20. 専属侍女の受難
朝の柔らかな陽光が窓から差し込む中、ミレイユはアリシアの後ろに立ち、長い髪へ丁寧に櫛を通していた。
普段なら髪を整えるくらいはアリシアが自分でやってしまう。辺境の村で暮らしていた頃は当然のように身支度を一人で済ませていたし、王宮へ戻ってからもその習慣はほとんど変わっていなかった。そのため、今朝もいつものように櫛へ手を伸ばそうとしたのだが、それより早くミレイユが「今日は私にやらせてください!」と名乗り出たのである。せっかく専属侍女になったのだから、少しくらい仕事を任せてほしい。そんなことまで言われてしまい、アリシアも断る理由がなくなってしまった。
実際に任せてみると、ミレイユの手つきは思っていた以上に上手だった。まだ王宮へ勤め始めたばかりの新人とはいえ、侍女として一通りの教育は受けているのだろう。毛先から少しずつ櫛を通し、絡まっているところがあれば無理に引っ張らず、指先で優しく解してから整えていく。自分で適当に済ませる時とは違い、ほとんど髪を引っ張られる感覚がない。
「上手ね。髪が全然痛くないわ」
「えへへ、そう言ってもらえて嬉しいです! 髪を整えるのは結構得意なんですよ!」
「本当ね。これなら毎朝お願いしてもいいかもしれないわ」
何気なく口にした言葉だったが、ミレイユの表情は一気に明るくなった。ようやく専属侍女らしい仕事を見つけられたのが嬉しいのだろう。
一方、そんな二人の近くでは、エドガーが朝から退屈そうにしていた。最初のうちは木彫りの馬を床の上で走らせていたものの、それにも飽きてしまったらしい。今は寝台の端へ座り、短い足をぶらぶらと揺らしている。
「ママー、遊びに行っていいー?」
「もう少し待ってなさい。ミレイユに髪を整えてもらっているから、これが終わったら一緒に行きましょう」
「えー」
「もうすぐよ。そんなに時間はかからないから」
「はーい……」
明らかに不満そうな返事をして、エドガーはそのまま寝台へ倒れ込んだ。王宮へ来てからというもの、庭園で騎士たちに遊んでもらったり、廊下を探検したりと毎日のように動き回っている。四歳の子どもにとって、朝から部屋でじっと待っている時間は退屈で仕方がないのだろう。
アリシアが鏡越しにそんな息子を眺めて苦笑していると、不意に扉を二度叩く音がした。
「アリシア、起きているか?」
聞き慣れた声だった。
アリシアが返事をするより先に、扉がゆっくりと開かれる。
「失礼する――」
「ろ、ろ、ローゼン様!?」
突然響いたミレイユの大声に、アリシアは思わず肩を揺らした。
ミレイユは櫛を握ったまま目を見開き、扉の前に立つローゼンを凝視している。国王が突然現れたことにも驚いているのだろうが、それ以上に重大なことへ気付いてしまったらしい。
「ア、アリシア様はまだお着替えになっておりません!」
言われてローゼンの動きが止まった。
アリシアは起きてからまだそれほど時間が経っておらず、髪を整えてもらっている途中だった。当然ながら昼間に着るドレスへも着替えておらず、まだ寝間着姿のままである。
「……すまない!」
ローゼンは慌てたように扉を閉め、そのまま廊下へ引っ込んでしまった。
あまりにも素早い動きに、アリシアはしばらく扉を見つめたあと、小さく首を傾げる。
「別にいいのに……。ローゼン、入ってきていいわよ。それほどのことじゃないから」
「ア、アリシア様!?」
「だって寝間着でしょう?大した事はないわ。それに昔はこれくらい普通だったわよ」
「む、昔は普通……?」
ミレイユが何やら引っ掛かっているようだったが、アリシアは気にしなかった。幼い頃からローゼンとは互いの部屋を行き来していたし、寝間着姿で顔を合わせたことなど数え切れない。今さら大騒ぎするほどのことではないと思っている。
しばらくして扉がもう一度開き、ローゼンが少し申し訳なさそうな様子で部屋へ入ってきた。それでも寝間着姿のアリシアを意識しているのか、いつもより微妙に視線が定まっていない。
「それで、今日はどうしたの?朝から私の部屋に来るなんて珍しいじゃない」
「その……エドガーを借りてもいいか?」
「エドを?どうしてよ?」
「まあ……あれだ。エドガーにちょっとしたプレゼントをしようと思ってな」
その言葉を聞いた瞬間、先ほどまで寝台で退屈そうにしていたエドガーが勢いよく起き上がった。
「わあ!なにかくれるの!?」
目をきらきらと輝かせ、寝台から飛び降りる。そのままローゼンのところまで駆け寄ると、何をくれるのか知りたくて仕方がないらしく、期待に満ちた顔で見上げていた。
「何を用意したのよ?」
「それはまだ秘密だ。本人にも見てからのお楽しみにしている」
「おもちゃ?おかし?」
「さぁ、なんだろうな」
「教えてよー!」
エドガーは早くもローゼンの手を掴み、答えを聞き出そうとしている。そんな息子を見て、アリシアは呆れながらも頬を緩めた。少し前までローゼンを「おじさん」と呼んで警戒していたというのに、今では随分と距離が縮まっている。
「一緒に来るか?部屋で待っている」
ローゼンが三つ隣にある自分の部屋を指差すと、エドガーはすぐにアリシアを振り返った。
「ねぇ、ママ!遊びに行っていい!?」
「もう……さっきまで私と遊びに行くって言っていたでしょう?」
「だってプレゼントあるんだって!」
四歳児にとっては、それとこれとは別問題らしい。
アリシアは少しだけ考えたものの、結局は仕方なさそうに頷いた。
「分かったわ。行ってらっしゃい。後でママも向かうから、それまでローゼンの言うことをちゃんと聞くのよ。廊下を走ったり、部屋の物を勝手に触ったりしちゃ駄目だからね」
「うん!行ってきまーす!」
「本当に分かってるのかしら……」
返事だけは立派だった。エドガーはすでにローゼンの手を引っ張りながら、早く行こうと急かしている。
「頼んだわよ、ローゼン。あんまり甘やかしすぎないでね」
「ああ。分かっている」
「昨日もお菓子をあげたでしょう。何でも欲しがるからって全部渡したら駄目よ?」
「今日はそういうものじゃないから大丈夫だ」
「ならいいけど。私も支度が終わったら行くわ」
「分かった。待っている」
それだけ言葉を交わすと、ローゼンはエドガーと一緒に部屋を出ていった。扉が閉まる直前まで、エドガーが「なにかなー」と楽しそうに話しかける声が聞こえている。
そんな三人のやり取りを、ミレイユはアリシアの後ろから黙って眺めていた。
表情だけはどうにか平静を装っている。
しかし、内心はそれどころではなかった。
――これってもう、ただの家族では!?
二人はまだ二十代になったばかりだというのに、交わしている会話はどこか長年連れ添った夫婦のそれだった。あまりにも馴染んでいて、ミレイユにはとても四年も離れていた二人には見えなかった。
しかも、当のアリシアにはまるで自覚がないらしい。
ローゼンが部屋を出たあとも何事もなかったように鏡へ向き直り、当然のように続きを待っている。その様子を見れば見るほど、ミレイユの頬は勝手に緩みそうになった。
「ミレイユ?」
「は、はい!」
「どうしたの?さっきから手が止まってるわよ」
「す、すみません!少し考え事をしておりました!」
慌てて櫛を動かし始める。しかし、鏡の前に座るアリシアからは、後ろに立つミレイユの表情がしっかり見えていた。
「それに、何だか嬉しそうね」
「そ、そうでしょうか!?」
「ええ。さっきからずっと笑ってるもの」
どうやら全く隠せていなかったらしい。ミレイユは一気に顔を赤くし、誤魔化すようにアリシアの髪へ視線を落とした。
「い、いえ!アリシア様の髪を整えられるのが嬉しいだけです!とても綺麗な髪ですし、やり甲斐があると申しますか……!」
「あら、ありがとう。そんなに褒めても何も出ないわよ?」
どうにか誤魔化せたらしく、アリシアはそれ以上追及せず鏡へ向き直った。
その後ろで、ミレイユはこっそり胸を撫で下ろす。
専属侍女という仕事は、想像していたよりずっと大変なのかもしれない。
憧れていた二人をこれほど近くで見ながら、何事もない顔で仕事を続けなければならないのだから。
それでもミレイユはどこか嬉しそうに、アリシアの長い髪へ再び櫛を通していくのだった。




