11. 騎士団と先王の後妃
【重要回】です
その日の王宮は、かつてないほどの騒ぎに包まれていた。廊下を行き交う騎士や侍女たちは足を止め、仕事の合間には決まって同じ話題を囁き合う。普段であれば静けさに包まれている回廊も、今日ばかりは落ち着きを失っていた。誰もが声を潜めているにもかかわらず、その噂は瞬く間に王宮中へ広がっていく。
「聞いたか?」
「国王陛下が女性を連れて戻られたそうだ」
「女性じゃないわ。アリシア様よ」
侍女たちは手にしていた籠を抱えたまま顔を見合わせた。四年前、王宮から姿を消した女性の名が再び王宮中で囁かれる日が来るとは、誰も想像していなかったのである。
「でも、お二人は離縁されたのでは……?」
「そう聞いていたわ。でも、正門で迎えた人が確かに見たって」
「しかも、お子様までご一緒だったとか……」
その一言で周囲の空気が変わる。侍女たちは思わず息を呑み、誰ともなく互いの顔を見つめた。
「お子様?」
「四歳くらいの男の子らしいわ」
「まさか……」
その先を口にする者はいなかった。しかし誰もが同じことを考えていた。もし、その子どもが国王の血を引く存在ならば、王宮の勢力図は大きく変わる可能性がある。今まで静かだった王位継承の問題が、一気に動き出すかもしれないのだ。
◇
「隊長、本当に見たんですか?」
若い騎士の問い掛けに、王と同行した隊長は苦笑しながら頷いた。
「うん。本当に見たよ」
「やっぱりアリシア様だったんですね」
「間違いないよ。四年経って雰囲気は少し変わっていたけど、あの方だった」
「じゃあ、お子様も……」
「いたよ。元気いっぱいの男の子だった」
「隊長、随分仲良くなってません?」
「少しだけ手を繋いで歩いただけだよ」
照れたように頭を掻く姿に、周囲から小さな笑いが漏れる。
「でも……その、お姫様抱っこの話も本当なんですか?」
別の騎士がおそるおそる尋ねると、隊長は「ああ」と頷いた。
「ああ、本当だ。でも、ローゼン様にそんな事を言ったらダメだからね?」
「止めなかったんですか?」
「止めようかなとは思ったんだけどね」
隊長は困ったように笑う。
「でも、陛下も真剣だったし、アリシア様も大騒ぎだったし……あの空気に飛び込んでいく勇気は私にはなかったな」
「隊長でもですか?」
「私だって空気くらい読むよ」
その返事に騎士たちは思わず吹き出した。
和やかな空気が流れる。
「……でも、その子が本当に陛下のお子様なら」
誰かがぽつりと呟く。
隊長の表情から笑みが消えた。
「そうだね。そうなると、笑い話では済まなくなる」
鍛錬場にいた騎士たちの表情が引き締まる。
王宮で生きる者なら誰もが知っている。
ローゼンが王となってから表向きは平穏を保っているとはいえ、水面下では今なお様々な思惑が渦巻いていることを。
「王太子選定に影響しますね」
「とは言っても選ぶのにはちょっと早い気もするけど……」
「とは言え、陛下の子かどうかを確かめかければならないので、どちらにせよです」
隊長が胡座をかく。
「確かに、オリーファ様も黙ってはいないでしょうね」
その言葉に部屋は静まり返る。
誰もそれ以上は口にしなかった。
王宮は穏やかに見えて、その実、多くの思惑が複雑に絡み合う場所である。その均衡を崩しかねない人物が、今日この王宮へ戻ってきたのだ。
◇
その頃、王宮の奥深くにある豪奢な一室では、一人の女性が静かに紅茶を口へ運んでいた。磨き上げられた調度品に囲まれた部屋は驚くほど静かで、王宮中を駆け巡る喧騒がまるで別世界の出来事のようだった。陽光を受けた金色の髪が静かに揺れ、女性はゆっくりとカップを受け皿へ戻す。
「それで?」
その一言だけで控えていた従者たちの背筋がぴんと伸びる。
「どういうことか、説明してちょうだい」
跪いていた従者は深く頭を下げると、震えを押し隠すように息を整えた。目の前に座る女性は、後妃オリーファ・クライゼン。先王が正妃を亡くした後、失意の中、迎えた妃であり、先王の存命中は王宮内でも絶大な影響力を誇っていた女性である。先王との間には一人の幼い王子がおり、ローゼンが即位した今なお、彼女を支持する貴族は決して少なくなかった。
「本日、国王陛下がお連れになった女性は、アリシア・レインフォート様で間違いございません。そして、そのお傍には四歳ほどの男児がおりました」
報告を聞いても、オリーファはすぐには口を開かなかった。白く細い指先でティーカップをゆっくりと持ち上げ、一口だけ紅茶を含む。その優雅な仕草は、まるで興味のない話を聞いているようにさえ見えた。
「子ども?アリシアに?」
「そのようでございます」
従者が答えると、オリーファは小さく目を細めた。
「そんな話は初耳ね」
「王宮中でも同じ反応でございます。現在、そのお子様について様々な噂が広まっております。もし、その子がローゼン陛下のお子様であれば――」
ガシャンッ!!
鋭い破砕音が部屋中へ響き渡った。
机の上に置かれていた花瓶が勢いよく床へ叩きつけられ、砕け散った陶器の破片が絨毯の上へ飛び散る。花は無残に転がり、水がゆっくりと赤い絨毯へ染み込んでいった。
従者は顔色を失い、その場へ額が床へ付くほど深く頭を下げる。
「も、申し訳ございません!」
「黙りなさい!!」
オリーファは冷え切った瞳で従者を見下ろす。
「私の前で、何を口にしているのかしら」
「し、失礼いたしました……!」
部屋には、割れた花瓶から滴る水音だけが静かに響いていた。
やがてオリーファは小さく息を吐くと、再び背もたれへ身体を預けた。
「……まあいいわ。どうせ、すぐに分かるもの。あの子が、ローゼンの子ではないということが」
彼女には確かな自信があった。
ローゼンとアリシアが別れた時期。そして、あの子どもの年齢。僅かな違いではあるが、オリーファの中ではそれが分かっていた。初夜から逆算した年齢が合ってないのである。婚約者同士とはいえ、正式な婚姻前に子を授かるなどありえない。だからこそ、間違いなどあるはずがないのだ。
「あの娘は、他の男との子なのでしょう」
くすり、と笑う。
「それを知らずに連れ帰ってきたのだとしたら、ローゼンも随分と愚かなことをしたものね」
オリーファは優雅に足を組み替えた。
「もっとも、その事実が明らかになれば、あの娘が再び王妃となることはないでしょう。まして、その子が王太子になるなど論外よ」
その言葉には一切の迷いがなかった。
王宮には体面がある。王妃となる女性が他の男との子であるという話を、貴族たちが受け入れるはずがない。オリーファはそう確信していた。
「さて……どんな結末になるのかしらね」
その唇がゆっくりと弧を描く。
誰にも聞こえないほど小さな呟きだけが、静かな部屋へ溶けていった。




