36. もう、勝手に入ってこないでよ!
そういう回です。
朝、アリシアはまずエドガーの着替えを手伝っていた。今日は特別な行事があるわけでもないため、選んだのは普段通りの動きやすい服だった。シャツの襟を整え、上着の留め具を確かめ、最後に少し跳ねていた髪を手で撫でつけてやる。支度を終えたエドガーはすぐにローゼンのところへ遊びに行きたがり、アリシアも廊下を走らないよう念を押したうえで送り出した。
一人になったところで、今度は自分の支度を始める。北部の村で暮らしていた頃、アリシアは小さな家でエドガーと二人きりだった。家の中へ誰かが勝手に入ってくることなどまずなく、自分の部屋で着替える時にまで扉の向こうを警戒するような生活でもなかった。四年間続いたその感覚は、王宮へ戻ってきた今も完全には抜けていない。
アリシアは寝間着を脱ぎ、薄い肌着へ袖を通すと、用意していた普段着のドレスを身につけ始めた。まだ背中側の紐は結んでおらず、肩口も完全には整っていない。鏡の前で片手を後ろへ回し、紐を探しながら胸元を押さえていた、その時だった。
扉が軽く叩かれる。
ローゼンの声だと分かり、アリシアが返事をしようとした。だが、その声が出るより先に扉はそのまま開いた。
振り返ったアリシアと、部屋へ一歩踏み込んだローゼンの視線が真正面からぶつかる。二人とも一瞬だけ固まり、ローゼンが目の前の状況を理解するより先に、アリシアの顔が一気に赤くなった。
「…………っ!」
次の瞬間、アリシアは反射的に寝台の上へ手を伸ばし、近くにあった枕を掴んだ。
「勝手に入ってこないで!」
勢いよく飛んできた枕に、ローゼンは慌てて身を引きながら扉を閉めた。枕は閉まりかけた扉の縁にぶつかったあと、ローゼンの肩をかすめて廊下へ落ちる。
扉の向こうからはすぐにアリシアの怒った声が飛んできた。ローゼンも即座に謝ったが、今回はどう考えても自分が悪い。扉を叩いたところまではよかったものの、返事を待たずに開けてしまったのだから、言い訳のしようがなかった。
「エドガーがもう着替えていたから、君も終わっていると思ったんだ」
「だからって勝手に開けていい理由にはならないでしょう!返事を待ちなさいよ!」
もっともな話だったため、ローゼンはそれ以上反論しなかった。
部屋の中では慌ただしい衣擦れの音が続いている。アリシアは急いで着替えを済ませているらしく、恥ずかしさのせいか普段以上に声にも勢いがあった。ローゼンは廊下へ落ちた枕を拾い、そのまま黙って扉の外で待つ。
四年前までなら、こんなことにはならなかった。幼い頃から互いの部屋を行き来することは当たり前で、婚約してからも二人の距離は近かった。夫婦になってからはなおさらで、相手の部屋へ入ること自体に強く意識を向けるような関係ではなかった。その頃の感覚が、今でもどこかに残っていたのだろう。
だが、今は四年前と同じではない。そこを曖昧にしたまま昔の感覚で動いた結果が、今この手にある枕だった。
しばらくして物音が止まり、ようやく扉が開いた。すでにきちんと着替えを終えたアリシアが立っている。ローゼンはその前で、投げつけられた枕を持ったままだった。
目が合った瞬間、二人とも先ほどの状況を思い出したらしい。アリシアの頬がまた少し赤くなり、ローゼンも何となく視線の置き場に困る。
「……本当に悪かった。次からは必ず返事を待つ」
「絶対よ。私が返事をするまで勝手に開けないで」
ローゼンは素直に了承した。アリシアもまだ怒ってはいたものの、きちんと謝られたことで少しずつ落ち着きを取り戻していく。
一方で、アリシア自身にも思うところはあった。北部では四年間、エドガーと二人で暮らしていたため、家の中で着替える時に誰かが入ってくることを警戒する習慣そのものが薄れていた。王宮へ戻った以上、そういうところも少しは意識しなければならないのかもしれない。ただし、それはそれ、これはこれである。自分が無防備だったからといって、ローゼンが返事を待たずに入っていい理由にはならなかった。
「次からはちゃんとしてよね」
ちょうどその時、廊下の向こうから小さな足音が近づいてくる。
「ママー?パパー?」
エドガーだった。ローゼンの部屋で待っていたものの、二人ともなかなか戻ってこないため、様子を見に来たらしい。
エドガーは二人の前まで来ると、まずローゼンが持っていた枕へ視線を向けた。
「それ、ママのまくら?」
なぜローゼンが持っているのかと不思議そうに首を傾げる。ローゼンが事情を説明しようとした瞬間、アリシアはすぐに遮った。エドガーに詳しい事情まで教える必要はないと主張し、余計なことを言わないようローゼンにも視線で念を押す。
事情の分からないエドガーだけが、アリシア、ローゼン、そして枕を順番に見比べていたが、結局それ以上は聞かなかった。ローゼンもここで説明を続ければまた怒られると理解し、素直に口を閉じる。
アリシアはまだ少し赤い顔のままエドガーの手を取り、三人で廊下を歩き始めた。ただし、ローゼンだけがいつもより少し距離を空けて後ろを歩いている。先ほどのこともあり、今は近づきすぎない方がいいだろうと判断したのだ。
数歩進んだところで、アリシアがそれに気づいて振り返った。
「……何でそんなに離れてるのよ」
ローゼンとしては、近づいた結果あれだけ怒られたばかりなので慎重になっていただけだった。しかし、アリシアからすれば、勝手に部屋へ入ることと廊下で妙に距離を取ることはまったく別の話である。
「それとこれは別でしょう。いつも通り歩けばいいのよ」
「……難しいな」
近づけば怒られ、離れても不満そうにされる。ローゼンは少し困った顔をしたが、その様子を見たエドガーだけは楽しそうに笑っていた。
北部での暮らしですっかり無防備になっていたアリシアと、四年前までの距離感がどこかに残っていたローゼン。その二つが重なって起きた朝の騒動は、結局エドガーには詳しい事情を知られないまま終わった。
ただし、その日からローゼンがアリシアの部屋を訪れる時だけは、扉を叩いたあと、以前よりずっと慎重に返事を待つようになった。




