30. 息子の存在
第一近衛騎士団の面々が王宮へ帰還して早々、クラウス・ベルンハルトは予想もしなかった光景を目の当たりにすることになった。四年前に王宮から姿を消したアリシアが戻っている。それだけでも十分に驚くべきことだったが、その隣には四歳ほどの男児がおり、しかもその子どもはローゼンを何の躊躇もなく「パパ」と呼んでいたのである。
クラウスはしばらくエドガーとローゼンを見比べていたが、やがて状況を整理することを諦めたようにアリシアへ向き直った。
「アリシア様。お久しぶりでございます。改めまして、クラウス・ベルンハルトです。ご無事でいらしたことは何よりですが……失礼ながら一つお尋ねしてもよろしいでしょうか。ローゼン様と再婚をなさったのでしょうか?」
「いいえ、まだだけど?」
アリシアはあっさりと答えた。
「……では、何故王宮にいらっしゃるのでしょうか?」
当然の疑問だった。
するとアリシアは、ローゼンの方へちらりと視線を向ける。それから不満を思い出したように、ぷくっと頬を膨らませた。
「その男に誘拐されたからよ。北部まで押しかけてきたと思ったら、そのまま王都まで連れ戻されたの」
「誘拐……?」
「それとね、ママ、お姫様になってたよ!」
「エド!それは今言わなくていいの!」
横から余計な情報を付け加えたエドガーの口元を、アリシアが慌てて手で遮った。
クラウスの表情がますます険しくなる。
誘拐された。
お姫様になっていた。
遠征から戻ってきたばかりの身には、どう理解すればいいのかまるで分からない情報ばかりが増えていく。
「ま、待ってくれ。クラウス。誘拐というのはかなり語弊がある」
さすがにローゼンも黙っていられなくなったらしい。
クラウスはゆっくりと国王へ視線を向けた。
「分かった。説明する。だから、そんな目で見ないでくれ」
第一近衛騎士団団長から無言の圧力を向けられ、ローゼンは珍しく少しだけ居心地が悪そうだった。その場には副団長のディートリヒ・ラウフェンをはじめ、遠征から戻った主要な騎士たちも残っている。彼らもクラウスと同じく長期間南方へ赴いていたため、現在の王宮事情などほとんど知らない。
廊下で立ち話を続ける内容でもないということで、一行は近くの応接室へ移ることになった。
席へ着くと、ローゼンは四年前から現在に至るまでの事情を大まかに説明した。四年前、自分とアリシアの関係が終わり、アリシアが王宮を去ったこと。その時点ではアリシア自身も妊娠しているとは知らず、北部へ移った後になって初めてエドガーを身籠もっていることが分かったこと。そのまま北部の小さな村で出産し、四年間一人でエドガーを育てていたこと。そしてローゼン自身はその事実を知らないまま過ごし、つい最近になってアリシアと再会して、初めてエドガーの存在を知った。
「それで、色々あった結果、二人を王宮へ連れてきた」
「結果的に、じゃないでしょう?」
アリシアがすぐに口を挟んだ。
「かなり強引だったじゃない。私は最初、戻るなんて一言も言ってなかったわよ」
「君も最終的には了承しただろう」
「連れてこられた後にね」
「それでも今はここにいてくれている」
「何でそう、満足げに言うのかしら?」
クラウスは黙って二人のやり取りを見ていた。
四年間の空白があったとは思えない。
婚姻関係を解消し、長い間離れて暮らしていた二人だというのに、こうして言い合う姿だけを見ていると、昔とほとんど変わっていなかった。クラウス自身、まだローゼンが王太子だった頃から二人を知っている。
この独特の新婚夫婦だったのに熟年夫婦のような雰囲気を出す距離感には妙な懐かしささえ覚えた。
だが、改めて確認しておかなければならないことはある。
「では、改めてお尋ねしますが、現時点ではお二人は再婚されていない、と考えてよろしいのでしょうか?」
「してないわ」
アリシアが即答した。
「…………」
ローゼンは何も言わなかった。
しかし、明らかに少しだけ不満そうだった。
クラウスはその表情については触れず、今度はエドガーへ視線を向ける。年齢は四歳。アリシアが王宮を去った時期から逆算しても不自然ではない。そもそもクラウスは、四年前までローゼンとアリシアがどれほど仲の良かったのかをよく知っていた。エドガーが二人の息子だと聞けば驚きこそするものの、その事実そのものへ強い疑念を抱く理由はなかった。
「なるほど……ようやく状況が分かりました。遠征から帰還した直後にあの光景を見せられた時は、さすがに何が起きたのかと思いましたが」
「ぼく、何かした?」
「いいえ。エドガー様は何も悪くありませんよ」
クラウスがそう答えると、エドガーは安心したように頷いた。
そこで、それまでほとんど口を開かず話を聞いていたディートリヒが静かに姿勢を正した。
「恐れながら、私からも一つよろしいでしょうか」
ローゼンが視線を向ける。
「何だ」
ディートリヒはまずアリシアへ向き直り、軽く頭を下げた。
「これから大変失礼なことを申し上げます。その点については先にお詫びいたします」
「……何かしら?」
アリシアの表情が僅かに険しくなる。
「ローゼン様とアリシア様は、四年前に婚姻関係を終えられたものと周囲には認識されております。そしてアリシア様は、その後長期間にわたって王都を離れておられた。今のお話を伺えば事情そのものは理解できますが、それだけを根拠としてエドガー様をローゼン様のご子息と決めつけるのは、王家という立場を考えれば早計ではないでしょうか」
部屋の空気が僅かに変わった。
先ほどまで昔話を交えながら比較的穏やかに進んでいた会話が、一瞬にして重くなる。
アリシアの表情から笑みが消えた。
ローゼンも明らかに不快そうに眉を寄せる。
「何が言いたい?」
「申し上げた通りです。アリシア様が王宮を離れておられた四年間について、我々は詳しく存じません。無論、アリシア様のお人柄を侮辱する意図はございません。しかし、王家の血統となれば、個人的な信頼だけで済ませてよい問題でもありません」
「エドガーは俺の子だ。俺がそう認めている。それで十分だろう」
「ローゼン様がお信じになっていることと、国として証明されていることは別問題です」
「俺の言葉が信用できないと言うのか?」
「そうではありません。今ここにいる我々が信じるかどうかではなく、今後このことを知る全ての者が同じように納得するかという話をしております」
もしエドガーがローゼンの実子であるなら、彼の存在はいずれ王位継承にも大きく関わる。国王の唯一の実子である可能性が高い以上、本人たちが親子であると認めているだけでは、後々政治的な争いの火種となる恐れがあった。
アリシアは眉を寄せたまま、遠回しな言葉に耐えかねたように口を開く。
「……つまり、私が別の男との間にできた子を、ローゼンの子だって言ってる可能性があるってことでしょう?」
ローゼンが止めようとしたが、彼女はディートリヒから視線を逸らさなかった。
ディートリヒも少しだけ間を置いた。
「その可能性を、誰にも口にさせる余地を残すべきではないと申し上げています」
「それって遠回しに言っているだけじゃない」
アリシアの声には明らかな不快感が混じっていた。当然だった。
四年間、一人でエドガーを育ててきた。その子が別の男との間に生まれた可能性まで示されれば、気分がいいはずがない。
「アリシアの貞操を疑っているのか?俺はエドガーが自分の子だと分かっている」
「必要があるかどうかではありません。今後、誰かが疑う余地を残すかどうかです。ローゼン様ご自身が疑っておられないことは理解しております。しかし、もしエドガー様を王家の一員として正式に扱うのであれば、血統について公的な証明を求める者は必ず現れるでしょう。その度にアリシア様やエドガー様が疑いを向けられる方が、よほど問題ではありませんか。それこそ『あの御方』のご子息にも継承権が御座いますので、やはり一度、正式な血縁鑑定を行うべきかと存じます」
王家には古くから、血統を確認するための儀式が伝わっていた。王族の血を受け継ぐ者が生まれた際や、継承を巡って疑義が生じた時などにのみ行われるもので、互いの血を一滴ずつ器に落とし、その血が混ざり合うかどうかを確かめるというものだった。
同じ血筋を持つ者同士であれば、二つの血は徐々に境目を失い、一つに混ざり合う。反対に、血の繋がりがなければ、いくら時間を置いても血は分かれたままだという。
もちろん、誰もが気軽に行えるものではない。王位継承にも関わるため、国王をはじめとする王家の者や高位の聖職者、重臣たちが立ち会う中でのみ執り行われる、王家にとって極めて重要な儀式だった。
そこでクラウスがようやく口を挟んだ。
「ディートリヒ。流石に言いすぎだ。必要性を述べることと、アリシア様のお人柄へ疑いを向けるような言い方をすることは別だ」
「申し訳ございません」
ディートリヒは素直に頭を下げた。
クラウスは続けてローゼンへ向き直る。
「ですが、ローゼン様。内容そのものについては、私も一理あると思います。私自身は、エドガー様がローゼン様のお子であることを疑っておりません。四年前までのお二人を知っております。ただ、私やローゼン様が信じていることと、公的な証明があることはやはり違います」
クラウスの言葉に、ローゼンはすぐには答えなかった。理屈そのものは理解できる。だが、自分が少しも疑っていないというのに、アリシアへ「この子が本当に自分の息子なのか証明してくれ」と求めるような形になることには、やはり強い抵抗があった。
「それでも、俺は必要だとは思わない。エドガーが俺の子であることに疑いはないし、そのためにアリシアへ余計な負担をかけるのは違うだろう」
「お気持ちは分かります。ただ、もう一つ考えておくべきことがあります」
クラウスは少しだけ間を置き、今度はアリシアへも視線を向けた。
「正式な血縁鑑定を行い、エドガー様がローゼン様のご子息であると公的に認められた場合、その時点でエドガー様は王家の直系として扱われることになります。現在、ローゼン様に他の実子がおられない以上、王位継承の第一候補となることは避けられないでしょう」
「……王太子になるってこと?」
アリシアが静かに尋ねる。
「少なくとも、周囲はそう扱い始めるはずです。すぐに正式な冊立が行われるかどうかは別としても、国王陛下の唯一の実子だと証明されれば、王太子候補から外すことは難しいでしょう。『あの御方』にもお子様はいますが、血筋で申し上げますと、ローゼン様のお子様の方に継承権がございます」
その言葉に、アリシアは無意識にエドガーの方を見た。本人は難しい話を完全には理解していないらしく、大人たちの表情を見比べながら静かに座っている。
血縁鑑定を受けるということは、ただ親子であることを証明するだけではない。その先には、エドガーの人生そのものが変わる可能性がある。
クラウスはさらに続けた。
「逆に言えば、あえて今は鑑定を行わないという選択肢もございます。少なくともこの場ですぐに何かが変わるわけではありません。正式な証明をしないまま、これまで通りの生活へ戻る道を残すこともできます」
「……北部へ戻る道も、まだ残ってるってことね」
「アリシア様の仰る通りです」
北部へ戻るという選択肢は、今でも完全に捨てたわけではない。あの村で過ごした四年間は決して不幸ではなかったし、むしろ穏やかで、エドガーにとっても自由な時間が多かった。
けれど一方で、今のエドガーはもうローゼンが自分の父親であることを知っている。それどころか、自分から「パパ」と呼び始めている。
アリシアはそこまで考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「……少し、考えさせて」
アリシアはすぐに答えを出さなかった。
アリシアは隣にいるエドガーへ視線を落とした。本人は難しい話を完全には理解していないらしく、大人たちの顔を順番に見ながら黙って座っている。
「逆に、しなければ北部へ戻る道も残る。今までみたいに暮らせる可能性もある……。そんなの、今ここですぐ決められることじゃないわ」
「アリシア……」
ローゼンが呼びかけると、アリシアは小さく息を吐いた。
「私はエドが貴方の子だって疑ってないし、証明すること自体が怖いわけでもないの。でも、その後のことまで一緒に決まってしまうなら話は別よ。この子のこれからに関わることなんだから、勢いで決めたくないわ」
血が繋がっているかどうかだけなら、アリシアの中では最初から答えが出ている。けれど、公にそれを証明するということは、エドガーの立場まで変えるということだった。王家の子として生きるのか、それとも北部へ戻る可能性を残すのか。どちらが正しいのか、今のアリシアにはまだ分からない。
ローゼンもしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「分かった。急いで決める必要はない。俺も、君が納得しないまま進めるつもりはないよ」
「……ありがとう」
アリシアは短く答えた。
クラウスも異論はないらしく、静かに頭を下げる。
「承知いたしました。王家に関わる重要な判断です。慎重にお考えになるのが当然かと存じます」
「私も、それでいいと思うわ」
アリシアはそう答えながらも、表情は晴れなかった。
少し前までは、王宮に残るか北部へ戻るかだけを考えていたはずだった。それがいつの間にか、エドガーを王家の子として正式に認めさせるかどうかという、さらに大きな問題まで加わっている。
しかもエドガーは、もうローゼンを「パパ」と呼び始めていた。
だからこそ、簡単には決められない。
自分が村へ戻りたいからという理由だけで、息子の父親との繋がりや将来まで決めてしまうのも違う。けれど、王太子になる可能性が高いと分かっていながら、何も考えずに鑑定を受けさせることもできなかった。
「……難しい顔してる」
不意にエドガーが言った。
アリシアは我に返り、息子へ顔を向ける。
「そう?」
「うん。ママ、こういう顔するとき、いっぱい考えてる」
「よく見てるわね」
アリシアは苦笑しながら、エドガーの頭を撫でた。
「ちょっと大事なことを考えてるだけよ。エドは気にしなくていいの」
「僕のこと?」
「……まあ、そうね。でも心配することじゃないわ」
エドガーは完全には納得していない様子だったが、それ以上は聞かなかった。
その横で、ディートリヒは何も言わずに一連のやり取りを見ていた。血縁鑑定を提案した本人でありながら、アリシアが結論を保留にしたことへ異を唱える様子もない。
「では、この件については後日改めて、ということで」
クラウスがそう締めくくると、重くなっていた話はひとまずそこで終わったのだった。




