ローゼン、お願い……私を見て」
それでも応じてもらえない。ならば自分から彼の頬を触り、顔を近づけ覗き込もうとしたが、ローゼンは逃げるように顔を背けた。その仕草が、何よりも胸を抉った。
「私の顔も見たくないの?どうして見てくれないのよ」
答えはない。昨夜までアリシアの名を優しく呼び、傍へ引き寄せてくれた人が、今は触れることさえ避けるように立っている。その変化が恐ろしくて、アリシアは自分でも何を言っているのか分からないまま、必死に言葉を重ねた。
「私、何かしてしまったのよね?」
「……」
「何がいけなかったのか教えて。私の嫌だったところも、直してほしいところも全部言って。妃教育が足りないならもっと勉強する。私の振る舞いが貴方の負担になっていたなら改める。王宮で暮らすことが難しいなら、離宮でも領地でも構わない。貴方が望むことなら、何だってするから」
言葉を重ねるたび、惨めになっていく。それでも、離縁を受け入れるよりはずっとよかった。
「全部直すから、離縁だけは嫌……」
縋るように告げると、ローゼンの身体が強張った。
「私は貴方と一緒にいたいの。王太子妃になりたいから結婚したわけじゃない。貴方だったから、妻になりたいと思ったのよ。王太子じゃなくても、何も持っていなくても、私は貴方を選んでいたわ」
ローゼンは長く息を止めていた。やがて、何かを振り切るように目を閉じる。
「……これは、私が決めたことだ」
「嘘よ。そんな顔で言われても信じられない」
今まで聞いたことのないほど冷たい言葉だった。胸を鋭く刺され、アリシアの指から力が抜けかける。それでも離したくなくて、必死に袖を掴み直した。
「どうして、そんな言い方をするの?」
「君には、王宮を出てもらう」
「嫌よ」
「レインフォート家へは、こちらから説明する。今後の生活に困らないだけの金も用意する」
「そんなものはいらない!」
アリシアの叫びが寝室に響いた。
「お金が欲しくて貴方と結婚したんじゃない!屋敷も宝石も地位もいらないわ。欲しいのは貴方だけなの!」
その瞬間、ローゼンが初めて顔を上げた。青い瞳が、ほんのわずかな間だけアリシアを捉える。そこに浮かんでいたのは嫌悪でも冷淡さでもなかった。深い苦痛だった。今にも泣き出しそうなほど傷ついた目をしていた。
アリシアは息を呑んだ。
「ローゼン……?」
その名を呼ぶと、彼は我に返ったように再び視線を伏せた。今見えたものを隠すように表情を閉ざし、掴まれていた袖へ手を添える。
「……すまない」
アリシアの指を一つずつ外すように、静かに手を離させた。乱暴に振り払われたわけではない。その優しさが残っていることが、かえって残酷だった。嫌われたのなら、まだ諦められたかもしれない。けれどローゼンは、今もアリシアを傷つけないようにしている。それなのに別れようとしている理由だけは、何一つ教えてくれない。
ローゼンは踵を返し、扉へ向かう。
「待って!」
アリシアは反射的に追いかけた。
「まだ話は終わっていないわ!私は何も分かっていない!こんな一方的な話、受け入れられるはずがないでしょう!」
ローゼンの足は止まらない。
「お願い、行かないで……!」
昨夜と同じ言葉だった。けれど、昨夜はすぐに戻ると約束してくれた。今度は何も返してもらえない。
扉へ手を掛けた背中を前に、アリシアは最後の力を振り絞るように声を上げた。
「貴方を、あれだけ愛していたのに!」
ローゼンの手が止まった。ほんの一瞬だけ、背中が揺れる。
「今だって愛しているわ!昨日まであれほど愛してくれた貴方が、どうして何も教えてくれないの!?私たちは夫婦になったのでしょう!一人で勝手に決めないでよ!」
それでも、ローゼンは振り返らなかった。やがて扉が開き、その姿が向こう側へ消えていく。
「ローゼン!」
閉ざされた扉へ駆け寄った時には、既に廊下から足音が遠ざかり始めていた。扉を開けて追いかけることもできたはずだった。けれど、足が動かない。僅か数時間前まで幸福に満たされていた寝室の中で、アリシアは一人きりになった。
祝福のために飾られた白い花々。二人分用意された朝の衣服。寝台の傍らへ置かれた婚礼の贈り物。どれも夫婦としての未来が始まることを示しているのに、肝心の夫だけがいなくなっていた。
アリシアは震える手で、自分の左手へ触れた。そこには昨夜と変わらず、婚姻の証である指輪が嵌まっている。灯りを受けて輝くそれを見ても、もう幸せな気持ちにはなれなかった。
「……どうして。どうしてなのよ」
次の瞬間、立っていることができなくなり、その場へ崩れ落ちた。床へ膝をついても痛みは感じなかった。胸の奥を引き裂かれるような苦しみに比べれば、他の感覚など何も入ってこない。
分かるのは、たった一つだけだった。
最愛の人は、自分との離縁を望んでいる。
そうしてアリシアは、夫婦として迎えるはずだった最初の朝に、愛する人から別れを告げられたのである。




