17. 四年ぶりのお誘い
ローゼンの口から出た言葉を理解するまで、アリシアには少し時間がかかった。
夜もすっかり更けた王宮。人気のない一階の広間で、三人分の温かい牛乳を前にしている。ローゼンとしては、このままここで飲んでいるところを夜番の使用人や料理長に見つかるより、自分の部屋へ移動した方がいいという意味で言ったのだろう。それくらいはアリシアにも分かっている。
分かっているのだが、それでも言い方というものがある。
しかも相手は四年前まで夫婦同然だった男であり、現在も書類上では夫婦関係が続いているという、何ともややこしい間柄である。
「な、な、何を言っているのよ!誘ってるつもり!?」
アリシアは思わず声を上げると、隣にいたエドガーの耳を両手でがっつりと塞いだ。突然母親に耳を塞がれたエドガーは何が起きたのか分からず、きょとんとした顔でアリシアを見上げている。
ローゼンもようやく自分の発言がどう聞こえたのか理解したらしい。先ほどまで平然としていた表情が一気に崩れ、珍しく狼狽えながら両手を軽く上げた。
「い、いや。そういう訳じゃ……ただ、ここで飲むより俺の部屋の方が落ち着けると思っただけで、別に妙な意味で誘ったわけではない」
「だったら最初からそう言いなさいよ!こんな夜中にいきなり自分の部屋へ来ないかなんて言われたら、普通は勘違いするでしょう!?」
「すまない。そこまで考えていなかった」
「そこまで考えていなかったって……!」
どうやら、本当に素で誘ったらしい。
ローゼンの顔を見れば、それくらいは分かる。昔から妙なところで鈍い人だった。王族として必要な知識や政治に関することなら誰よりも頭が回るくせに、アリシアが相手になると時々信じられないほど言葉が足りなくなる。四年経って国王になったというのに、そこだけは全く成長していないらしい。
幸いにも廊下は暗かった。
壁際の灯りだけでは互いの表情まで細かく見えない。自分の耳が熱くなっていることも、頬まで赤くなっていることも、きっとローゼンには気付かれていないはずだ。
そう思いながら、アリシアはエドガーの耳を塞いだままローゼンを睨みつける。
「とにかく、エドの前で変な言い方をしないで。何でも覚える年頃なんだから」
「だから変な意味ではないと言っているだろう」
「分かってるわよ!分かっているけど、そう聞こえる言い方をした貴方が悪いの!」
アリシアがそう言い切ったところで、両手の間からエドガーが何やら喋っていることに気付いた。
「……何?」
耳から手を離してやる。
「ママー。僕、行きたい!」
「えぇ?」
「お部屋!遊びに行きたい!」
どうやら、肝心なところはしっかり聞こえていたらしい。
エドガーは母親の動揺など少しも気にしておらず、むしろ新しい遊び場を見つけたとでも言わんばかりに目を輝かせている。昼間に一度ローゼンの部屋へ遊びに行っているとはいえ、夜に訪れるのはまた違った楽しさがあるのだろう。
「エド。もう夜なのよ。遊びに行く時間じゃないでしょう? そもそも私たちは、貴方が眠れないから牛乳を作りに来たのよ」
「遊ばないよ。牛乳飲むだけ!」
「その顔は絶対遊ぶつもりでしょう」
「遊ばないもん!」
そう言いながら、エドガーの顔は明らかに楽しそうだった。
アリシアがどうしたものかと考えている横で、ローゼンはエドガーと視線の高さを合わせるように少し身を屈めた。
「だったらエドガーは、今日はこっちの部屋で寝るか?大きくて柔らかい寝台だから、きっとよく眠れるぞ」
「ほんと!?」
「ああ。かなりフカフカだ」
「やったー!フカフカ!」
エドガーが両腕を上げて喜んだ。
アリシアはゆっくりとローゼンへ顔を向ける。
「…………」
無言でじっと見つめる。
ローゼンもアリシアから向けられている視線の意味に気付いたらしい。エドガーへ向けていた笑顔が少しずつ固くなっていった。
「……何だ?」
「随分と手際がいいわね」
「何の話だ」
「エドを味方につけるのがよ」
「そんなつもりはない。眠れないと言うから、寝台を貸そうと思っただけだ」
アリシアは疑わしそうに目を細めたものの、ローゼンが意図的にエドガーを利用しているようにも見えなかった。何より、当のエドガーがすっかりその気になってしまっている。
「ママも行こうよ!フカフカだって!」
「ママは別にフカフカじゃなくても眠れるのよ」
「でも僕は寝れない!」
アリシアは困ったように息を吐いた。
今から自分たちの部屋へ戻ったところで、エドガーがすぐ眠るとは思えない。むしろ、ローゼンの部屋へ行きたいと言い出した以上、気になってさらに眠れなくなる可能性すらある。温かい牛乳を飲ませ、少し落ち着かせてから連れて帰った方がいいかもしれない。
ただ、一つだけ問題があった。
アリシアは改めてローゼンを見る。
「それで?エドを貴方の部屋で寝かせるとして、私はどうするのよ」
「君も来ればいい」
「だから、その言い方!」
「違う!今度は本当にそういう意味ではない!」
ローゼンは慌てて否定すると、今度こそ誤解されないよう慎重に言葉を選んでいるらしく、少し間を置いてから続けた。
「エドガーが寝るまで三人で起きていればいい。牛乳を飲んで、少し話でもしていれば、そのうち眠くなるだろう。寝たら……その、こっそり別々に戻ろう。俺は君に何かするつもりはないし、引き留めるつもりもない」
アリシアはじっとローゼンを見つめた。
そこまで真面目な顔で説明されると、先ほど一人で慌てていた自分の方が恥ずかしくなってくる。
「……別々に戻るって、元々部屋は別でしょう」
「そういう意味じゃない。エドガーを起こさないように、という意味だ」
「分かってるわよ」
アリシアはぷいっと顔を逸らした。
四年前なら、こんなやり取りをする必要すらなかった。アリシアがローゼンの部屋へ遊びに行くことなど珍しくもなく、逆にローゼンがこちらの部屋へ来ることもあった。互いに眠れない夜には、どちらからともなく相手のところへ行き、眠くなるまで話をしたことも一度や二度ではない。
けれど今は、同じことをするだけでも妙に意識してしまう。
その事実が何となく悔しかった。
アリシアが返事を決めかねている間にも、エドガーは期待に満ちた目で母親を見上げていた。右手には温かい牛乳の入ったカップがあり、もう片方の手ではアリシアのガウンを握っている。眠れないとぐずっていた時とは違い、今は完全に元気を取り戻してしまっていた。
「ママ、行こうよ。僕、フカフカで寝たい」
「エドはさっきまでママと一緒じゃないと嫌だって言っていたでしょう?」
「ママも来ればいいよ!」
「簡単に言うわね……」
子どもにとっては何も難しい話ではないのだろう。
父親の部屋へ行って、母親も一緒に牛乳を飲んで、眠くなったら大きな寝台で寝る。ただそれだけの話である。
変に意識しているのは大人二人だけだった。
アリシアはしばらく悩んだ末、大きく息を吐いた。
「……分かったわ。そうさせてもらうわ。ただし、エドが寝るまでよ。それから、この子を興奮させるようなことは禁止。遊び始めたらいつまで経っても寝ないんだから」
「分かった」
「それと、本当に寝たら私は部屋へ戻るからね」
「ああ」
「引き留めても無駄よ」
「分かっている」
ローゼンは何度も素直に頷いた。
それを見て、アリシアは少しだけ拍子抜けする。もっと何か言ってくると思っていたのだが、意外にもあっさりしたものだった。
一方、エドガーは母親の許可が出た瞬間、先ほど以上に嬉しそうな声を上げた。
「やったー!ありがとう、ママ!」
「だから遊びに行くんじゃないのよ。牛乳を飲んで寝るだけだからね」
「分かってる!」
そんな親子のやり取りを見ていたローゼンは、どこか嬉しそうだった。口元に浮かんだ笑みはほんの僅かなものだったが、アリシアには分かる。幼い頃から何度も見てきた、嬉しいことを隠しきれない時の表情だった。
「……何を笑っているのよ」
「いや……三人で部屋へ行くことになるとは思っていなかったから、少し嬉しかっただけだ」
あまりにも素直に言われ、アリシアは言葉に詰まった。
そういうことを平然と言うから困るのだ。
「……早く行くわよ。牛乳が冷めちゃうでしょう」
誤魔化すようにアリシアは盆へ手を伸ばしたが、それより早くローゼンが三人分のカップを載せた盆を持ち上げた。
「これは俺が持つ。君はエドガーと手を繋いでいてくれ」
「別に私が持てるわよ」
「暗い廊下で転ばれたら困る。それに、さっきエドガーが怖がっていただろう」
そう言われてしまえば、アリシアも強くは反論できなかった。エドガーはすでに母親の手を握り、反対側からはローゼンの服の裾まで掴んでいる。
三人で並んで歩き始める。
先ほどまでは不気味に感じられた夜の王宮も、今は不思議と怖くなかった。エドガーも同じらしく、行きとは違って周囲を怖がる様子もなく、時折欠伸をしながら二人の間を歩いている。どうやら温かい牛乳をまだ飲んでもいないのに、ようやく眠気が戻ってきたらしい。
アリシアはそんな息子の手を握りながら、少し前を歩くローゼンの横顔を見た。
そうして三人は、温かい牛乳を片手に、ローゼンの部屋へと向かったのだった。




