25. アリシアの生涯の親友
朝7時を忘れてました。
王宮へ戻ってからというもの、アリシアが一人で外へ出る機会はほとんどなかった。エドガーがいる以上、どこへ行くにも基本的には一緒だったし、王宮内でも何かと人の目がある。辺境の村にいた頃には、薬草を探しに森へ入ったり、必要な物を買いに一人で出掛けたりすることも珍しくなかったため、久しぶりに少しだけ自分の時間が欲しくなったのである。
「というわけで、今日は王都へ行ってくるわ。夕方までには戻るつもりよ」
朝食を終えた後、アリシアがそう告げると、真っ先に反応したのはエドガーだった。てっきり自分も連れて行ってもらえると思ったのか、「僕も行く!」と駆け寄ってきたものの、今日は少し事情が違った。
「今日はママ一人で行ってくるの。エドはお留守番していてくれる?」
「えー……」
途端に頬を膨らませるエドガーだったが、そこへミレイユが名乗りを上げた。
「それでしたら、エドガー様は私が見ております!アリシア様もたまにはゆっくりしてきてください!」
「でも、一日近くお願いすることになるわよ?」
「大丈夫です!お任せください!」
胸を張るミレイユの隣では、ローゼンまで当然のように頷いていた。
「俺も今日は王宮にいる。仕事の合間ならエドガーを見ていられるから、心配しなくていい」
「……貴方も?」
「そんなに信用がないのか?」
「だって貴方、エドに甘いんだもの」
アリシアは疑わしそうな目を向けた。服を買うとなれば大量に用意し、遊びたいと言われれば仕事の合間を縫って庭園まで連れて行く。ローゼンは明らかにエドガーへ甘かった。
ところが、肝心のエドガーは二人の顔を見比べると、先ほどまでの不満をあっさり引っ込めた。
「じゃあ、といる!」
「あら、ママと行かなくていいの?」
「うん!ミレイユお姉ちゃんと遊ぶ!」
「……そう」
少しくらい寂しがると思っていたのに、随分と切り替えが早い。アリシアはほんの少しだけ複雑な気持ちになったものの、エドガー本人が楽しみにしているなら問題はないだろう。
分かったわ。でも、危ないことはさせないでよ。それから甘いものばかり食べさせちゃ駄目。お昼もちゃんと食べさせて、お昼寝を嫌がっても少しは休ませること。それと――」
「アリシア」
「何よ?」
「大丈夫だ。ちゃんと見ている」
「……本当に?」
なおも疑わしそうにローゼンを見た後、アリシアは今度はミレイユへ視線を向けた。
「ミレイユ。ローゼンまで一緒になってエドを甘やかし始めたら止めてね」
「わ、私がローゼン様を止めるんですか!?」
「お願いね」
突然とんでもない役目を任されたミレイユが固まっている間に、アリシアは支度を整えた。最後にエドガーへ「いい子にしているのよ」と言い聞かせ、王宮を後にする。
◇
久しぶりに一人で歩く王都は、懐かしさと新鮮さが入り混じった不思議な場所になっていた。大通りには相変わらず大勢の人々が行き交い、馬車が石畳を走り抜け、その両側には様々な店が軒を連ねている。焼きたてのパンの香りが漂う店もあれば、色鮮やかな布を店先へ並べた仕立屋もあり、露店からは威勢のいい呼び込みの声が響いていた。四年前と変わらない店を見つければ懐かしくなり、記憶にない建物を見つければ思わず足を止める。
「こんなお店、前はなかったわよね……」
辺境の村とは比べものにならない人の多さだったが、不思議と嫌ではなかった。むしろ幼い頃から何度も歩いた王都の喧騒を懐かしく感じている自分がいる。
アリシアはまず、目的の一つだった薬草を扱う店へ向かった。王都には辺境では手に入りにくい乾燥薬草や薬の材料が豊富に揃っている。棚へ並べられた品を一つひとつ確認し、品質や値段を見比べながら必要なものをいくつか購入した。その後も別の店を覗き、日用品を買い足し、久しぶりの一人歩きを存分に楽しんでいた。
ところが、自分のための買い物をしているはずなのに、子ども向けの商品が目に入るたびに足が止まってしまう。露店に並んだ小さな木製の玩具を見れば、エドガーが喜びそうだと思う。菓子屋の前を通れば、最近気に入っている果実を使った焼き菓子が目に入る。結局アリシアは、小さな玩具と日持ちする菓子を少しだけ買い、荷物へ加えてしまった。
「……私も人のこと言えないわね」
ローゼンに甘やかしすぎだと言ったばかりなのに、自分も大して変わらない。そう思うと少し可笑しくなった。
いくつかの店を回っているうちに、気付けば昼時になっていた。大通りは朝以上の人で溢れ、食事を出す店の前には客が並んでいる。アリシアは適当な店でパンに肉や野菜を挟んだ軽食を買うと、人通りの多い通りを避け、少し離れた広場へ向かった。
木々に囲まれた広場には休憩用の長椅子や卓がいくつも置かれていたが、昼時ということもあり、そのほとんどが埋まっている。幸い一つだけ空いている卓を見つけ、アリシアはそこへ腰を下ろした。
久しぶりに一人で取る昼食だった。最初こそ静かな時間を楽しんでいたものの、半分ほど食べ終えた頃、不意に頭上から女性の声が降ってきた。
「ねぇ、ここいいかしら?」
顔を上げると、見知らぬ若い女性が立っていた。年齢はアリシアとそう変わらないように見える。身なりは整っているものの、王侯貴族だと一目で分かるような派手な装いではない。少し裕福な商家か、下級貴族の娘といったところだろうか。
周囲を見れば、他の席はすべて埋まっている。
「ええ、いいわよ。向かいなら空いているから」
「ありがとう。助かったわ」
女性は嬉しそうに礼を言い、アリシアの向かいへ腰を下ろした。
これが、アリシアと生涯の親友となるアリス・ウェールズの初めての出会いだった。
もちろん、この時のアリシアは目の前の女性が隣国の第四王女だなどとは夢にも思っていない。
最初のうちは互いに黙って昼食を取っていた。たまたま相席になっただけなのだから、それが普通である。ところが、向かいに座った女性は沈黙があまり得意ではないらしい。しばらくすると、何気ない調子で話しかけてきた。
「あなた、王都の人?」
「昔は住んでいたけれど、しばらく離れていたの。最近また戻ってきたばかりよ」
「そうなのね。私もここで生まれたわけじゃないから、まだ知らないところが多いのよ」
そこから会話は自然に続いていった。互いに詳しい素性を尋ねることはなく、王都の店が変わっただとか、どこの菓子が美味しいだとか、そんな他愛のない話ばかりだった。
やがてアリスの視線が、アリシアの隣に置かれた荷物へ向いた。袋から少しだけ覗いている木製の玩具に気付いたらしい。
「それ、子ども用でしょう?お子さんがいるの?」
「ええ。四歳の男の子が一人いるわ。今日は知り合いに預けて、久しぶりに一人で出てきたの」
「四歳!可愛いでしょうね!」
「元気すぎて大変だけどね。少し目を離すと、すぐどこかへ行っちゃうのよ」
そう言いながらも、アリシアの表情は自然と柔らかくなる。エドガーについて尋ねられれば、つい話したくなってしまうのは母親だからだろう。
しばらく息子の話をしたところで、アリシアも気になって尋ね返した。
「あなたは?結婚しているの?」
「まだよ。でも婚約者ならいるわ」
そう答えた瞬間、アリスの顔がぱっと明るくなった。それまでだって楽しそうだったのだが、婚約者の話になった途端、分かりやすいほど頬が緩んでいる。
その変化に気付いたアリシアも思わず微笑んだ。
「ふふっ。随分嬉しそうね」
「だって大好きなんだもの。私の一目惚れだったのよ!」
「一目惚れ?」
「ええ。初めて見た時に、この人がいいって思ったの」
迷いのない答えに、アリシアは少し驚いた。一目惚れというものを経験したことがないからである。ローゼンとは物心がついた頃にはすでに一緒にいて、いつから好きだったのかと聞かれても、自分でもよく分からない。気付いた時には隣にいて、気付いた時には特別な相手になっていた。
「それで、その人もすぐに貴方を好きになってくれたの?」
「それが全然だったのよ。最初なんて、話しかけても困ったような顔ばかりするんだもの。私、嫌われているのかと思ったわ」
「あら……それは辛いわね」
「でしょう?それでも諦めなかったけれど」
アリスは何度も自分から話しかけ、顔を合わせる機会があれば積極的に近づき、少しずつ距離を縮めていったらしい。それを聞いているうちに、アリシアもすっかり話へ引き込まれていた。
「それで、それで?最後はどうなったの?その人の方から想いを伝えてくれたとか?」
「いいえ。私から好きだって伝えたわ」
「まあ……!」
アリシアは少し目を輝かせた。
「じゃあ、ちゃんと告白したのね」
「ええ。でも、その後が少しだけ予定と違ってしまって」
「予定と違った?」
アリスが珍しく少し照れたように笑ったので、余計に気になってしまう。アリシアは自然と身を乗り出していた。
「何があったの?」
「彼に好きだって伝えたら、それまでずっと我慢していたせいかしら。急に気持ちが抑えられなくなってしまって……ノアが返事をする前に、口づけしちゃったの」
「まあ、口づけを……」
一度はそのまま頷きかけたアリシアだったが、数秒遅れて意味を理解した。
「……えっ?」
目をぱちぱちさせる。
「ちょ、ちょっと待って。返事をする前に?貴方から?」
「そうよ?」
アリシアの頬がほんのり赤くなった。何故か自分の話でもないのに恥ずかしくなってくる。
「で、でも……二人きりだったのよね?どこかのお庭とか、そういうところで……」
「いいえ。王都の通りよ」
「王都の通り!?」
思わず大きな声が出てしまい、アリシアは慌てて口元を押さえた。周囲をちらりと確認してから、今度は声を潜めてアリスへ顔を近づける。
「人、いたでしょう……?」
「いたと思うわ」
「いたと思うって……!」
「その時は彼しか見えていなかったんだもの」
「そ、そんな……恥ずかしくなかったの?」
聞いているこちらまで頬が熱くなってきた。
アリシアだってローゼンとは昔から距離が近かった。婚約してからは口づけだって珍しくなかったし、二人きりならもっと恥ずかしいことだってしている。それでも、人通りのある場所で周囲の視線も気にせず、自分から想いを告げた直後に口づける勇気があるかと問われれば、絶対に無理だった。
「それで、その彼は何て?」
「何も言わなかったわ。しばらく固まってたの」
「そ、それはそうなるわよ……!」
アリシアは思わず同情してしまった。
何が起きたのか理解するまでしばらく動けず、ようやく我に返った頃には、アリスの方が先に「これで私の気持ちは分かったでしょう?」と言い切っていたのだという。
「そんなことまで言ったの!?」
「だって、あれだけしてまだ分からないなんて言われたら困るもの」
「それは分かるでしょうけど……!」
アリシアは完全にアリスの恋愛話へ夢中になっていた。最初はたまたま相席しただけの女性だったはずなのに、今では昼食を食べる手まで止まり、続きを待ってしまっている。
「それで……その後は?」
「彼も私のことを好きだって言ってくれたわ。それで、お付き合いすることになったの」
「よかった……!」
思わず胸元へ手を当てる。もしそこで振られていたらどうするつもりだったのだろうと心配していたため、アリシアまで安心してしまった。
そんな反応がおかしかったのか、アリスがくすくすと笑った。
「アリシアって面白いのね。私の話なのに、どうしてそんなに安心してるの?」
「だって、そこまで聞いたら気になるじゃない! もし駄目だったって言われたら、私まで悲しくなるもの」
「ふふっ。大丈夫よ。最初は全然振り向いてもらえなくて大変だったけれど、諦めなくてよかったわ。好きな人と一緒になれたんだから、私は幸せよ」
「……そうね」
その言葉を聞いた瞬間、アリシアの脳裏へほんの少しだけローゼンの顔が浮かんだ。
気付けば昼食はとっくに食べ終わっていた。それでも二人とも席を立とうとはせず、そのまま話し続けている。アリシアにとっても、こうして同年代の女性と何の立場も気にせず話せる時間は久しぶりだった。
そんな時だった。
「アリスさん、こんなところにいたんですか」
若い男の声に、二人が揃って振り返る。
一人の青年がこちらへ歩いてきていた。服装からして騎士なのだろう。年齢もまだ若く、随分と探し回っていたのか少し困ったような表情をしている。
ところが、アリスは青年の姿を見るなり嬉しそうに笑った。
「あら、ノア」
その名前を聞いた瞬間、アリシアの目が大きくなる。
「えっ、この人が!?」
思わずノアの顔をまじまじと見てしまった。
「この人が、さっき言っていたノアさんなのね?」
「ええ。私の婚約者よ」
アリスは嬉しそうだったが、事情を知らないノアは怪訝そうな顔をしている。
「アリス様……私の話をされていたんですか?」
「ええ。馴れ初めを少しだけ」
「……どこまでです?」
「口づけしたところも話したわ」
「あ、アリスさん!それは内緒のはずでは……!」
ノアの顔が一気に赤くなった。
その反応を見たアリシアまで先ほどの話を思い出してしまい、つられるように少し頬が熱くなる。
「ご、ごめんなさい。私が色々聞いちゃったの」
「いえ、アリシア様が謝られることでは……」
そこまで言ったところで、ノアが止まった。
アリシアも首を傾げる。
「……私のこと、知っているの?」
「もちろんです。アリシア様を知らない王宮の騎士はほとんどいないと思いますが……」
「王宮の騎士?まさか第二近衛騎士なの!?」
「はい。ノア・フェルゼンと申します。以後お見知りおきを」
そして、何か嫌な予感でもしたようにアリスへ顔を向けるの
「そして、アリスさん。まさかとは思いますが、ご自分のことを何もお伝えしていないのですか?」
「そういえば、名前くらいしか言ってなかったわね」
「名前……?」
アリシアは改めて向かいの女性を見る。
アリスは悪びれる様子もなく笑った。
「私、アリス・ウェールズ。隣国の第四王女よ」
「…………王女?」
アリシアは固まった。
しばらくしてから、目の前の女性を上から下まで見直す。
「えっ……貴方、王女様なの!?」
「ええ。と言っても勘当されているのだけどね。言ってなかったかしら?」
「聞いてないわよ!」
アリシアは思わず頭を抱えそうになった。先ほどまで自分は隣国の王女を相手に、「その後どうなったの?」などと身を乗り出しながら恋愛話を聞いていたのである。
しかし、驚くのはまだ早かった。
「アリスさんは以前、ローゼン陛下の婚約者候補としてこちらへいらしたことがあるんです」
ノアがそう説明した瞬間、アリシアの動きが再び止まった。
「……ローゼンの婚約者候補?」
「そうよ」
アリスは何でもないことのように頷いた。
「でも、その時にノアと出会ってしまったんだもの」
「ちょ、ちょっと待って……」
アリシアはようやく話が繋がり始めた。
つまり、目の前の女性は隣国の第四王女であり、ローゼンの婚約者候補としてこの国へやって来た。そして、その滞在中に王都でノアを見かけて一目惚れし、自分から何度も猛然とアプローチした挙げ句――。
「まさか、さっきの口づけって……」
「その頃の話よ?」
「やっぱり!」
アリシアは驚きのあまり両手で口元を覆った。
当時、国王との婚姻話のために他国へやって来た王女が、その国の王都で若い騎士へ一目惚れし、挙げ句の果てには人通りのある場所で自分から告白して口づけまでしたのである。アリシアはそんな話を聞いたのを思い出したのである。
「そ、それ……大丈夫だったの?」
「最終的には大丈夫だったわ」
「最終的にはって……!」
ますます気になってしまう。
その一方で、アリスもようやく目の前の女性が何者なのか理解したらしい。ノアから事情を聞き、今度は彼女の方が目を丸くした。
「待って。じゃあ、あなたがあの?ローゼン陛下がずっと探していた方でしょう? それに四歳のお子さんって、もしかして――」
アリシアは少し困ったように笑った。
「エドガーよ。今はローゼンと一緒に王宮にいるわ」
「えっ!?あなたがアリシア!?」
今度はアリスが驚く番だった。
しばらく二人で互いの顔を見つめ合う。
片方は、相手が隣国の第四王女だと知らず、その恋愛話を夢中になって聞いていた。
もう片方は、相手がローゼンの元妻であり、王宮中で話題になっているアリシアだと知らず、自分が婚約者へ口づけした時の話まで嬉々として語っていた。
あまりにも互いのことを知らなさすぎた。
「……私たち、何も知らないまま随分色々話しちゃったわね」
「本当ね」
どちらからともなく笑い始めた。
身分を知ってから出会っていれば、こんな会話にはならなかったかもしれない。王女と元王妃候補という立場を意識し、もっと形式張った挨拶を交わして終わっていた可能性すらある。
けれど、何も知らなかったからこそ、ただ同年代の女性同士として話すことができた。
「ねぇ、アリシア。また会いましょうよ。今度はちゃんとお互いのことを知った上で、お茶しましょう。私、もっと貴方と話したいわ」
アリシアは少し驚いたものの、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
「ええ。私も楽しかったわ」
「約束よ?」
「分かったわ。約束ね」
アリスは満足そうに頷くと、ノアとともに広場を後にした。去り際にも何度か振り返って手を振る彼女へ、アリシアも笑いながら手を振り返す。
一人になったところで、アリシアは空を見上げた。昼を過ぎた太陽は少しずつ西へ傾き始めている。思っていた以上に長話をしてしまったらしい。
「……そろそろ帰らないと」
その瞬間、王宮へ残してきたエドガーの顔が浮かんだ。
ミレイユもいるのだから心配はいらないだろう。それでも、ローゼンとエドガーがどう過ごしているのかは少し気になる。出掛ける前にあれだけ念を押したのだから大丈夫だとは思うが、帰ってみたら二人揃って好き放題していた、などということになっていないことを祈るばかりだった。
アリシアは買い物袋を持ち直し、王宮へ向かって歩き始める。
久しぶりの一人歩きは、思いがけず新しい親友ができたのだった。




