12. 変わらない部屋
王宮の長い廊下を歩き、従者に案内された先で、アリシアは足を止めた。見覚えのある扉だった。取っ手の形も、扉の中央に施された草花の彫刻も、記憶にあるものと少しも変わっていない。
「こちらがお部屋でございます」
従者が扉を開ける。促されるまま室内へ一歩足を踏み入れたアリシアは、目の前に広がる光景を見て、思わず足を止めた。
「……変わってない」
窓際に置かれた机も、壁際を埋める本棚も、小さな丸テーブルを挟むように並べられた二脚の椅子も、四年前とほとんど同じ場所にあった。暖炉の上には白い花瓶が飾られ、机の端には羽根ペンと便箋まで用意されている。最後にこの部屋を使った日のまま、時間だけが止められていたようだった。
唯一違っていたのは、大きな寝台の隣に、子ども用の小さな寝台が置かれていることだった。白い木枠には星と月の彫刻が施され、柔らかそうな毛布と小さな枕が揃えられている。枕元には木彫りの馬や布で作られた動物まで並んでおり、誰のために用意されたものなのかは聞くまでもなかった。
「これ、ぼくの?」
アリシアの後ろから部屋へ入ってきたエドガーが、早速小さな寝台へ駆け寄った。両手を縁へ掛けて中を覗き込み、置かれていた木彫りの馬を取り上げる。
「そうみたいね。随分と立派なものを用意してもらったわね」
「おっきいおふとんで、ママと寝る!」
「自分の寝台があるでしょう?」
「でも、知らないお部屋だもん」
もっともらしい理由を口にしているが、単に大きな寝台で眠りたいだけなのだろう。アリシアが苦笑しながら頭を撫でると、エドガーは木彫りの馬を持ったまま、大きな寝台へも興味深そうな視線を向けていた。
「アリシア様がお使いになっていた頃と、ほとんど同じ状態で整えております。エドガー様に必要な家具だけ、新たにご用意いたしました」
従者の説明を聞きながら、アリシアは改めて室内を見回した。家具だけではない。机の上に置かれた小さな置き時計も、窓辺の長椅子へ敷かれた刺繍入りの布も、以前使っていたものと同じである。壁際には、幼い頃に気に入っていた風景画まで掛けられていた。
「この部屋、四年間ずっと空いていたの?」
「左様でございます。清掃と換気は毎日行っておりましたが、別の方がお使いになったことは一度もございません」
「ローゼンが、そうしろと言ったの?」
何気なく尋ねると、従者はわずかに口元を緩めた。
「ご命令があったわけではございませんが、誰かの部屋として直そうとするたび、ローゼン様がよい顔をなさいませんでしたので、誰も触れなくなりました」
「何よ、それ……」
アリシアは呆れたように呟いたが、胸の奥が僅かに温かくなるのを感じていた。自分を追い出したくせに、部屋だけは残していた。どういう気持ちでそうしたのかは分からない。それでも、何もかも捨てられていたわけではないと知ると、簡単には無視できない感情が込み上げてくる。
「ローゼン様のお部屋も、以前とほとんど変わっておりません。もともと家具の配置には強いこだわりをお持ちで、一度決めたものを動かすことをあまり好まれませんので」
「そうだったかしら?」
「少なくとも、アリシア様がお使いだったお部屋との距離については、変えるおつもりがなかったようでございます」
その言い方がどこか意味ありげに聞こえ、アリシアは従者の顔を見た。しかし相手は何も知らないような顔で、運び込まれた荷物の確認を続けている。
つまり、自分の部屋とローゼンの部屋は、昔と変わらず三つ隣にあるということだった。廊下へ出ればすぐに行き来できる距離である。幼い頃は何かあるたびに互いの部屋を訪ね、侍女たちから何度も注意されていたものだ。
「お荷物はこちらへまとめてございます。村のご自宅に残されている品につきましても、必要なものがあれば後日お運びいたします」
「村の家は、そのままにしておいて。勝手に全部持ってこないでちょうだい」
アリシアが念を押すと、従者は真面目な顔で頷いた。
「承知しております。ローゼン様からも、アリシア様の許可なく家の中へ立ち入らないよう、厳命されております」
「強引に連れてきたくせに、そういうところだけは妙に律儀なのね」
思わず皮肉が漏れたものの、村の家が勝手に片付けられていないと知り、アリシアは少しだけ安堵した。あの家にはエドガーと過ごした日々が詰まっている。王宮へ連れてこられたからといって、簡単に手放すことなどできなかった。
「あの、一つ聞いてもいいかしら」
「何なりとお申し付けください」
「村の方は大丈夫なの?あまりにも突然だったから、皆へきちんと事情を話すこともできなかったの。エドガーも仲良くしていた子たちへ何も言えなかったし……」
アリシアが気に掛けていたのは、自分たちが去った後の村だった。国王が突然訪れ、村の薬師と幼い息子を連れ去ったのである。村人たちは事情をほとんど知らず、不安に思っているに違いない。自分がいなくなれば、薬を必要とする者たちも困るだろう。
従者は安心させるように柔らかく微笑んだ。
「村長には、アリシア様とエドガー様が王宮で安全にお過ごしであることをお伝えしております。お二人からのお手紙も、村から届くお手紙も、滞りなく行き来できるよう手配いたしました。それから、薬につきましては王宮から薬師を数名派遣する予定でございます。流行病への対応も含め、必要な支援は継続いたしますので、ご安心ください」
「そこまでしてくれたの?」
「ローゼン様が、真っ先にお命じになりました」
その名を聞き、アリシアは複雑そうに唇を尖らせた。強引に連れ出されたことへの怒りは消えていない。だが、自分が何より心配することを予想し、先回りして手配したらしい。
「それに、村へは褒賞金をお贈りすることも決まっております。アリシア様とエドガー様を長く支え、流行病の収束にも尽力した功績への褒賞でございます」
アリシアは額へ手を当て、深いため息をついた。薬師や助産師、村長や狩人、畑仕事を助けてくれた老人たち。エドガーの面倒を見てくれた近所の人々や、一緒に遊んでくれた子どもたちまで、ローゼンは一人ひとりについて報告を求めていたらしい。
自分と息子を守ってくれた者たちへ、できる限りの恩返しをしたいのだろう。その徹底ぶりは、昔から変わらない。アリシアが一度でも世話になったと言えば、相手へ必ず礼をしなければ気が済まない人だった。
「本当に、変なところだけは昔のままなんだから」
呆れながら呟くと、従者は穏やかに微笑んだ。
「それでは、何かございましたら、廊下に控えている者へお声掛けください。お食事につきましては、エドガー様のお好みを伺ってからご用意いたします」
「ありがとう。いろいろ聞いてしまってごめんなさい」
「とんでもないことでございます。アリシア様がお戻りになったことを、王宮の者たちは心から喜んでおります」
「戻ると決めたわけじゃないけれどね」
すかさず付け加えると、従者は困ったように笑うだけで否定しなかった。深く一礼し、静かに部屋を後にする。扉が閉まると、室内にはアリシアとエドガーだけが残された。
先ほどまで寝台を調べていたエドガーは、今度は窓辺の長椅子へ上り、庭園を見下ろしていた。
「ママ!お庭におっきいお水があるよ!」
「噴水よ。落ちたら危ないから、勝手に近づいちゃ駄目だからね」
「落ちないよー」
アリシアはエドガーに念を押してから、本棚へ歩み寄った。並べられた本の背表紙を何気なく目で追っていると、その中に見覚えのあるものが幾つも交じっていることに気付く。
「……あっ」
幼い頃、王宮の図書室で何度も読んだ植物図鑑や、ローゼンの部屋へ持ち込んで一緒に眺めた物語集だった。どれも最後には図書室へ返したはずである。それなのに、なぜか今は自分の部屋の本棚へ並べられている。抜き取って表紙を開けば、頁の端には幼い自分が付けた小さな折り目まで残っていた。
「本当に変なところだけはマメなんだから……」
ローゼンが用意させたのだろう。図書室から勝手に本を持ち出したことを叱っていたくせに、今度は自ら同じ本を部屋へ集めている。その矛盾が可笑しく、アリシアは小さく笑った。
忘れたつもりになっていた思い出が、この部屋へ戻っただけで次々と蘇ってくる。
「ママ、これ見て!」
エドガーの元気な声に振り向くと、今度は大きな寝台へ上り、両腕を広げて立っていた。
「ふかふか!お家のよりすごいよ!」
「飛び跳ねちゃ駄目よ。壊したら大変なんだから」
そう言った直後に勢いよく跳ね、足を滑らせて毛布の上へ転がる。幸い柔らかな寝台のため怪我はなく、本人は楽しそうに笑っていた。
「もう……誰に似たのかしら」
口にしてから、自分以外に考えられないことへ気付き、アリシアは苦笑した。幼い頃の自分も、初めて見る場所があればじっとしていられなかった。王宮の使われていない部屋へ忍び込み、庭園の奥まで探検し、何度侍女たちを困らせたか分からない。
エドガーは寝台を降りると、次は本棚の周囲を歩き、丸テーブルの下まで覗き込む。完全に探検するつもりらしい。
「ママ、このお部屋に住んでたの?」
「ええ。ずっと昔だけれどね」
「ぼくがいない時?」
「そうよ。エドが生まれるより、もっと前よ」
「おじさんもいた?」
おじさんとはローゼンのことだろう。アリシアは少し迷ってから頷いた。
「三つ隣のお部屋に住んでいたわ」
「みっつとなり?」
エドガーは何かを思いついたように目を輝かせ、扉へ向かって駆け出した。
「ちょっと、どこへ行くの!」
「おじさんのお部屋!」
「待ちなさいエド!」
止める間もなく扉を開け、廊下へ飛び出してしまう。小さな足音が遠ざかっていき、廊下に控えていた侍女が慌てて追いかける声が聞こえた。
「……もう」
アリシアは追いかけようとして扉へ向かったが、廊下の先から「陛下のお部屋はこちらですよ」と穏やかに案内する声が聞こえたため、ひとまず足を止めた。ローゼンの部屋へ行ったところで、本人がいなければすぐに戻ってくるだろう。いたとしても、今さら息子を追い返すようなことはしないはずだ。
一人になったアリシアは窓際へ歩み寄り、厚いカーテンを開いた。窓からは庭園の噴水と、その向こうに広がる王都の屋根が見える。昔、何度も眺めた景色だった。窓の取っ手へ手を掛けて開くと、冷たい風が部屋へ流れ込み、長い髪を揺らした。
その時、窓の外側へ細い影が伸びていることに気付く。
「……まだ残ってる」
外壁へ沿うように取り付けられた、細い横梯子だった。窓と窓の間を繋ぐように伸び、その先は三つ隣にあるローゼンの部屋へ続いている。幼い頃、二人でこっそり作らせた秘密の通路だった。正確には、使用されていない窓の清掃用に設けられていた足場を見つけ、勝手に梯子を足して通れるようにしたものである。
二人の部屋の間には鍵の掛かった空き部屋が二つあったため、夜中に廊下を歩けば必ず使用人に見つかってしまう。そこでアリシアが、この梯子を使えば窓から行けると言い出したのだ。最初は危険だと反対していたローゼンも、結局は一緒になって足場を補強し、二人だけの抜け道が完成した。
夜になると侍女の目を盗み、この梯子を渡って何度もローゼンの部屋へ遊びに行った。彼が熱を出して寝込んだ時には、果物と勝手に調合した薬を持って見舞いへ行き、眠れないと言われれば同じ寝台へ腰掛けて本を読んだ。政務の勉強に疲れている時は、菓子を持ち込んで朝まで話し込んだこともある。
「あの頃は、お見舞いって言いながら、ほとんど夜這いみたいなことをしていたのよね」
今になって思えば、随分と大胆なことをしていた。侍女たちに見つかれば大騒ぎになっていただろう。それでも当時は、ローゼンのそばへ行くことに何の迷いもなかった。
細い梯子へ積もった僅かな埃を指で拭いながら、アリシアはその先にある窓を見つめた。
「ふふっ……本当に、何も変わってないのね」
思わず小さな笑みが零れた、その時だった。
梯子の先にある窓が、内側からゆっくりと開いた。
現れたローゼンは、窓辺に立つアリシアを見つけると、驚いたように目を見開く。その腕には、すっかり懐いた様子のエドガーが抱きついていた。
「ママー!こっちのお部屋もすごいよ!」
嬉しそうな声が外壁の間へ響く。
アリシアは懐かしい抜け道を挟み、四年ぶりにローゼンと向かい合ったのだった。




