1. 王太子を最も愛した女性
アリシア・レインフォート。
王太子ローゼン・クライゼンを、この国で誰よりも愛していた女性である。
そして、当時の溺愛ぶりを振り返るならば、他の候補者の追随を許さないほどだった。
もちろん、アリシア以外にも王太子妃候補は何人もいた。王国でも指折りの名門公爵家の令嬢、隣国の王女、王宮内に強い影響力を持つ後妃一推しの娘。家柄や美貌、教養だけを比べれば、アリシア以上と評価される女性もいたかもしれない。
しかし、ローゼンはアリシアばかりに夢中になっており、他の女性などまるで眼中にもなかった。
王宮で催された舞踏会では、ローゼンが最初に踊る相手は必ずアリシアだった。形式上、他の令嬢とも踊らなければならない時でさえ、その視線は度々アリシアの姿を探していたという。
アリシアの方も似たようなもので、ローゼンが忙しくて会えない日には、わずかな時間でも顔を見られないかと王宮へ足を運んだ。執務中の彼を邪魔することはなかったが、休憩時間になれば手作りの菓子や温かい飲み物を持って現れた。
若い二人の仲睦まじさは王宮でも有名であり、使用人たちから微笑ましく見守られていた。
そして、二人は幼い頃から共に育った幼馴染でもあった。
王宮の庭園を駆け回り、時には勉強を教え合い、時には剣術の稽古を見守り合う。泣けば慰め、笑えば一緒に笑う。そんな日々を何年も積み重ねるうちに、互いの隣にいることは当たり前になっていた。
幼いローゼンは、現在よりもさらに口数が少なかった。王太子という立場から周囲には常に大人びた態度を求められ、同年代の子どもたちと遊ぶ機会もほとんど与えられなかったのである。
そんな彼の手を、最初に引いたのがアリシアだった。
「ねぇ!今日も庭園を探検しましょう!」
「……昨日もしたですよね」
「良いじゃない!ほら早く!」
幼いアリシアが当然のように言えば、ローゼンは困ったような顔をしながらも、結局は彼女についてきた。
アリシアを主導とし、二人で庭師の目を盗み、背の高い生け垣の間へ潜り込んだこともある。誰も使わなくなった古い東屋を見つけ、自分たちだけの秘密基地を作ったこともあった。
その後、二人揃って大人たちからひどく叱られたが、アリシアにとっては今でも忘れられない思い出だった。
少し成長してからは、共に学ぶ時間が増えた。歴史や礼法についてはアリシアの方が覚えるのが早く、剣術や戦術についてはローゼンの方が優れていた。苦手なところを補い合いながら、二人は教育を受けていった。
ローゼンが厳しい稽古で手を傷つければ、アリシアが薬を塗った。
アリシアが教育の失敗で教師から叱られれば、ローゼンは何も言わず隣へ座り、彼女が落ち着くまで一緒にいてくれた。
彼のためなら何だってできる。
それほどアリシアはローゼンを愛していた。
そして、それはローゼンも同じだった
寒ければ何も言わず外套を掛けてくれ、疲れている様子を見せれば誰よりも早く気づき、甘い物が好きだと言えば、王都中を探し回って手に入れてくる。口数は多くないが、その優しさだけは誰にも負けなかった。
以前、アリシアが何気なく「いつか、南部でしか採れない果実を使った菓子を食べてみたい」と口にしたことがある。
ほんの雑談だったため、本人はすぐに忘れていた。
しかし、数週間後、ローゼンはその菓子を持ってアリシアの元へ訪ねてきた。聞けば、南部へ向かう使者にわざわざ頼み、帰りに買ってきてもらったのだという。
「あら!覚えてくれたの!?あれ、何気なく言っただけだったのに」
「君のお願いを忘れる理由がないだろう」
「ふふっ、ありがと」
ローゼンにとっては、アリシアの言葉を覚えていることも、彼女を喜ばせることも、特別な行動ではなかったのだろう。
その不器用な優しさが嬉しくて、アリシアは一人では食べず、菓子を半分に分けてローゼンへ差し出した。
「一緒に食べた方がおいしいよ」
「良いのか……」
「貴方と食べたかったのです。良いから遠慮せず、ほら!」
ローゼンは耳を赤くしながら、アリシアから「あーん」と差し出された菓子を口にした。その様子があまりにも初々しく、近くを通りかかった侍女たちは思わず視線を逸らす。
婚約者同士とはいえ、人前でも遠慮なく仲睦まじい二人は、王宮ではすっかり有名だったのである。
二人はやがて結婚し、未来の王と王妃になる。
互いを支え合い、穏やかな家庭を築く。
それを疑う者は、誰一人としていなかったのである。
◇
「ママー!おきゃくさまがきたみたい!」
幼い声が家の中へ響き、アリシアは薬棚へ並べていた瓶をそっと元の場所へ戻した。
「はいはい。ちょっと待っていてね」
作業部屋を出ると、小さな男の子が廊下で待っていた。四歳になる息子のエドガーである。
朝から庭で遊んでいたらしく、黒い髪には小さな葉が一枚ついていた。袖口にも土がついており、どうやらアリシアが仕事をしている間に、随分と元気に走り回っていたらしい。
「エドガー。お客様の前に出るなら、まずは手を洗いましょう」
「もうあらったよ」
「本当に?」
「ほんと」
得意げに両手を差し出されたが、指先にはうっすらと泥が残っている。
アリシアが黙って見つめると、エドガーはゆっくりと手を引っ込めた。
「……もういっかい、あらってくる」
「そうしてちょうだい」
エドガーは廊下の奥へ駆けていった。途中で転びそうになり、慌てて壁へ手をついたものの、何事もなかったように走り去っていく。
「もう!走らないの!」
「はーい!」
返事だけは立派だったが、足音はまったく遅くならなかった。
アリシアは小さく息を吐きながらも、頬には自然と笑みが浮かんでいた。
黒髪と青い瞳を持ち、目元だけはアリシアによく似ている。しかし、それ以外は若き日のローゼンをそのまま幼くしたような顔立ちだった。
少しだけ不機嫌になると口を固く結ぶところも、何かに集中すると周囲の声が聞こえなくなるところもよく似ている。
その姿を見るたび、アリシアは胸の奥が少しだけ締めつけられた。
そう。この子はローゼンとの子どもだった。
初めて腕へ抱いた日、あまりにも父親によく似た寝顔を見て、アリシアは思わず泣いてしまったのだ。
嬉しくなかったわけではない。
腕の中にいる小さな命は、何よりも大切だった。この子だけは何があっても守ろうと、何度も心に誓った。
それでも涙が止まらなかったのは、愛する人を思い出してしまったからである。
目を閉じた顔も、小さく握りしめた手も、ローゼンとの間に確かに愛があったのだと告げているように思えた。
ローゼンは、この子の存在を知っていたのだろうか。知っていてなお、アリシアとの別れを選んだのか。それとも、本当に最後まで知らなかったのか。
四年という歳月が流れた今でも、その答えは分からない。
「ママー、あらったよ!」
戻ってきたエドガーが、今度こそ綺麗になった両手を見せてくる。
「えらいわね」
「お客様、となりのおばあちゃんだった」
「そうなの?」
「背中がいたいって」
「じゃあ、薬を用意しないとね」
アリシアが作業部屋へ戻ろうとすると、エドガーも当然のようについてきた。薬の調合中は危険だから近づかないよう何度も教えているため、部屋の入り口で足を止める。
「僕もてつだう!」
「今日は何を手伝ってくれるの?」
「びん!」
「うーん。落としたら大変だから、布を持ってきてくれる?」
「分かった!」
役目を与えられたことが嬉しいのか、エドガーは胸を張って布を取りに向かった。
アリシアは王都から何日も離れた辺境の村で暮らしている。
周囲を深い森と山々に囲まれた小さな村で、春になれば薬草が芽吹き、夏には色とりどりの花が咲く。秋には木の実が実り、冬になれば一面が雪に覆われる。
華やかな王都とは正反対の土地だった。
王宮のように磨き上げられた大理石の床もなければ、何十人もの使用人が世話をしてくれることもない。朝になれば自分で火を起こし、井戸から水を汲み、食事を作らなければならなかった。
最初の頃は、薪へうまく火をつけることさえできなかった。
煙ばかりが上がる竈の前で咳き込んでいると、近所に住む老婦人が呆れながら助けてくれた。畑の耕し方は村の農夫に教わり、寒い季節の保存食の作り方は、村の女たちから教えてもらった。
元王太子妃であったことを知る者はいない。
村人たちにとって、アリシアは少し身なりのよい若い母親であり、薬草に詳しい親切な薬師でしかなかった。
人々は温かく、穏やかな時間が流れていた。
そんな村で、アリシアは薬師として生計を立てている。
熱を出した子どもがいれば解熱薬を調合し、薪割りで怪我をした男には傷薬を塗る。咳が止まらない老人には喉に優しい薬湯を煎じ、妊婦には体を温める薬草茶を渡す。
王宮の頃と比べてしまえば、大したことのない仕事だと思うかもしれない。
それでも、「ありがとう」の一言をもらえるこの暮らしを、アリシアは嫌いではなかった。
薬を渡した子どもが数日後には元気に走り回り、怪我をした男が再び仕事へ戻っていく。自分の作った薬が誰かの役に立っている。それだけで十分だと思えるようになっていた。
エドガーも村の暮らしを気に入っていた。
近所の子どもたちと森の手前まで虫を探しに行き、川辺で綺麗な石を拾い、時には泥だらけになって帰ってくる。村の老人たちからも可愛がられており、どの家へ遊びに行っても菓子をもらって帰ってきた。
父親がいないことを、今のエドガーはまだ深く疑問には思っていない。
ただ一度だけ、村の友達が父親と遊んでいる姿を見た後に尋ねられたことがあった。
「僕のおとうさんは、どこにいるの?」
アリシアは、すぐには答えられなかった。
遠くで暮らしている。
仕事が忙しい。
もう会うことはできない。
いくつもの言葉が浮かんだが、どれも本当の事では無かった。
「今、とても遠いところにいるのよ」
結局、そう答えることしかできなかった。
「じゃあ、いつか会える?」
期待を込めた青い瞳を前にして、アリシアは何も言えなくなった。
するとエドガーは、困った顔をする母親を見て、それ以上聞かなかった。
「僕、ママがいればいいよ」
その言葉に救われる一方で、胸が痛んだ。
いつまでも隠しておけることではない。
それでも、真実を話す勇気はまだ持てなかった。
王都とも、これで縁が途切れるはずだったのだが、ある月を境に四年間、毎月、王都から木箱が届くようになった。
決まって月の初め、王国の紋章が刻まれた馬車が村へやってきて、アリシアの家の前へ箱を下ろしていく。
差出人は王国の宰相からだった。
箱の中には生活費とは呼べないほど多額の金貨と、時には高価な布地や保存の利く食料、薬の材料まで入っていた。
初めて箱が届いた時、アリシアは送り返そうとした。
しかし、使者は「受け取りを拒まれた場合でも、ここへ置いて帰るよう命じられております」と告げて立ち去った。
翌月も、その翌月も同じだった。
どれほど手紙を書いても返事はなく、木箱だけが増えていった。
アリシアは、食料品や日用雑貨には手を付ける事はあっても金銭物には一度たりとも手をつけていない。
受け取る理由がないからだ。
それがどういった理由で送っているものなのかも分からなかった。
同情なのかもしれない。
罪滅ぼしなのかもしれない。
あるいは、かつて王太子妃であった女性を、王家が見捨てていないと示すためだけのものかもしれなかった。
どの理由であっても、アリシアには受け取れなかった。
「ママー、これでいい?」
エドガーが抱えてきた布を受け取り、アリシアは我に返った。
「ありがとう。では、おばあさんのところへ行きましょうか」
「僕もいく!」
「お家で待っていてもいいのよ?」
「僕がにもつをもつ!」
薬の入った小さな籠を持とうとするエドガーを見て、アリシアは少し迷った後、軽い布袋だけを渡した。
「じゃあ、この袋をお願いね」
「まかせて!」
得意げに袋を抱える息子と共に、アリシアは家を出た。
外には柔らかな日差しが降り注いでいた。村の道を歩けば、畑仕事をしている人々が次々に声をかけてくる。エドガーはその度に大きく手を振り、すぐに道端の花や飛んでいる蝶へ気を取られた。
こんな日々が、いつまでも続けばいい。
アリシアはそう願っていた。
王都でのことなど遠い昔の出来事として、いつか穏やかに思い出せる日が来るのかもしれない。
けれど、一つだけ、どうしても分からないことがある。
どうして、あれほど愛し、あれほど愛されていたローゼンが、初夜の翌朝、まるで他人を見るような冷たい瞳で、婚姻の終わりを告げたのだろうか。
そんなことを、アリシアは四年間、一日たりとも忘れたことはなかった。
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