33. 息子のこれから
夜になっても雨は止まなかった。昼間よりは少し弱くなっているものの、窓の外からは絶え間なく雨音が聞こえてくる。エドガーを寝かしつけたあと、アリシアは自室へ戻らず、先ほどまで三人で過ごしていた部屋へ戻ってきていた。今そこにいるのは、アリシアとローゼンの二人だけだった。
以前のアリシアなら、必要もないのにローゼンと二人きりになるようなことは避けていた。王宮へ戻ってきたばかりの頃など、エドガーに関する用事が終わればさっさと自室へ帰り、ローゼンと長く同じ場所にいることすら嫌がっていたほどである。それが今、自分から戻ってきたのだから、ローゼンが驚くのも無理はなかった。
しかし、驚きの次にやってきたのは妙な緊張だった。
ローゼンは椅子へ座ったアリシアを見ながら、僅かに身構えている。
思い返せば、最近は少々調子に乗りすぎていたかもしれない。エドガーが自分を「パパ」と呼んでくれるようになったことが嬉しくて、必要以上に構っていた自覚はある。アリシアとも以前より話せるようになり、つい昔の感覚で距離を縮めようとしたことも一度や二度ではない。その上、隙があれば口説こうとしたり、好意を隠さず伝えたりと、改めて考えると色々とやらかしている。
まさか、それについてまとめて釘を刺されるのではないだろうか。
そう考えると、僅かに背筋が寒くなった。
「……エドのことなんだけど」
アリシアがそう切り出した瞬間、ローゼンは姿勢を正した。
「エド、貴方のこと本当に好きになったみたいね。今日だって朝からずっと一緒だったのに、寝る直前まで明日も遊ぶって約束してたでしょう?」
「……すまない」
「何で謝るのよ」
「いや、最近は少し構いすぎている自覚があるからな。エドガーに関して、君が嫌だと思うことがあるなら何でも言ってくれ。俺も嬉しくて、少し距離を詰めすぎているかもしれない」
アリシアは一瞬きょとんとしたあと、呆れたように眉を寄せた。
「何を言っているのよ。懐いている息子をわざわざ父親から引き離そうとする母親がどこにいるのかしら。エドが嫌がってるならともかく、あんなに楽しそうにしてるのに、私が止める理由なんてないでしょう?」
「そうか……」
「そこは安心したような顔するところじゃないわよ。私が怒ってると思ったの?」
「正直、少し」
「何をしたらそんなに怯えることになるのよ」
言われてみれば色々と思い当たるため、ローゼンは何も答えなかった。その反応だけで察したのか、アリシアは小さく息を吐く。
ローゼンは少し間を置いてから、改めて表情を引き締めた。
「……それでも、改めて謝らせてくれ。四年前のことも、今回のこともだ。君には酷いことをした。それなのに再会してからも、半ば無理やり王宮へ連れてきた。俺は本当に、とんでもないことをしてしまったと思っている」
「それはそうよ!本当にもう!らしくないわよ、貴方にしては」
アリシアはぷくっと頬を膨らませた。
「私たちの人生、盛大にめちゃくちゃなんだからね。まだ許してないんだから」
「ああ。それは分かっている」
「だったら忘れないでよ。私はとにかく、エドの人生についてはちゃんと責任を取ってほしいの」
そこでアリシアの声音が少し変わった。
怒っているというより、真剣に何かを確かめようとしている。
「王宮へ戻ってからずっと考えてたの。エドにとって何が一番いいのかって。最初は、こんなところにいるより村へ帰った方がいいって思ってた。でも……今は、エドにとって一番いいのは、少なくとも貴方から引き離さないことなんだろうって分かってる」
ローゼンは黙って聞いていた。
「ただし、エドの命まで脅かされるのなら話は別よ。王家だとか王位継承だとか、そういうもののせいであの子が危険な目に遭うようになるなら……正直に言えば、私は今でもエドを連れて北部へ帰りたいと思う」
ローゼン自身もエドガーとは離れたくなかった。ようやく息子の存在を知り、ようやく父親として受け入れてもらえたのだ。失った四年間を埋めることはできなくても、これからの時間だけは一緒に過ごしたいと思っていたのだ。
けれど、その気持ちだけを優先するわけにはいかなかった。
「……当然だ。もしここにいることでエドガーの命が危険に晒されるのなら、君がそう考えるのも無理はない」
アリシアは少し意外そうにローゼンを見る。
「もっと『絶対に離さない』とか言うと思ってた」
「俺だって離れたくはない。せっかく父親として受け入れてもらえたんだ。今さらエドガーと離れるなんて、考えたくもない」
ローゼンはそこで一度言葉を切った。
「だが、それ以上に、あの子を守るのが俺の役目だと思っている」
アリシアは何も言わなかった。
「王宮に置くのなら、国王の息子だから守るんじゃない。王位継承に必要だからでもない。俺の息子だから、俺が責任を持って守る。それに、政治的な立場がどうなるかもまだ決まっていないんだ。俺の都合だけでエドガーを王宮へ縛りつけるつもりはないよ」
「……それ、本当に分かってる?」
「ああ」
「王族だから仕方ないとか、後継者だから我慢しろとか、そういう理由でエドに無理させたら許さないからね。あの子、まだ四歳なんだから」
「分かっている。まだ四歳だからな」
「そう。まだ四歳なのよ」
二人はそこで、ほんの少しだけ笑った。
考え方も立場も違う。四年前のことをめぐっては、まだ解決していないことも山ほどある。それでも、エドガーについて話す時だけは、不思議なくらい同じところを見ていた。
アリシアは少し姿勢を崩し、椅子の背へ身体を預けた。
「王宮に戻ってきたばかりの頃は、本当に隙を見て帰ろうと思ってたのよ」
「知っている。君は分かりやすいからな」
「失礼ね」
「実際、何度も帰る話をしていただろう」
「それはそうだけど……」
けれど、今はそう簡単には考えられなかった。
「エドが貴方と一緒にいたいなら、それを私が勝手に奪うつもりはないわ」
それは、アリシアが初めて自分の意思で「すぐには北部へ戻らない」と認めたのに等しかった。
「アリシア、それは……」
「勘違いしないでよ。私が貴方とやり直すって話じゃないから」
しばらくして、今度はローゼンが尋ねた。
「アリシアは、どうしたい?」
「私?」
「エドガーではなく、君自身はどうしたいんだ」
思いがけない問いだった。
アリシアはすぐには答えられなかった。
四年間、何かを決める時の基準はいつだってエドガーだった。どこに住むか、何を買うか、どんな仕事をするか。王宮へ戻ってからも、考えていたのはエドガーの未来ばかりである。自分自身が王宮にいたいのか、それとも北部へ帰りたいのか。ローゼンとこれからどうなりたいのか。そこだけは意識して考えないようにしてきた。
「……そうね。しばらくはここにいるわ」
ようやく出てきた答えに、ローゼンが目を見開いた。
「エドがもし、本当に王族として生きていく道を選ぶのなら……自立するくらいまでは一緒にいようかしら。母親として、いきなり全部放り出して帰るわけにもいかないでしょう?」
ローゼンはしばらく何も言わなかった。
「……自立するまで、か」
「何よ、その言い方」
「いや。思っていたより長くいてくれるんだと思って」
「エドのためよ」
「分かっている」
「そんなに嬉しいのね。私と一緒にいれて」
「そんな当たり前の事を言わないでくれ」
ローゼンが少し笑うと、アリシアはまた頬を膨らませた。本気で怒っているわけではないことくらい、ローゼンにも分かっていた。
「でも、まだ何も決まってないでしょう。エドがこれからどうなるのかも、あの子自身がどうしたいのかも。だから勝手に話を進めるのは禁止よ」
「ああ」
「それから、難しいことばかり押しつけるのも駄目。王族だからって、四歳児が急に大人になるわけじゃないんだから。勉強だの作法だのを一日中やらせて、遊ぶ時間までなくすなんて絶対に駄目よ」
「それも分かっている」
「本当に?」
「信用してないのか?」
「一度私たちの人生を盛大にめちゃくちゃにした人に言われたくないわね」
「…………」
ローゼンは何も言い返せず、そのまま黙った。
あまりにも素直に黙り込むものだから、言った側のアリシアの方が少し気まずくなった。四年前のことを許したわけではないし、今の言葉だって嘘ではない。それでも、先ほどまで真面目にエドガーのことを考えていたローゼンに対しては、少し強く言いすぎたような気がした。
「……まあ、今の貴方がエドを大事にしてるのは分かってるけど」
ローゼンが思わず顔を上げた。
「何よ」
「いや。君からそう言ってもらえるとは思っていなかった」
「事実を言っただけよ。エドが貴方といる時に楽しそうなのも、貴方がちゃんとあの子を見てるのも分かってるもの」
「それでも嬉しい」
「……いちいち喜ばなくていいの」
アリシアが視線を逸らす。
少しだけ沈黙が落ちた。外では相変わらず雨音が続いていたが、部屋の中にあった重さはすっかり薄れていた。
ローゼンはしばらく迷った末、静かに口を開いた。
「じゃあ、エドガーが大人になったら?」
「何が?」
「君は北部へ帰るのか?」
「…………」
アリシアはすぐには答えなかった。
エドガーが自立した後の自分など、これまでほとんど考えたことがなかった。四年間は息子を育てることで精一杯だったし、王宮へ戻ってからも考えているのはエドガーの未来ばかりだった。いつか息子が自分の手を離れた時、自分がどこで何をしているのかなど、想像したことすらない。
「……そんな先のこと、今決められるわけないでしょう。エド、まだ四歳よ?」
「そうだな」
ローゼンはそれ以上聞かなかった。
本当に、それだけだった。
けれど、今度はアリシアの方が妙に気になってしまう。
「何よ」
「何が?」
「何でそんなこと聞いたのよ。私がそのうち北部へ帰るかどうかなんて、今はどうでもいいでしょう?」
「どうでもよくはない」
「……帰ってほしくないの?」
「帰ってほしくない。エドガーの母親だからじゃない。俺はアリシアにもここにいてほしい。エドガーが大人になって、君が母親として付き添う必要がなくなったとしても、それとは関係なく、君にいてほしいと思っている」
「…………」
「もちろん、今すぐ答えを求めるつもりはないよ。君がまだ俺を許していないことも分かっているし――」
「……そういうところよ」
「何がだ?」
「急にそういうこと言うところ!」
アリシアの顔が一気に赤くなる。
「良いから!私の事を誘ってるのかしら。もう!」
窓を叩いていた雨音が少しずつ弱くなってきた頃、アリシアはようやく椅子から立ち上がった。
「と、とりあえず戻るわ。エドが途中で起きるかもしれないし」
アリシアは扉へ向かう。
そのまま出ていくかと思ったが、扉へ手を掛ける直前で一度だけ足を止めた。
「……ローゼン」
「なんだ?」
アリシアは少しだけ振り返った。
「エドのこと、お願いね」
短い言葉だったが、ローゼンにとっては何よりも重い約束だった。
「任せてくれ。エドガーも、そして君も絶対守る」
アリシアはそれを聞くと、小さく頷き、そのまま部屋を出ていったのだった。




