28. 初めてのパパ
王都へ出掛けていたアリシアが王宮へ戻ってきたのは、日が少し傾き始めた頃だった。朝に出掛けた時よりも明らかに荷物が増えており、片手には薬草や日用品を入れた袋、もう片方にはいくつかの包みを抱えている。それでも疲れた様子はあまりなく、久しぶりに一人で王都を歩けたことが良い気分転換になったのか、表情はどこか明るかった。
王宮の正面玄関をくぐったところで、遠くから小さな足音が聞こえてくる。
「ママー、お帰り〜!」
「あら、エド!」
階段を駆け下りてきたエドガーを見つけると、アリシアは荷物を近くの従者へ預け、その場でしゃがみ込んだ。勢いよく飛び込んできた息子を受け止め、そのまま軽々と抱き上げる。
「ただいま。エド、良い子にしてたかしら?ママがいないからって、好き放題してなかったでしょうね?」
「うん!良い子にしてたよ!」
「本当かしら?あとでちゃんと聞いてみなくちゃね」
アリシアが冗談めかして言うと、エドガーは「本当だよ!」と慌てて訴えてくる。朝から離れていただけなのに、こうして抱き上げてみると妙に久しぶりな気がした。四年間ほとんど毎日一緒に過ごしてきたせいで、ほんの半日離れているだけでも落ち着かなかったのかもしれない。
「それじゃあ、良い子にしていたご褒美をあげなくちゃね。ママ、ちゃんとエドにお土産を買ってきたのよ」
「お土産!?」
「ええ。気に入ってくれるといいんだけど」
アリシアはエドガーを床へ下ろすと、預けた荷物の中から小さな包みを一つ取り出した。中に入っているのは、王都の店先で見つけた小さな木製の玩具である。簡単な仕掛けが施されており、部品を動かすと小さな騎士が剣を振るようになっていた。自分の買い物をするために王都へ出掛けたはずなのに、こうした子ども向けの品を見つけるたびにエドガーの顔が浮かんでしまい、結局買わずにはいられなかったのである。
「わあ!カッコいい!」
「でしょう?エドが好きそうだと思ったの」
「ありがとうママ!僕、これ好き!」
「まだ使ってもないじゃない。でも、気に入ったならよかったわ」
エドガーは早速玩具を両手で持ち、あちらこちらから眺め始めた。仕掛けがあることにもすぐ気づいたらしく、小さな指で動かそうとしながら嬉しそうに笑っている。その様子を微笑ましく眺めていたアリシアだったが、次に聞こえた何気ない一言で、その表情が止まった。
「ありがとう!今日はパパと一緒に遊んでたよ!」
「…………」
アリシアの動きがぴたりと止まる。
今、聞き慣れない言葉が混ざっていた気がした。
「……エド。今、何て言ったの?」
「今日、遊んでたって言ったよ?」
「そこじゃなくて、その前よ。…………パパ?」
「うん!」
エドガーは何の照れもなく、当然のように頷いた。アリシアはしばらく息子の顔をまじまじと見つめてしまう。冗談を言っている様子はない。それどころか、どうして母親がそんなに驚いているのか分からないらしく、エドガーの方が不思議そうにしている。
そして少し離れたところには、ローゼンが立っていた。
アリシアはゆっくりとそちらへ顔を向ける。
「…………」
ローゼンも持っていたものを全て落とした。
どうやら彼にとっても、今の「パパ」が初めてだったらしい。午前中から一日近く二人で過ごしていたというのに、その時には一度もそう呼ばれていなかったのだろう。エドガーは妙に静かになった二人を交互に見比べ、「どうしたの?」と首を傾げている。
アリシアにとっても、これは簡単に聞き流せる言葉ではなかった。四年間、自分一人で育ててきた息子である。当然ながら、これまでエドガーが誰かを「パパ」と呼んだことなど一度もない。そもそも父親が誰なのかさえ教えずに育ててきたのだから、エドガーにとって父親という存在は、自分の日常とはほとんど関係のないものだった。それが今、誰かに教えられた様子もなく、あまりにも自然にローゼンを「パパ」と呼んだのである。
少しだけ複雑な気持ちがないわけではない。熱を出した時も、泣いた時も、初めて歩いた時も、初めて言葉を話した時も、ずっと自分が隣にいた。エドガーの四年間を誰よりも近くで見てきたのは自分だ。それなのに、王宮へ来てそれほど経っていないうちからローゼンへ懐き、ついには「パパ」と呼ぶようになったのだから、母親としてほんの少し寂しく思ってしまう気持ちはあった。
けれど、それ以上に嬉しかった。
エドガー自身が、自分の父親を受け入れ始めている。そのことまで否定したいとは、アリシアも思わなかった。
「ほら。お土産、もっと近くで見せてあげたら?」
「うん!」
エドガーは玩具を抱えたまま、ローゼンのところへ駆けていった。しかし、当のローゼンはまだ完全には立ち直っていないらしい。エドガーが目の前までやって来ても、僅かに呆然としたまま動かない。
エドガーは首を傾げ、もう一度呼んだ。
「パパ?」
それでも一瞬反応が遅れたローゼンを見て、アリシアはとうとう呆れたように口を開く。
「……何固まってるのよ。呼ばれてるわよ、パパ」
ローゼンがビクッと肩を振るわせ、勢いよくアリシアを見た。先ほどエドガーから呼ばれただけでも固まっていたというのに、今度はアリシアからまで「パパ」と呼ばれたのだから、余計に驚いたらしい。
「何よ、その顔。エドが呼んでるでしょう?早く返事してあげなさい」
「……ああ、すまない。エドガー、見せてくれるか?」
「うん!これね、ママが買ってくれたの!」
ようやく我に返ったローゼンがしゃがみ込むと、エドガーは待っていましたとばかりに玩具を差し出した。どこを動かせば騎士が剣を振るのか一生懸命説明し始めるものの、本人もまだ使い方を完全には理解していないらしく、やがて二人揃って仕掛けを調べ始める。そんな父子の姿を、アリシアは少し離れたところから眺めていた。
そこへ、廊下の向こうからミレイユがやって来た。
「アリシア様、お帰りなさい!!王都はいかがでしたか!?」
「ただいま、ミレイユ。思っていたより楽しかったわ。買い物もできたし、ちょっと面白い人にも会ったのよ」
「そうなんですか!!それはぜひ後ほどお聞かせください!」
ミレイユは嬉しそうに返しながら、アリシアが持ち帰った荷物を受け取った。今日はアリシアが留守にしていたため、いつものように専属侍女として付きっきりになる必要はなく、その分、エドガーに付きっきりになっていたローゼンの代わりに、部屋の細かな用事や植物への水やりなどを済ませていたらしい。
「今日はありがとう。エドのことまで見てもらっちゃって」
「いえいえ。私は途中で少し様子を見ていただけですよ。ほとんどはローゼン様がお相手されていました」
「そうなの?それなら、思っていたより頑張ったのね」
アリシアがローゼンの方へ視線を向けた、その直後だった。
「ねぇ、パパ。これどうやって使うの?」
エドガーの声が聞こえた。
ミレイユの動きがぴたりと止まる。
「…………」
聞き間違いかと思ったのか、ミレイユはローゼンとエドガーを交互に見た。しかしエドガーは何事もなかったかのように玩具を差し出しており、ローゼンも先ほどよりは慣れた様子でそれを受け取っている。
「ここのところ動かないよ」
「少し待ってくれ。たぶん、この部分を先に動かすんだと思う」
「これ?」
「ああ。そこを押してみるといい」
普通に会話している。
ミレイユの目が僅かに見開く。
――パパ?
間違いなくそう呼んでいたのだ。
「エド、それ無理に引っ張っちゃ駄目よ。壊れそうならパパにやってもらいなさい」
「うん!」
「…………!」
ミレイユは勢いのあまり、扉の後ろに隠れてしまった。
エドガーだけではない。アリシアまで何でもないことのように「パパ」と言っている。いつの日かの休憩時間にはアリシアとローゼンの関係について散々語り、先輩侍女たちから呆れられるほど二人を応援していたミレイユにとって、目の前の光景はあまりにも刺激が強かった。
父親へ玩具の使い方を尋ねる息子。その息子へ「パパにやってもらいなさい」と自然に声を掛ける母親。そして実際に息子の玩具を直しているローゼン。どう見ても、ただの家族である。
しかし、ここで専属侍女が一人ではしゃぐわけにはいかない。ミレイユは必死に平静を装い、預かった荷物へ視線を落とした。
「……ミレイユ?」
「は、はいっ!」
突然アリシアから呼ばれ、ミレイユの声が裏返った。
「どうしたの? さっきから変よ」
「な、何でもございません!私はいつも通りでございます!」
アリシアはしばらくミレイユの顔を見つめ、それからローゼンとエドガーへ視線を向けると、すぐに何を考えているのか察したらしい。
「……変な想像しないでよ?」
「しておりません!本当に何も想像しておりませんから!」
説得力は皆無だった。アリシアは呆れたように息を吐いたものの、ミレイユが二人の関係を妙に応援していることはすでに知っているため、それ以上追及することはしなかった。
荷物の整理をミレイユへ任せると、アリシアはローゼンたちの方へ歩いていく。
「それで?今日は本当に一日大丈夫だったの?」
「ああ。午前中は一緒に積み木をした。それから、エドガーに村で暮らしていた頃の話も色々聞かせてもらった」
「村の話?」
「薬草を採りに行ったことや、村で遊んでいたことだ。君が料理を作っていた話も聞いたよ。それから俺が子どもの頃のことも聞かれたから、少し話した」
当然、その中には幼馴染だったアリシアの話もかなり含まれている。
「……余計なこと言ってないでしょうね?」
「聞かれたことに答えただけだ」
「それが一番心配なのよ。この間だって、昔のことを散々掘り返されたばかりなのに」
アリシアは疑うようにローゼンを見たが、エドガー本人が楽しそうにしているのだから、今日一日が上手くいったことだけは間違いないらしい。朝には少し心配しながら王都へ出掛けたものの、どうやら余計な心配だったようだ。
「まあ、でも……エドが楽しそうだったならよかったわ。ちゃんと面倒見られたじゃない」
「心配するな。最初からそのつもりだった」
ローゼンが少し得意そうに答える。
すると、荷物を整理していたミレイユが僅かに視線を逸らした。その仕草をアリシアは見逃さなかった。
「あら?でも朝は結構困ってたって聞いたけど?」
ローゼンの視線がゆっくりとミレイユへ向く。ミレイユはまずいと思ったのか、何も知らないふりをして手元の荷物へ視線を落とした。 アリシアはどうやら、従者の伝手で既に聞いていたらしい。
「わ、私は何も……」
「何を言ったんだ?」
「べ、別に変なことは申し上げておりません! ただ、ローゼン様が四歳のお子様は普段何をして過ごすのかと、とても真剣に悩んでいらっしゃったことを少しだけ……」
アリシアは堪えきれずに笑った。
「何よ。やっぱり困ってたんじゃない」
「最初だけだ。途中からは問題なかった」
「はいはい。分かったわ。エドが楽しかったなら、それで十分よ」
いつものような軽いやり取りだった。
けれど、その間にもエドガーは何度もローゼンを「パパ」と呼んでいた。最初の数回こそ呼ばれるたびにローゼンの反応が僅かに遅れていたものの、次第に慣れてきたらしい。呼ばれれば自然に顔を向け、「どうした?」と返事をするようになっていく。
アリシアはそんな二人を眺めながら、ほんの少しだけ考えていた。
ローゼンとの関係については、まだ何一つ答えを出せていない。四年前のことを忘れたわけではないし、彼ともう一度やり直すと決めたわけでもなければ、このまま王宮に残り続けると決めたわけでもない。それに、エドガーにとっては自分がママでローゼンがパパであっても、自身はローゼンを夫とは認めていなかった。
けれど、エドガーにとっては少しずつ状況が変わっている。
ローゼンはもう、ただ血が繋がっているというだけの父親ではなくなり始めていた。今日一日、一緒に遊び、話をして、同じ食卓を囲んだ。その時間を過ごした上で、エドガー自身が「パパ」と呼びたいと思ったのである。
ならば、その気持ちは大切にしてやりたい。
自分とローゼンの問題と、エドガーが父親をどう思うのかは別の話なのだから。
「ママ!」
考え込んでいたアリシアは、エドガーの声で我に返った。少し離れた場所では、エドガーが先ほどの玩具を両手に持ってこちらを見ている。
「パパも! こっち来て!」
アリシアとローゼンが同時にエドガーを見た。
初めてだった。
エドガーが二人を並べて、「ママ」と「パパ」と呼んだのは。
ほんの一瞬だけ、アリシアとローゼンの視線が重なる。何故か少しだけ気恥ずかしくなり、アリシアは先に目を逸らした。
「……はいはい。今行くわよ」
ローゼンも何も言わず、その後を追うようにエドガーのところへ向かっていく。
その後ろでは、ミレイユが三人の背中を眺めていた。放っておけば頬が緩んでしまいそうになるものの、先ほどアリシアから釘を刺されたばかりである。必死に口元へ力を入れ、何でもない顔を装う。
エドガーにとって、少し前まで「ママとおじさん」だった二人。
それがこの日、初めて自然に「ママとパパ」になったのだった。




