109. 北部の裏事情
北部の冷たい風が吹き抜け、アリシアはエレナを包んでいる布がずれていないことを確かめた。目の前には警備隊が使う建物や厩舎が並び、出入りする兵士たちの姿も見える。王宮とは違って飾り気のない場所だったが、街道に近い拠点らしく、門の外では何台もの荷馬車が行き交っていた。
「王妃陛下。北部警備隊長を務めております、アルノー・ベルクと申します」
男はアリシアの前で深く頭を下げた。四十歳ほどに見える顔には北部の寒さに晒されてきた跡があり、厚手の外套の下には警備隊の制服を着ている。顔を上げたアルノーはアリシアの腕にいるエレナへ一瞬だけ目を向け、王女まで同行していることには驚いた様子を見せた。
「アリシア・クライゼンです。急に訪ねることになってごめんなさい」
「いえ。王妃陛下がお越しになることは聞いておりました。こちらへどうぞ」
案内されたのは、拠点の二階にある応接室だった。大きな窓からは門と街道の一部を見渡すことができ、部屋の中央には来客用の長椅子と低い机が置かれている。暖炉にはすでに火が入っており、外の冷気から離れたことで、アリシアの腕の中にいたエレナも身体から力を抜いた。
アリシアは長椅子へ腰を下ろし、向かいに座ったアルノーを見る。ここまで来た理由をすぐに話すこともできたが、その前に聞いておきたいことがあった。
「最近の北部はどうかしら?」
あまりにも広い質問だったのか、アルノーは一度考えるように間を置いた。アリシアが以前この地方で暮らしていたことは彼も知っているらしく、昔からの説明を始めることはなかった。
「以前より人の出入りが増えております。街道が整えられてからは王都方面との往来だけでなく、東西の町から来る商人も増えました。かつては地元の者が使うことの多かった道を、荷馬車が通ることも珍しくありません」
「前に来た時にも、随分変わったと思ったわ。昔は商人が来るだけで、村のみんなが今日は何が買えるのかって見に行っていたくらいだったもの」
アリシアが北部で暮らしていた頃、商人の馬車が何台も続いて街道を通る光景などほとんどなかった。今では王都へ帰る道中だけでも多くの馬車とすれ違い、かつて暮らした村にも新しい店や建物が増えている。発展していること自体は、アリシアにとって喜ばしい変化だった。
「人が増えたなら、あなたたちの仕事も増えたでしょう?」
「増えました。警備隊の人員も以前より増やされていますが、担当する仕事も広がっています。街道の巡回だけでなく、町や村からの要請への対応、商人同士の争い、荷物の盗難などもあります。これから冬が近づけば、雪への備えも必要になります」
アルノーは大変さを訴えるような話し方はせず、普段行っている仕事を順番に挙げていった。アリシアは聞きながら、エレナの背中へ添えていた手をゆっくり動かす。北部が豊かになれば、それまで存在しなかった問題も増える。人や商品が集まる場所になった以上、以前と同じ警備体制で足りなくなるのは当然だった。
「薬についても聞いていい?」
話題を変えると、アルノーの表情が引き締まった。
「私がこの辺りで薬師をしていた頃に作っていた薬だと言って、別のものを売っている人がいるそうね」
「把握しております。すでに体調を崩した者も出ていますので、こちらでも調査を始めています」
「どんな調査をしているの?」
「販売していた商人を確認し、どこから仕入れたのかを辿っています。複数の場所で売られているため、一人だけではない可能性も考えております」
アリシアは少し考えながら、窓の外へ目を向けた。門の向こうでは荷物を積んだ馬車が一台通り過ぎ、その後ろから別の馬車が近づいている。ここへ来る途中にも同じ光景を何度も見ており、北部へ運ばれてくる商品の多さは以前とは比べられなかった。
「その人たちを見つけたら、終わりなのかしら?」
アルノーが答えずにアリシアを見る。彼女自身もまだ答えを持っていなかった。今回の薬を作った者や売った者を見つけることは必要でも、それで次に似た商品が入ってこなくなるわけではない。
「今回見つかったのが薬だったから、私にも危険性が分かるわ。でも、次も薬とは限らないでしょう? 食べ物かもしれないし、別の商品かもしれない。誰かが被害を受けてから売った人を探すことを繰り返すだけでは、同じことが起きると思うの」
「王妃陛下は、北部へ入ってくる荷物そのものを確認したいとお考えですか?」
「できるのならね。でも、簡単じゃないでしょう?」
アルノーは短く頷いた。窓の外を一台の荷馬車が横切り、積み上げられた木箱が視界の端を流れていく。彼はその馬車を見てから、再びアリシアへ向き直った。
「北部へ入るすべての荷物を確認するのは、現在の人員では不可能です。主要な道では荷物を確認することもありますが、一つ一つを細かく調べれば馬車が滞ります。北部へ入る道も一つではありません」
「やっぱりそうよね」
王宮で報告を読んだ時から、兵士を増やして荷物をすべて調べれば済むとは考えていなかった。北部で暮らす人々の生活を支えているのも、街道を行き交う多くの商品である。危険なものを防ぐために必要なものまで届かなくなれば、別の問題が生まれてしまう。
「大変なのは分かっている。けど、今のままでいいとも思えないの」
「我々も同じ問題は感じています。荷物が増える速さに、確認する側が追いついていない部分はあります」
アルノーが率直に認めたことで、アリシアは少しだけ表情を和らげた。警備隊の失敗を探しに来たわけではない。北部が急速に変わったことで生まれた問題なら、現場で働いている者と一緒に考える方がいい。
腕の中でエレナが小さく身体を動かした。眠っていた目を開けた娘は母親を見上げ、服を掴んだまま口元を動かしている。アリシアはエレナの頬へ手を添えながら、もう一度窓の向こうの街道を見た。
「アルノー。明日、あなたたちの仕事を見せてもらってもいい?」
「我々の仕事を、ですか?」
「ええ。実際に荷物をどう確認しているのかも、見てみたいの。大丈夫かしら?」
アルノーは少し驚いた様子を見せたあと、姿勢を正して頷いた。王妃が北部まで来た理由を、ようやく理解したのかもしれない。
「問題ありませんよ。明朝、こちらでご案内いたします」
「ありがとう。よろしくね」




