31. クラウスとディートリヒ、酒場へ
第一近衛騎士団が南方遠征から帰還して数日後の夜、団長クラウス・ベルンハルトと副団長ディートリヒ・ラウフェンは、王都の一角にある酒場を訪れていた。遠征の慰労も兼ねてのことで、選んだのは二人が昔から時折利用している落ち着いた店だった。王宮では立場上どうしても周囲の目があり、誰が聞いているか分からない。こうして二人だけで席を囲み、気兼ねなく酒を飲むのは久しぶりだった。
店内はほどよく賑わっていた。仕事終わりの職人や商人たちが酒を酌み交わし、奥の方では数人の若者が大きな声で笑っている。第一近衛騎士団が帰還したばかりということもあり、王都全体がどこか浮き足立っているようにも見えた。
「若い連中は、もう何軒目か分からないくらい飲み歩いているそうだぞ」
クラウスが杯を傾けながら言った。
「でしょうね。遠征中は酒量もかなり制限していましたから。今頃、反動が来ている頃でしょう」
「明日の朝、鍛錬に出てこなかった奴は全員走らせるか」
「帰還直後くらい休ませてあげてください。団長はそういうところが厳しすぎるんですよ」
「遠征中に散々休みたいと言っていたのはお前だろう」
「ははは。勘弁して下さい」
二人はそんな話をしながら、久しぶりの王都の酒をゆっくり味わった。南方での任務は長かった。戦争そのものへの直接介入こそ少なかったが、各国の動きを監視し、時には使者として交渉の席へ出向き、時には軍を動かして圧力をかける。実際に剣を振るうより神経を使う場面も多く、終わってみれば疲労は相当なものだった。
「しかし……」
クラウスは杯を置くと、少しだけ遠くを見るような顔をした。
「王都を離れている間に、随分と状況が変わったものだな」
何を指しているのか、ディートリヒにもすぐ分かった。
「帰還早々、随分と驚かされましたからね」
「まさか王宮へ戻って最初に聞くのが、子どもの『パパ』という声だとは思わなかった」
クラウスが思い出したように笑う。
南方へ向かう前、王宮にアリシアはいなかった。四年前にローゼンとの関係が終わり、そのまま姿を消したと聞いている。そして当然、その頃のローゼンに子どもなどいなかった。
それが帰還してみれば、アリシアは何事もなかったかのように王宮に戻り、その隣には四歳の息子までいたのである。
「ローゼン様ご自身も随分と自然に反応されていましたからね。あれを見た瞬間、私も一瞬、自分が何か重大な報告を聞き逃していたのかと思いました」
「俺もそれにはびっくりしたよ。まさかとは思ったな」
クラウスは小さく笑った。
その笑いが収まったところで、今度は少しだけ声を落とす。
「……それにしても、お前も随分と嫌われる役を引き受けたものだな」
ディートリヒは何を指しているのか理解していた。
血縁鑑定の件だ。
アリシアに対し、エドガーが別の男の子である可能性まで匂わせるような言い方をした。理屈として必要な話ではあったが、あの場での印象が良かったはずはない。
ディートリヒは少しだけ苦い顔をしながら酒を口に含んだ。
「仕方ありません。誰が見ているか分かりませんから」
「そうだな」
クラウスもそれ以上責めようとはしなかった。
王宮内では、ディートリヒ・ラウフェンは先帝の後妃であるオリーファに近い人物として知られている。
それは完全な芝居というわけでもなかった。ディートリヒ自身、過去にオリーファから大きな恩を受けている。その恩義まで全て切り捨てることはできず、実際に彼女へ一定の敬意を抱いていることも事実だった。
しかし、それと王国の利益を損ねることは別である。
ローゼンもクラウスも、ディートリヒがどういう立場にいるのかは理解していた。
問題は、ディートリヒ以外に誰がオリーファと繋がっているのか、その全貌がまだ見えていないことだった。
「王宮内に、オリーファ様の息がかかった者が他にもいることは間違いありません。ただ、全員までは掴めていません」
ディートリヒは周囲へ聞こえない程度の声で言った。
「文官かもしれないし、侍従かもしれない。もしかしたら騎士なのかもしれない。なので、私だけ急にアリシア様やローゼン様へ好意的な態度を取るわけにはいかないんです」
「不自然に見えれば、それだけで警戒されるからな」
「ええ。特に今は、エドガー様の存在まで出てきたのです。少しでも立ち場を間違えれば『死』に繋がりますからね」
ディートリヒは杯の中を見つめながら続けて話した。
「……アリシア様には悪いことをしました」
「しばらくは警戒されるだろうな」
「でしょうね。困りました」
ディートリヒ自身、その点について言い訳をするつもりはないらしい。必要だったとはいえ、アリシアを不快にさせたことまで正当化する気はないのだろう。
クラウスもそこを長く掘り下げることはしなかった。
「エドガー様が正式にローゼン様の子だと認められれば、王位継承も大きく動くな」
「そうですね」
ディートリヒは少しだけ表情を引き締めた。
「オリーファ様にもご子息がおられますからね」
これまでローゼンに実子はいなかった。
そのため、現状ではオリーファの息子が王位継承順位の最上位に置かれていた。先王の子であり、現国王ローゼンの異母弟でもある以上、他に有力な直系男子がいなければ当然だった。
だが、そこへエドガーが現れた。
もし血縁鑑定が行われ、ローゼンの実子であることが正式に証明されれば、状況は一変する。
「これまで継承順位第一位だったものが、アリシア様とご子息の登場で下がることになる。……良い顔はされないでしょうね」
「オリーファ様本人だけの問題では済まないだろうな」
クラウスも静かに頷く。
オリーファの息子が将来王になることを前提に動いていた者は少なくない。彼が王位を継げば、自分たちの家がより大きな権力を得られる。そう考えて近づいていた貴族もいるだろうし、すでに何らかの利益を受けている者もいるかもしれない。
エドガーの登場は、そうした者たちの思惑を一気に崩す可能性があった。
「これから騒がしくなるだろうな」
「その可能性は高いでしょう。今はまだ血縁鑑定も保留されていますから、表立って動く者は少ないでしょうが……正式にローゼン様のご子息だと認められれば話は変わります」
「第一近衛にもいると思うか?」
その問いに、ディートリヒはすぐには答えなかった。
ほんの僅かに視線を落とす。
第一近衛騎士団は、自分たちが長く共に戦ってきた部下たちである。
遠征中も同じ場所で寝起きし、危険な場面では背中を預けた。副団長であるディートリヒにとっては、誰もがよく知る仲間だった。
「……いないと信じたいですが、断言はできません。第二は間違いなくいないでしょう。この四年の間に加入した者の集まりですから」
「そうか」
クラウスの表情も少しだけ険しくなる。
南方遠征から第一近衛騎士団が帰還し、王宮の戦力そのものは整った。第二近衛だけに負担をかけていた状況も終わり、今後はより万全な守備体制を取ることができる。
だが、人数が増えれば安心できるというわけでもない。
その中に誰か一人でも別の思惑を持つ者が混じっていれば、むしろ厄介になる。
「遠征先なら、敵がどこにいるか分かりやすかったんだがな」
「王宮の方がよほど面倒でしょう。私はああいう場所は好きではありませんね」
「副団長が言うと説得力があるな」
「それは私への嫌味ですか?」
重くなりかけた空気が少しだけ緩んだ。
クラウスは残っていた酒を一気に飲み干すと、空になった杯を卓へ置いた。
「……もうやめよう。帰還祝いで飲みに来たのに、これでは会議と変わらん」
「話を始めたのは団長ですよ」
ディートリヒは呆れたように息を吐いた。
そこから二人は政治の話を止め、南方遠征中のくだらない出来事へ話題を戻した。補給が遅れて三日続けて同じ料理を食べさせられたことや、その料理が妙に塩辛かったせいで騎士たちが揃って水を求めたこと。現地の宿で寝台が足りず、若い騎士たちが誰が床で寝るか本気で揉めていたこと。遠征中は腹立たしく感じたことも、王都へ帰って酒を飲みながら話してみれば妙に笑えるものだった。
久しぶりに仕事以外の話をしているうちに、時間も随分と遅くなっていた。
ディートリヒは最後に残った酒をゆっくり飲みながら、ふと小さく呟く。
「……それにしても、明日アリシア様と顔を合わせるのは少し気が重いですね」
「頑張れ」
「それだけですか?」
「それ以上何を言えと?」
「例えば、少し取り成していただくとか」
「自分で嫌われる役を引き受けたんだ。自分で何とかしろ」
「私達の団長様は部下に冷たいですね」
「私は君を信頼しているんだよ」
ディートリヒが深いため息をつく。
その向かいで、クラウスは僅かに笑う。
「もう一杯頼みますか?」
「アリシア様と会うのが気重いんじゃなかったのか?」
「だからこそですよ」
「なるほどな」
二人は顔を見合わせると、今度こそ政治とは無関係な酒をもう一杯だけ頼むことにした。
ディートリヒさんは中々の苦労人だったのです




