2. 夫婦として迎えた、あの初夜
あの日、結婚式を終えた夜。王宮の一室は静かな灯りに包まれ、窓の外には満月が浮かんでいた。昼間は祝福に囲まれ、次から次へと貴族たちから声を掛けられていた二人も、ようやく誰にも邪魔されない時間を迎えている。
今日からローゼンは本当の意味で自分の夫になる。
それだけのことで、アリシアの胸は何度も高鳴った。
寝室には柔らかな花の香りが漂っている。侍女たちが祝福の意味を込めて飾ってくれた白い花々は、窓から差し込む月明かりを受け、静かに揺れていた。暖炉では薪が小さく爆ぜ、部屋全体を穏やかな温もりで満たしている。
昼間の賑わいが嘘のようだった。
朝から式典が始まり、大聖堂では多くの貴族や騎士、諸外国から訪れた使節たちに祝福され、披露宴では休む暇もないほど挨拶を交わした。
王太子夫妻となった二人は、一日中誰かに囲まれていたのである。
それでも、不思議と疲れは感じなかった。
今日という日を、ずっと夢見てきたからだ。
幼い頃から隣にいた人と結ばれ、これから先の人生を共に歩いていく。
それだけで十分だった。
隣を見ると、ローゼンはどこか落ち着かない様子で視線を泳がせている。その姿がおかしくて、アリシアは思わず笑みを零した。
ローゼンは昔からこうだった。
人前では王太子としての重責を堂々と担ってみせるローゼン。
だが、ひとたび扉が閉ざされ、二人きりの空間になると、途端にその余裕はどこへやら、不器用なまでの照れ屋へと変わってしまう。
だからこそ、こういう時はいつもアリシアから歩み寄るのが定石だった。
思い返せば、まだ婚約者という立場でありながら、溢れる想いを抑えきれなかった夜もある。
星空を眺めながら肩を寄せ合い、何時間も未来の話をしたこともあった。
ローゼンは決して積極的な性格ではなかったが、アリシアが隣へ座れば自然と距離を詰め、帰る時間になれば名残惜しそうに手を離す。
その積み重ねが、今日という日に繋がっていた。
静かな寝室の中、アリシアは愛おしそうに身体を寄せ、ローゼンの胸元へと滑り込んだ。心地よい体温を確かめるように、そっと体重を預ける。
「ねえ……やっぱり、ローゼンの腕の中が一番落ち着くわ」
耳元でくすりと笑いながら頬を擦り寄せると、ローゼンは耳たぶまで真っ赤に染め上げ、困ったように息を零した。
「アリシア……もう少しこう……加減というものが……」
「今さら何を言っているのよ」
「そういう問題じゃなくて……その、近いよ」
「今夜からは夫婦よ?もう、前みたいに隠す必要なんてないでしょう?」
そうしながらも、ローゼンがアリシアを突き放すことは決してない。
むしろ、愛おしさを噛み締めるように背中へ回された腕には自然と力がこもり、まるで壊れやすい宝物を抱くかのように、そっと、しかし決して離さんと引き寄せられる。
アリシアは、その腕が好きだった。
言葉は少なくても、その抱き締める腕が、その手が、自分をどれほど大切に思っているのかを何より伝えてくれる。
肌越しに伝わるその優しさへ目を細めながら、アリシアは彼の胸へさらに頬を寄せる。
ゆっくりと耳を澄ませば、規則正しい鼓動が聞こえてきた。
昔から好きだった音だった。
嫌なことがあった日も、不安な夜も、こうして抱き締めてもらうだけで不思議と心が落ち着いた。
「ねえ」
「……何?」
「緊張してる?」
そう尋ねると、ローゼンは少しだけ目を逸らす。
「……してる」
「ふふっ」
正直に認めたことが可笑しくて、アリシアは小さく笑った。
その笑い声を聞くと、ローゼンも照れたように肩をすくめる。
「笑わなくてもいいだろう」
「だって、昼間はあんなに立派だったのに」
「昼間と今は違うと思うよ」
「えっ?」
「……君しかいないから」
アリシアは嬉しそうに微笑み、そっと彼の頬へ触れる。指先で前髪を整え、額へかかった髪を優しく払う。
「今日は本当にお疲れさま」
その言葉に、ローゼンは静かに目を細めた。
朝から誰より忙しかったのは彼だ。
そんな疲れを誰より先に見抜けるのは、幼い頃から隣にいたアリシアだけだった。
ローゼンは何も言わない代わりに、彼女の手へ自分の手を重ねた。
指先が自然と絡まる。
婚約してから何度も繋いできた手だった。
それなのに今日は、これまでとは少しだけ意味が違う。
今日からは恋人ではなく、夫婦として繋ぐ手なのだ。そう思うだけで胸が熱くなる。
甘やかな疲労と、これからの人生を共に歩むという確かな実感が、二人をいつも以上に素直にさせる。これまで過ごしてきた日々も十分に満たされていたはずなのに、「今日からは夫婦なのだ」という事実が、どうしようもなく互いの心を優しく満たしていくのだった。
王宮で暮らすことになっても、毎朝一緒に朝食を食べたいこと。執務が終わったら、どれだけ忙しくても二人でお茶を飲む時間だけは作ってほしいこと。休日には秘密の抜け穴を使い、こっそり抜け出して、昔のように街を歩いてみたいこと。
そんな小さな願いを一つ口にするたび、ローゼンは「それくらいなら約束できる」と笑った。
まだ始まったばかりの夫婦生活には、楽しみしかないと思っていた。
「ねぇ、子どもは何人くらい欲しい?」
アリシアが何気なく尋ねると、ローゼンは少し考えてから照れくさそうに笑う。
「何人でもいいよ。ただ……みんな君に似て、元気に育ってくれたら、それで十分だ」
「ふふっ。私は貴方に似た子も見てみたいわね」
「僕に?」
「うん。目元とか、笑った時の顔とか。きっと可愛いもの」
そう言うと、ローゼンは照れ隠しのように視線を逸らした。
「君は、そういうことを平気で言うんだから」
「良いじゃない?私は欲しいのよ?」
アリシアはそう言って、彼の肩へそっと頭を預ける。
しばらくの間、どちらも何も話さなかった。
言葉がなくても心地よい時間だった。
暖炉の薪が小さく音を立て、窓の外では夜風に揺れた木々が葉擦れを響かせる。その穏やかな音色に耳を傾けながら、二人は同じ景色を眺めていた。
こうして隣にいられるだけで幸せだった。
幼い頃は、いつかこんな日が来るとは思っていなかった。
庭園の東屋へ隠れた日も、勉強を抜け出して秘密の通路を使い、ローゼンの部屋へ遊びに行き、侍女たちに追い掛けられた日も、ただ毎日が楽しかった。
やがて互いを異性として意識するようになり、婚約者となり、それでも二人の距離は昔とほとんど変わらなかった。
変わったのは、触れた時に少しだけ胸が高鳴るようになったことくらいだった。
それから他愛のない話をして笑い終えると、アリシアは改めてローゼンの顔を見つめる。
彼は昼間と比べて、今は少しだけ疲れた表情をしていた。
アリシアは何気なく手を伸ばし、彼の頬へ触れる。
「本当に頑張ったわね」
「君もだよ。隣でかなり大変だっただろう」
アリシアは嬉しそうに微笑むと、そのまま額を彼の肩へ預けた。
「これからも、ずっと隣にいるわ。嫌って言っても離れないから」
と抱きつくアリシア。ローゼンはそんな様子を見つつ、アリシアの髪をそっと撫でた。
その温もりを感じながら目を閉じる。
何年先も、何十年先も。この人とこうして笑い合って生きていくのだと、疑いもしなかった。
春には庭園を散歩し、夏には避暑地へ出掛け、秋には収穫祭を楽しみ、冬には暖炉の前で肩を寄せ合う。
子どもが生まれたら、庭園を元気に走り回る姿を二人で眺めるのだろう。転んで泣けばローゼンが抱き上げ、アリシアが膝の傷へ薬を塗る。
そんな何気ない未来を思い描くだけで、胸は幸せでいっぱいになっていく。
この人となら、どんな未来だって歩いていける。
そう信じて疑わなかった。
◇
そんな、甘い夜からしばらく経った後だった。
コンコンコンコン、と部屋の扉が叩かれる。
二人は同時に顔を上げた。
「……失礼いたします」
扉の向こうから聞こえてきたのは、女の従者の声だった。
「国王様がお呼びでございます。至急とのことです」
その一言で、ローゼンの表情が引き締まる。
「父上が……?」
何かあったのだろうか。この時間に、それも至急で呼び出されるなど普通ではない。
ローゼンはすぐに寝台を降りると、急いで服へ袖を通し始めた。
「もう行っちゃうの?ローゼン?」
アリシアは布を身体へ巻き付け、そのまま彼のところまで歩いていく。
まだ離れたくなかった。
ほんの少しでも一緒にいたい。
そんな気持ちが、自然と足を動かしていた。
アリシアが名残惜しそうに見上げると、ローゼンは着替えの手を止め、小さく微笑んだ。
そして何も言わず、そっとアリシアの頬へ手を添える。
その手は少しだけ冷たかった。
緊急の呼び出しに気持ちが切り替わっているはずなのに、最後までアリシアを気遣うその優しさは、いつものローゼンだった。
親指が頬を優しく撫でる。
「父上がお呼びだそうだ。大丈夫だ。すぐ戻るよ」
優しい声は、いつものローゼンそのものだった。
アリシアは小さく頷きながらも、その服の裾を指先でそっと掴む。
ローゼンはその手へ視線を落とすと、困ったように、それでいて愛おしそうに微笑む。
「そんな顔をしないで」
「……だって」
「本当にすぐ戻るから」
そう言って、今度はアリシアの額へ軽く口づけてからアリシアを抱き寄せた。
幼い頃から何度も額を合わせて笑い合ってきた二人だったが、その口づけは今日だけは特別な意味を持っているように感じた。
アリシアは嬉しそうに目を細める。
「じゃあ待ってるから」
短く頷いたローゼンは、最後にもう一度だけアリシアを見つめると、静かに部屋を後にした。
扉が閉まり、部屋には静寂だけが残る。アリシアは「すぐ戻る」という言葉を信じ、寝台へ腰掛けたまま彼の帰りを待った。しかし、一時間が過ぎても、二時間が過ぎても、扉が開くことはない。窓の外では月がゆっくりと傾き、やがて東の空が白み始める。それでもローゼンは、朝方になるまで部屋へ戻ってくることはなかった。




