32. 雨の日の三人
朝から、王都には強い雨が降っていた。窓を叩く雨音は途切れることなく続き、庭園の向こう側まで白く霞んでいる。普段なら外へ出たがるエドガーも、さすがに今日は諦めるしかないらしく、しばらく窓辺に張りついて空を見上げていたものの、やがて恨めしそうな顔で振り返った。
「まだ雨だね。きょう、ずっと雨かなあ」
「この降り方だと、お昼くらいまでは止まなさそうね。今日はお外で遊ぶのは諦めた方がいいわよ」
「えー。お部屋つまんないよ」
「だったら部屋の中でできることを探せばいいだろう。今日は急ぎの仕事はないから、付き合えるぞ」
近くにいたローゼンがそう言うと、エドガーはすぐに表情を明るくした。
「じゃあ、パパと積み木する!このまえより、おっきいの作る!」
「また積み木か。いいぞ。今度はどんなものを作るんだ?」
「おしろ!すっごくおっきいやつ!」
「分かった。それなら今日は最後まで一緒に作ろう」
エドガーは嬉しそうに積み木の箱を引っ張り出し、床いっぱいに広げ始めた。ローゼンもその隣へ腰を下ろし、エドガーが指示するままに積み木を並べていく。最近では、こうして二人が遊んでいる光景も随分と見慣れたものになっていた。
エドガーがローゼンを「パパ」と呼び始めてから、まだそれほど日は経っていない。最初の頃は呼ばれるたびにローゼンが一瞬固まり、アリシア自身もその言葉を耳にするたび妙な感覚を覚えていた。しかし、それも少しずつ日常へ変わりつつある。今ではエドガーが「パパ」と呼べばローゼンも普通に返事をし、アリシアもいちいち驚かなくなっていた。
「ママもやる?」
「私は見てるだけでいいわ。二人で遊んでなさい」
「じゃあ、あとで本よんで!」
「はいはい。それくらいなら読んであげるから、今は積み木に集中しなさい」
「わかった!」
結局、午前中はほとんど三人で過ごした。エドガーがローゼンと積み木をしている間、アリシアは少し離れた椅子で本を読んでいたが、しばらくすると今度はエドガーが絵本を抱えてやって来る。約束通り隣へ座らせて読み始めると、何故かローゼンまで近くへ来て、そのまま話を聞き始めた。
「……どうして貴方まで聞いてるのよ。これ、子ども向けの本よ?」
「分かっている。でも、別に聞いていたっていいだろう。それに、昔は君もこういう話が好きだったじゃないか」
「私が?」
「気に入った本は何度も読ませていたよ。俺が別の本にしようと言っても、同じ話ばかり持ってきていた」
「そんな昔のことまで覚えてるの? 私はほとんど覚えてないんだけど」
「君が忘れすぎなんだと思う」
アリシアは少しだけ眉を寄せたが、エドガーはその話にすぐ食いついた。
「ママも本よんでもらってたの?」
「まあ、子どもの頃なんだから、それくらいはあるわよ。でも同じ本ばかりだったかは覚えてないわ」
「じゃあ、その本みたい!」
「まだ残ってたらね。王宮のどこかにはあるかもしれないけど」
「俺なら場所に心当たりがある。今度探してみようか」
「パパ、しってるの?」
「ああ。君のママよりはな」
「何よ、その言い方」
エドガーが笑い、ローゼンも笑う。アリシアも呆れながら、結局続きを読み始めた。
昼になっても雨は弱まらなかった。窓の外では相変わらず雨音が続いており、普段より人の出入りが少ないせいか、王宮全体もどこか静かに感じられる。三人はそのまま同じ部屋で昼食を取ることになり、エドガーは食事をしながら何度も窓の方を気にしていた。
「あしたも雨かなあ。おそと行ける?」
「さすがに明日までどうなるかは分からないな。ただ、ずっとこのままということはないだろう。晴れたら庭園でも森でも行けばいい」
「じゃあ、パパもいっしょにきてね」
「俺は仕事がなければ構わない。あとはアリシア次第だな」
「ママもいっしょ?」
「エドが行きたいなら付き合うわよ。ただし、雨の後は地面が滑るから走り回るのは禁止だからね」
「うん!三人でいく!」
エドガーは満足そうに食事へ戻った。まるで三人で出掛けることが最初から決まっていたかのような言い方だったが、その様子を見ているうちに、アリシアはふと考え込んでしまう。
いつからだろう。エドガーにとって、ローゼンと過ごすことがこれほど当たり前になったのは。少し前までは父親が誰なのかすら知らなかった。それが今では、遊びに行く時も食事をする時も、何か面白いことをする時も、自然にローゼンがそこへ加わっている。そしてエドガー自身、それを少しも不思議だと思っていない。
それはエドガーだけの変化ではなかった。アリシア自身も、ローゼンとの今の関係を、ただの知人や友人という言葉で片づけられなくなっていることには薄々気づいていた。毎日のように顔を合わせ、エドガーについて話し、一緒に食事をし、時には昔のように軽口を叩く。ある意味、夫婦という言い方が一番近いのかもしれないが、それだけでは説明できない距離に戻りつつある。
王宮へ戻ってきたばかりの頃なら、必要なことが済めばエドガーを連れて北部へ帰ればいいと考えることができた。けれど今は、それを以前ほど簡単には思えない。エドガーはローゼンを「パパ」と呼ぶようになり、ローゼンもまた父親として少しずつ息子の生活へ入り込んでいる。もし今、自分が北部へ戻ると言えば、それはもうアリシアとエドガーだけの問題ではなかった。
「さっきから随分考え込んでいるけど、どうかしたのか?」
ローゼンに声を掛けられ、アリシアは我に返った。
「別に大したことじゃないわ。雨、いつまで降るのかしらって思ってただけ」
「それにしては随分難しい顔をしていたけどな」
「気のせいよ。貴方はエドがちゃんと食べてるか見てなさい」
「見てるよ。さっきから野菜だけ綺麗に避けているのもな」
「エド?」
「……たべるよ」
エドガーが気まずそうに野菜へ手を伸ばした。アリシアは呆れたように息を吐きながらも、どこか可笑しくなってしまう。ローゼンも同じだったらしく、口元を僅かに緩めていた。
午後になっても雨は降り続いた。今度はエドガーが絵を描きたいと言い出し、三人で紙を囲むことになった。出来上がった絵には大きな城と三人らしき人物、それから何故か人より大きな馬が描かれている。
「これママ!こっちパパ!まんなか、ぼく!」
「どうして俺だけこんなに大きいんだ?それに、この馬は俺より大きいぞ」
「パパ、おっきいから!お馬も強いから、おっきいの!」
すると、アリシアは横から突っ込みを入れる。
「じゃあ、どうして私とエドはほとんど同じ大きさなのよ?」
「ママはぼくといっしょだから!」
「分かったような、分からないような理由ね」
すると、今度はローゼンから話しかけた。
「それよりエドガー、俺の髪を描き忘れてないか?」
「あとでかくよ!」
「ちゃんと描いてあげなさい。さすがに可哀想でしょう」
思わずアリシアは笑ってしまっていた。
窓の外では相変わらず強い雨が降っている。それでも部屋の中は不思議なくらい穏やかで、外へ出られないことを一番残念がっていたはずのエドガーも、いつの間にか雨のことなど忘れているようだった。
結局、夕方になっても雨は止まなかった。三人はそのまま夕食まで一緒に過ごし、食事が終わる頃には、朝から遊び続けていたエドガーもさすがに眠そうに目を擦り始めていた。
「エド、もう限界でしょう?今日はずっと遊んでたんだから、そろそろ寝るわよ」
「まだねむくないよ。もうちょっとあそべるもん」
「その顔で言っても説得力ないわよ。ほら、立ちなさい」
「……じゃあ、あしたいっぱいあそぶ」
「明日晴れたらね」
アリシアに促されて椅子から降りたエドガーは、そのまま寝室へ向かうかと思われたが、途中でローゼンのところへ寄っていった。
「パパ、おやすみ。あした晴れたら、おそといこうね」
「ああ。晴れたら約束通り三人で行こう。今日はゆっくり眠るんだぞ」
「うん。おやすみ、パパ」
「おやすみ、エドガー」
ローゼンが優しく頭を撫でると、エドガーは満足したようにアリシアのところへ戻ってきた。アリシアはその手を取り、二人で寝室へ向かう。
寝台へ入ったエドガーは、ほとんど時間もかからず眠ってしまった。一日中遊んで疲れていたのだろう。アリシアが掛布を掛け直し、髪を軽く撫でても起きる気配はない。
アリシアは静かに立ち上がり、寝室を出た。普段なら、そのまま自分の部屋へ戻ってもおかしくない。エドガーを寝かしつけた以上、今日一日もこれで終わりである。ローゼンとはどうせ明日も顔を合わせるし、わざわざもう一度会いに行く理由などない。
それでも廊下へ出たアリシアの足は、自室とは反対の方向へ向かった。数歩進んだところで一度だけ立ち止まる。戻らなくてもいい。そんな考えが頭をよぎった。それなのに、結局踵を返すことはせず、先ほどまで三人で過ごしていた部屋へ向かう。
扉を開けると、ローゼンはまだそこにいた。卓の上に残されていた本やエドガーの絵を片づけていたらしく、物音に気づいて顔を上げる。その表情には、隠しきれない驚きが浮かんだ。
「アリシア?戻ってきたのか。エドガーはもう寝たのか?」
「ええ。一日中遊んでたから、寝台に入ったらすぐだったわ」
「そうか。それならよかった。今日は随分楽しそうだったから、さすがに疲れただろうな」
そこで会話が途切れた。ローゼンは、アリシアが何のために戻ってきたのか分からないらしく、少し不思議そうにこちらを見ている。アリシア自身も、ここへ戻ってくるまで何をどう話すのか完全に決めていたわけではない。ただ、今日一日三人で過ごしているうちに、もう考えないふりをすることができなくなっていた。
血縁鑑定のこと。
エドガーのこれからのこと。
そして、自分たち三人がこの先どうするのか。
アリシアはしばらくローゼンを見つめたあと、少しだけ迷うように視線を落とし、改めて顔を上げた。
「……ねぇ、少し話したいことがあるの」




