18. ローゼンの部屋
ローゼンの部屋へ足を踏み入れた瞬間、アリシアは思わず足を止めた。
四年という歳月が流れたにもかかわらず、室内は記憶に残っている光景とほとんど変わっていなかった。
壁際には背の高い本棚が並び、窓辺には一人掛けの椅子、その向かいには小さな丸テーブルが置かれている。
暖炉の前に敷かれた厚い絨毯も、大きな寝台の位置も昔のままだった。昼間に自分の部屋を見た時にも同じことを思ったが、どうやらローゼンは本当に家具の配置を変えることが嫌いらしい。
強いて違いを挙げるなら、机の上だろう。以前は書物や勉強道具が綺麗に並べられていたはずなのに、今は書類の束や開きっぱなしの本、羽根ペンなどが雑然と置かれている。国王になったことで仕事が増えたのだろうが、それにしても随分と乱雑だった。
「……机、昔より酷くなってない?」
アリシアが呆れたように言うと、盆を持っていたローゼンは机へ目を向けた。
「そうか?」
「そうかって……貴方、昔はもう少し綺麗にしていたでしょう。これ、どれが必要な書類なのかちゃんと分かっているの?」
「分かっている。左側が確認前で、右側が確認済みだ」
「真ん中に積んであるのは?」
「……途中だ」
「絶対そのうち分からなくなるわよ」
昔なら勝手に片付けてしまったかもしれない。しかし今は国王の机である。重要な書類も混ざっているだろうから、さすがのアリシアも触れる気にはならなかった。
そんな二人の会話など気にも留めず、エドガーは部屋へ入った瞬間から大きな寝台ばかりを見ていた。先ほどローゼンから「フカフカだ」と聞かされて以来、ずっと楽しみにしていたらしい。そして、アリシアが手を離したほんの一瞬を逃さなかった。
「わーい!」
「ちょっと、エド!」
小さな身体が勢いよく駆け出し、そのまま寝台へ飛び込んだ。柔らかな寝具へ身体が沈み込み、エドガーは満足そうに手足を広げる。
「フカフカー!」
「もう……人のベッドにいきなり飛び込まないの。せめてローゼンに聞いてからにしなさい」
「構わないよ」
「貴方も甘やかさないで」
ローゼンは苦笑しながら盆を机へ置くと、寝台へ歩み寄った。ところが、つい先ほどまで元気いっぱいだったエドガーから返事がない。不思議に思ったアリシアも近付いてみれば、エドガーは枕へ頬を押し付け、すでに目を閉じかけていた。
ローゼンが小さな身体へそっと布団を掛けてやる。
それが決定打になったらしい。
数分どころか、ほとんど待つ必要すらなかった。エドガーの身体から力が抜け、ほどなく規則正しい寝息が聞こえ始める。
「……寝たわね」
「思ったより早かったな……」
「全くもう……ホットミルクを飲まずに寝ちゃって……。あれだけ寝られないってぐずっていたのは何だったのよ」
アリシアは呆れながらも、息子を起こさないよう自然と声を落としていた。結局、眠れなかったのは体力が余っていたからではなく、慣れない場所で緊張していただけなのかもしれない。ローゼンの寝台が余程気に入ったのか、それとも一日中遊び回った疲れがようやく出たのかは分からないが、気持ちよさそうに眠っているならそれでよかった。
アリシアは寝台の近くにある椅子へ腰掛け、自分のために用意したホットミルクへ口をつけた。まだ十分に温かい。身体の内側へじんわりと熱が広がり、夜の王宮を歩いて冷えた身体には心地よかった。
視線を落とせば、机の上には手つかずのエドガーのカップが残っている。
「せっかく作ったのに、勿体ないわね」
アリシアはエドガーのカップを手に取ると、その半分ほどを自分のカップへ移した。残った分はローゼンの方へ差し出す。
「残りは貴方が飲んで。捨てるのは勿体ないでしょう?」
「俺が飲んでもいいのか?」
「エドの飲み残しでもないんだから、別にいいでしょう。それともいらない?」
「いや、もらう」
ローゼンは素直に受け取った。
二人で温かい牛乳を飲みながら、眠っているエドガーを眺める。暖炉の中では小さな火が揺れ、時折薪がぱちりと音を立てていた。夜も遅いため、廊下から人の声はほとんど聞こえない。四年前までなら何でもなかったはずの時間なのに、今は妙に落ち着かない。
それでも、嫌な居心地ではなかった。
「まさか貴方とこうやって話すことになるとは思ってなかったわ」
アリシアがぽつりと口にすると、ローゼンはカップから口を離した。
「そうだな。僕も、今日一日でここまでなるとは思っていなかった」
「ふふ、口調戻ってるわよ」
ローゼンは、ハッと口に手を当てた。
昔、彼はよく『俺』や『私』ではなく『僕』を一人称として呼んでいた。
気が緩んでしまったのか、ついつい人称が変わっていた。
「そうだな。俺も、今日一日でここまでなるとは思っていなかった」
「朝まで私は普通に村にいたのよ。それが今は王宮にいて、しかも夜中に貴方の部屋で牛乳を飲んでるんだから。本当に滅茶苦茶な一日だわ」
「……嫌だったら、無理に付き合わなくてもいいんだぞ。エドガーも眠ったし、君までここに残る必要はない」
その言葉に、アリシアはぴくりと眉を動かした。
せっかく自分から残ってやろうと思っていたのに、帰ってもいいと言われると妙に腹が立つ。
アリシアはぷいっと頬を膨らませ、横を向いた。
「そう。だったら帰ろうかしら。私は貴方とエドがちゃんと寝付くまで側にいようと思っていたのだけど、必要ないみたいだし」
「ま、待ってくれ。悪かった。そうしてほしい。いてくれたら……嬉しい」
慌てて引き止める声に、アリシアは横目だけを向けた。
ローゼンは本当に少し嬉しそうだった。国王として人前に立っている時の落ち着いた表情ではない。幼い頃、アリシアが部屋へ遊びに来た時に見せていたものとよく似ている。嬉しいくせに、それをあまり表へ出さないようにして、それでも結局隠し切れていない顔だった。
「……最初からそう言えばいいのよ」
アリシアは小さく呟き、再びホットミルクへ口をつけた。
ローゼンも自分の分を飲み終えると、残っていたエドガーの分まで飲み干し、三つのカップを机の上へまとめて置いた。それから寝台へ腰掛け、エドガーを起こさないよう慎重に布団へ入る。寝台は大人二人が眠っても十分なほど広いため、四歳のエドガーが隣にいても窮屈そうには見えない。
ローゼンは眠っているエドガーへ布団を掛け直すと、小さな身体を包み込むようにそっと腕を添えた。その姿を見ながら、アリシアは何とも言えない気持ちになった。今日初めて会ったばかりだというのに、個人的には認めてはいないのだが、随分と父親らしくなったものだ。エドガーの方もローゼンを怖がる様子はなく、眠りながら無意識にその胸元へ身体を寄せている。
しばらく二人を眺めていたアリシアだったが、ふと先ほどの出来事を思い出した。夜中に自分の部屋へ来ないかと誘った時のローゼンである。本人は何の意味もなかったと言っていた。けれど、あまりにも自然に口から出た言葉だったことが少し引っ掛かる。
アリシアは寝台の端へ腰を下ろし、眠っているエドガーの腰をそっと撫でながら、じろりとローゼンを睨んだ。
「……どうせ、私がいなかった四年間にも、さっきみたいに言いくるめて、こうやって他の女を部屋に呼んで遊んでいたんでしょう?」
言った直後、自分でも随分と意地悪な聞き方をしたと思った。別に気にしているわけではない。そう自分へ言い聞かせる。ローゼンがこの四年間に誰と会って、誰を部屋へ入れて、どんな関係になっていようと、本来ならアリシアには関係のないことだ。それなのに、答えを聞くまでは妙に落ち着かなかった。
ローゼンは一瞬だけ目を丸くしたあと、少し笑った。
「そんなことするわけないだろ。君がいなくなってから、女性をこの部屋に呼んだことなんて一度もないよ。それに……僕は君が最初で最後だ」
「……え?」
思わず聞き返してしまった。もっと誤魔化すかと思っていた。あるいは国王なのだから、再婚を考えた女性くらいはいたのかもしれないとも思っていた。ところが、返ってきた答えはあまりにも予想外だった。
ローゼンから別れを告げたくせに、その後は誰とも関係を持たなかったという。
「本当に?」
「ああ」
嘘をついているようには見えなかった。
アリシアはエドガーの髪を指先で整えながら、何となくローゼンから視線を逸らした。
少し嬉しかった。
もちろん、それだけで今までのことを全部許せるわけではない。
だから、本当に少しだけだった。
「……まだ全部は許してないから。ちょっとだけよ。ほんのちょっと」
アリシアはそう言って、エドガーの頭を撫でた。
「分かっている。それでも十分だ」
ローゼンは穏やかに答えた。
その声が妙に優しく聞こえて、アリシアは気恥ずかしさを誤魔化すように視線を伏せる。
「何よ……。それくらいで喜ばないでよ」
「僕にとっては、それくらいじゃないからな」
アリシアは何も返さなかった。
返せなかった、という方が正しい。
そんなことを真正面から言われても困る。昔のローゼンならともかく、四年ぶりに再会したばかりの相手から言われれば、どう反応すればいいのか分からない。
ローゼンはしばらくアリシアを見つめていたが、やがて眠っているエドガーを起こさないよう、そっと身体を起こした。
そして、アリシアの方へ少しだけ身を寄せる。
「……何?」
顔を上げた、その時だった。
頬へ柔らかな感触が触れた。
「――っ!?」
あまりにも一瞬のことで、アリシアは何をされたのか理解するまで少し時間がかかった。
ローゼンの顔が離れていく。頬に残った僅かな温もり。
それが口づけだったのだと気付いた瞬間、アリシアの顔が一気に熱くなった。
「な、な、何をしてるのよ!」
思わず声を上げそうになり、途中で眠っているエドガーの存在を思い出して慌てて声を抑える。
「ごめん。久しぶりにこうして君と話せたのが嬉しくて……つい」
「ついでと言わんばかりにしないでよ!私はまだ全部許したわけじゃないって、今言ったばかりでしょう!?」
ローゼンは申し訳なさそうにしながらも、どこか嬉しそうだった。
それが余計に腹立たしい。
けれど、不思議と本気で怒る気にもなれなかった。
昔なら口づけくらい、特別なことではなかった。二人きりになれば自然としていたし、ローゼンからされることも、アリシアから返すことも珍しくなかった。それなのに今は、たった一度頬へ触れられただけで、心臓がうるさいほど鳴っている。
「……本当に勝手なんだから」
アリシアはそれ以上何も言わず、眠っているエドガーへ手を伸ばした。ローゼンの近くにいた小さな身体をそっと自分の方へ手繰り寄せ、そのまま寝台の反対側へ横になる。
「今日はここで寝るわ。エドを今から起こして部屋へ連れていくのも可哀想だもの。ただし、これ以上変なことしたら本当に怒るからね」
「ああ。分かった」
「絶対だからね……!」
念を押してから、アリシアはローゼンへ背中を向け、エドガーを胸元へ抱き寄せた。
大きな寝台の中央にはエドガーが眠り、その両側の端っこにアリシアとローゼンが横になる。こんなふうにローゼンと同じ寝台で夜を過ごすのは四年ぶりだった。あの頃は二人だけだった寝台に、今は二人の間に生まれた息子が眠っている。
アリシアは目を閉じるが、すぐには眠れなかった。
先ほどローゼンの唇が触れた頬だけが、いつまで経っても熱を持っているように感じる。気にしないようにすればするほど、そこへ意識が向いてしまう。
昔はこれくらい普通だった。
そう自分へ言い聞かせながら、アリシアはエドガーを抱く腕へ少しだけ力を込めた。
その向こうでは、ローゼンもまた静かに目を閉じていた。
四年ぶりに訪れた三人での夜は、こうしてゆっくりと更けていくのだった。




