15. 寝付けの悪い子どもと深夜の王宮
「ママー。寝れないよぉ〜……」
夜もすっかり更けた頃、隣に置かれた小さな寝台から情けない声が聞こえてきた。眠りかけていたアリシアはゆっくりと目を開き、布団の中から顔だけを出して声のした方へ視線を向ける。王宮へ戻ってきて初めて迎える夜だった。昼間は使用人や騎士たちが絶えず行き交っていた王宮も今は静まり返り、部屋の中には暖炉で薪が弾ける小さな音と、時折窓の外を吹き抜ける風の音だけが聞こえている。厚いカーテンの隙間からは淡い月明かりが差し込み、床へ細長い光を落としていた。
その薄暗い部屋の中、エドガーは寝台の上で何度も寝返りを打っていた。布団を頭まで被ったかと思えば、すぐに顔を出して天井を眺め、右を向いたかと思えば今度は左を向く。ようやく静かになったので眠ったのかと思っても、しばらくすればまたもぞもぞと身体を動かしていた。
「まだ寝てなかったの?」
「寝れないの……」
エドガーは布団から顔だけを出し、しょんぼりとアリシアを見つめる。昼間の元気はどこへ行ったのだろう。庭園では近衛騎士たちを相手に走り回り、木の枝を振り回して剣ごっこをし、ローゼンの背中にまで乗せてもらっていた。夕食もしっかり食べており、寝る支度をしている時には何度も眠そうに目を擦っていたので、寝台へ入ればすぐに眠ってしまうだろうとアリシアは思っていたのである。
「寝れないの?じゃあ、こっちのベッドに来ても良いわよ」
「いいの!やったぁ!」
途端に元気を取り戻したエドガーは、小さな寝台から勢いよく抜け出した。裸足のまま床へ降りようとするので、アリシアは慌てて身体を起こす。
「ちょっと待ちなさい。転んだらどうするの。そんなに急がなくてもママは逃げないわよ」
そう注意されても、エドガーは嬉しそうな顔のまま大きな寝台までやってくる。アリシアが布団を持ち上げてやると、待っていましたとばかりに潜り込み、当然のように母親のすぐ隣まで身体を寄せた。
「これで眠れるでしょう?もうお喋りしないで、ちゃんと目を閉じるのよ」
「はーい。ママ、おやすみー」
「おやすみなさいエド」
アリシアはエドガーの頭にキスをし、肩まで布団を掛け、再び横になった。これなら安心して眠れるだろう。そう思い、自分も目を閉じる。
ところが、しばらくすると布団の中で何かがもぞもぞと動き始めた。エドガーが右へ転がり、左へ転がり、アリシアの腕へ身体をくっつけたかと思えば、今度は仰向けになっている。暑くなったのか布団から片脚だけを出し、しばらくすると寒くなったらしく再び潜り込む。それでも落ち着かないのか、枕の位置まで何度も直し始めた。アリシアはしばらく眠ったふりをしながら様子を見ていたものの、何度目かの寝返りで小さな足が脇腹へ当たったところで、とうとう諦めて目を開けた。
「エド、やっぱり寝れないのね。あれだけ遊んだのに……全く元気な子ね……」
「寝ようとしてるよ?」
「それは分かっているわ。でも、さっきからずっと動いているでしょう。ママまで眠れなくなっちゃったわよ」
少しだけ呆れた声で言うと、エドガーは申し訳なさそうに布団へ顔を半分隠した。叱るつもりはなかったので、アリシアは小さく笑いながら乱れていた髪を撫でてやる。
考えてみれば、眠れないのも仕方のないことなのかもしれなかった。エドガーは元々、楽しいことがあった日ほど興奮が冷めず、寝台へ入ってからもなかなか眠らないことがある。それに今日は、朝まで暮らしていた辺境の村から突然王宮へ連れて来られたのだ。見たこともないほど大きな建物に入り、初めて会う人々に囲まれ、知らなかった父親と出会い、騎士たちと遊び回った。エドガーの性格に加え、慣れない環境という複合的な要因が重なっているのだろう。
村の家なら、夜になっても完全な静寂にはならなかった。風が吹けば古い窓枠が鳴り、外から犬の鳴き声が聞こえ、時には近所の家から話し声まで届いてきた。何より、天井も壁も寝台も、生まれた頃から見慣れたものばかりだった。それに比べて王宮は広すぎる。昼間はあれほど楽しそうに探検していたエドガーも、灯りが落ちて静まり返れば心細くなるのかもしれない。
「もしかして、ちょっと怖い?」
アリシアが優しく尋ねると、エドガーは最初こそ「怖くないよ」と首を横へ振ったものの、少し考えたあとで小さな声を漏らした。
「……ちょっとだけ。でもママがいるから大丈夫」
「そう。だったら今日は一緒に寝ましょう。ママはどこにも行かないから、安心して目を閉じなさい」
エドガーは嬉しそうに頷き、アリシアの腕へ頬を寄せた。今度こそ眠るだろうと思い、アリシアもその身体を軽く抱き寄せる。しばらく静かな時間が続いた。暖炉の薪がぱちりと音を立て、エドガーの呼吸も少しずつゆっくりになっていく。
――ようやく眠ったかしら。
そう思った矢先、腕の中から小さな声が聞こえた。
「ママ、まだ起きてる?」
「……起きてるわよ。エドが起きているからね」
「僕、ぜんぜん眠くない」
「さっきまで眠そうだったじゃない……」
アリシアはとうとう上半身を起こした。このまま寝台の上で転がしていても、すぐに眠れそうにはない。それどころか、自分まで完全に目が覚めてしまった。
「全く……分かったわ。おいで、エド。下の階で温かいものでも作ってくるわ。温かい牛乳でも飲めば、少しは落ち着くでしょう」
「僕も行く!」
「エドはここで待っていてもいいのよ。すぐに戻ってくるから」
アリシアが寝台から降り、寝間着の上へ厚手のガウンを羽織ろうとした瞬間、後ろから服の裾をぎゅっと掴まれた。振り返れば、エドガーが寝台の端に座ったまま、絶対に離さないと言わんばかりに布を握っている。
「僕も行く……一人で待ってるのやだ」
昼間なら「行く!」と真っ先に飛び出していくところだが、今の声には少しだけ不安が滲んでいた。それを聞けば、無理に一人で待たせる気にもなれない。アリシアはやれやれとした顔を浮かべながらエドガーにも上着を着せ、室内履きを履かせた。
「分かったわ。その代わり、廊下では走らないこと。それからママの手を離さないこと。守れる?」
「守れる!」
「本当かしら。昼間は何度も一人で走っていったじゃない」
「夜は走らないもん」
「それならいいけど」
小さな手を握り、アリシアはそっと扉を開いた。
昼間とはまるで違う王宮の姿がそこにあった。長い廊下には等間隔で小さな灯りが置かれているものの、昼間の明るさには程遠い。壁へ飾られた絵画や甲冑は灯りを受けて長い影を作り、窓の向こうには真っ暗な庭園が広がっている。昼間なら侍女や従者が絶えず行き交っている場所なのに、今は人の姿どころか話し声さえ聞こえない。
アリシアは少しだけ懐かしい気持ちになった。幼い頃にも、こうして夜の王宮を歩いたことが何度もある。もっとも、そのほとんどは使用人に見つからないようローゼンと二人でこっそり部屋を抜け出した時のものだった。二人で王宮の隅々まで探検したおかげで、アリシアは今でも建物の構造をかなり細かく覚えている。
目的地である厨房は一階にあった。そこへ行けば牛乳くらい残っているはずである。どこに保管されているのかまで、おそらく昔と大きく変わってはいないだろう。
「ママ、どこ行くの?」
「一階の厨房よ。昔からある場所だから、ちゃんと覚えているわ」
「どうして覚えているの?」
「昔ね。エドくらいの頃から何度も遊びに来ていたのよ。それで王宮の中を探検して、厨房にもよく忍び込んだわ。お菓子を探していたら料理長に見つかって、何度叱られたことか」
「ママも悪いことしてたの?」
「……そこだけ聞くと否定できないわね。でも、エドは真似しちゃ駄目よ」
小声で話しながら廊下を進んでいく。最初は母親の話を面白そうに聞いていたエドガーだったが、階段へ近付くにつれて少しずつ歩みが遅くなっていった。階下は廊下よりも暗く見える。昼間なら一人でも平気で駆け下りていた階段なのに、今はアリシアの手を握る力が明らかに強くなっていた。
「どうしたの?さっきまで平気そうだったじゃない」
「……暗いよ」
「灯りはあるでしょう。ほら、足元だってちゃんと見えるわよ」
「でも暗いもん……」
エドガーはアリシアへ身体をぴったり寄せると、とうとうガウンへ顔を押し付けるようにして歩き始めた。前が見えないから危ないと注意しても、離れようとしない。仕方なくアリシアは片手でエドガーの肩を抱くようにしながら、一段ずつゆっくりと階段を下りていった。
コツ、コツ、と二人分の足音が静かな王宮へ響く。
アリシア自身は怖くないつもりだった。幼い頃にはもっと暗い時間帯に王宮を歩き回ったこともあるし、勝手知ったる場所でもある。それなのに、大人になった今の方が余計なことを考えてしまうらしい。壁際に置かれた甲冑が人影のように見えたり、風でカーテンが揺れただけで何かが動いたように感じたりする。
「……夜の王宮って、こんなに不気味だったかしら」
思わず呟いたところで、一階の方から小さな物音が聞こえた。
アリシアの足がぴたりと止まる。それに気付いたエドガーも立ち止まり、さらに強く服へしがみついた。何かを置いたような音だった気がする。もちろん王宮なのだから、夜番の使用人や衛兵がいても何ら不思議ではない。厨房なら料理人が残っている可能性だってある。それでも、これほど静まり返った中で突然物音を聞けば、どうしても身構えてしまう。
「ママ……誰かいるよ」
「だ、大丈夫よ。王宮なんだから、夜中に働いている人くらいいるわ。きっと使用人か衛兵よ」
エドガーを安心させるために言ったものの、アリシア自身の声も僅かに強張っていた。
もう一度、物音がした。
今度は先ほどより近い。誰かが歩いているようにも聞こえる。
さすがのアリシアも少しだけ怖くなり、エドガーの手を握り直した。ここまで来て部屋へ引き返すのも癪だが、だからといって何者なのか分からない相手へ堂々と近付いていく勇気もない。そもそも自分は温かい牛乳を作りに来ただけなのに、どうしてこんな気持ちにならなければならないのだろう。
「エド、ママから離れちゃ駄目よ。誰かいるみたいだから、静かに下りましょう。たぶん何でもないと思うけど、一応ね」
エドガーは何度も頷き、今度はアリシアのガウンへ半分埋もれるように身体を寄せた。そんな息子を連れ、アリシアは残りの階段を慎重に下りていく。階段の先にある角を曲がれば、一階の広間が見える。そこまで来たところで、アリシアは一度足を止め、壁から恐る恐る顔を覗かせた。
薄暗い広間の向こうに、人影があった。
背の高い男だった。
こちらへ背を向けているため顔までは分からない。けれど、夜中の誰もいないはずの広間に男が一人で立っているというだけで十分に不気味だった。エドガーも人影を見つけたらしく、声を出しそうになりながらアリシアの服へしがみつく。
アリシアは咄嗟にエドガーを自分の後ろへ隠した。
その時、人影が動いた。
こちらの気配に気付いたのか、男がゆっくりと振り返る。
アリシアは思わず息を止めた。しかし、壁際の灯りがその人物の顔を照らした瞬間、恐怖は一気に別の感情へ変わる。
「……アリシア?こんな時間にどうしたんだ。エドガーまで一緒じゃないか」
聞き慣れた声だった。
そこにいたのは不審者でも、夜の王宮を徘徊する怪しい人物でもない。アリシアが今日だけでも何度その顔を見たか分からない男だった。
「ローゼン……?貴方こそ、こんな夜中に何をしているのよ」
思わず気が抜け、アリシアは胸元へ手を当てながら大きく息を吐いた。
夜も更けた王宮の一階にいたのは、ローゼンだったのである。




