105. 王女を離れた妹、王女でいる姉
最初の協議を終えた翌日の午後、王宮には柔らかな陽射しが差し込んでいた。次の話し合いに向けて両国が資料を整理する時間が設けられており、使節団にも公式の予定は入っていない。朝から執務室で仕事をしていたアリシアは、昼食を終えて残りの書類へ目を通していたところで、ミレイユからアリスが王宮へ到着したことを知らされた。
アリスが王宮を訪れること自体は珍しくなかった。結婚してからも二人の付き合いは変わっておらず、互いに時間が合えば顔を合わせている。今日の訪問が普段と違うのは、アリスがこの国へ来てから長く離れて暮らしていた姉が、使節団の代表として同じ王宮に滞在していることだった。
「アリス様はもう応接室でお待ちです。セレスティア王女にもお伝えしてありますので、間もなくいらっしゃるかと」
「分かったわ。私も行きましょう」
アリシアは机の上に残っていた書類を揃え、椅子から立ち上がった。窓の外では庭園の木々が秋の色へ変わり始め、午後の風を受けた枝がゆっくり揺れている。北部から戻った時にはまだ残っていた旅の疲れも消え、王宮にはいつもの日常が戻っていた。
案内された小さな応接室では、アリスが窓際の椅子に腰掛けていた。卓上には茶器と焼き菓子が用意されているものの、茶にはまだほとんど手をつけていない。アリシアが入ってきた時にも扉の向こうへ視線を向けており、久しぶりに姉と会える時間を待ちかねていることは聞かなくても分かった。
「随分早く来たのね。約束の時間にはまだ少しあるわよ」
「家にいても落ち着かなかったのよ。お姉様が来ると聞いて早く来てしまったの」
アリスは目の前の茶へ手を伸ばした。昔から思い立ったらすぐに動く女性だとは知っていたため、アリシアもそれ以上は何も言わず向かいの椅子へ腰を下ろす。昨夜セレスティアから聞いた妹の話を思い返せば、幼い頃から変わっていないのだろう。
ほどなくして廊下から複数の足音が近づき、扉の前で止まった。案内役が開けた扉の向こうからセレスティアが姿を見せると、アリスはすぐに椅子から立ち上がる。セレスティアも妹を見つけた途端、使節団の代表として公の場に立っている時より表情を柔らかくした。
「お姉様、久しぶりね。ずっと会いたかったわ」
「久しぶりね、アリス。元気そうで安心したわ」
アリスは姉のそばまで歩み寄り、久しぶりに見る顔を確かめるように眺めていた。セレスティアも妹の姿を見渡してから満足そうに頷き、二人は揃って卓へ戻る。ミレイユがセレスティアの分の茶を用意し、新しい焼き菓子と果物を置いて退室すると、広すぎない応接室には三人だけが残された。
窓から差し込む午後の光が卓上を照らし、磨かれた茶器の縁に淡く反射している。昨日までの晩餐会や会議室では常に双方の文官や侍従が控えていたため、同じ王宮の中でも今は随分静かに感じられた。
「お父様とお母様はお元気?手紙では聞いているけれど、最近のことも教えてほしいわ」
「二人とも変わりないわ。あなたから手紙が届くと喜んでいるし、今回こちらへ来ることが決まった時にも、あなたの様子を見てきてほしいと言われたのよ」
アリスは安心したように笑い、それから母国に残る家族について尋ねていった。姉妹たちが今は何をしているのか、以前から王宮に仕えていた者たちは変わらず元気なのか。セレスティアが答えるうちに、幼い頃によく歩いた庭園や姉妹で過ごした部屋の話まで広がり、アリスは懐かしそうに耳を傾けていた。
アリシアは二人の会話を聞きながら、昨夜とは違うセレスティアの姿を眺めていた。妹の話を聞く時には自然に目元が和らぎ、昔の出来事を思い出した時には笑みも見せる。王女としての落ち着いた振る舞いそのものは変わらなくても、妹と二人で育った年月が感じられる表情だった。
「あなたはどうなの?こちらでの暮らしで困っていることはない?」
「大丈夫よ。ノアも元気にしているわ。今日は仕事だから来られなかったけれど、今度は一緒に会えるようにするわね」
「ええ。私も一度、ゆっくりお話ししてみたいわ」
セレスティアは妹が選んだ相手を値踏みするような態度を見せず、家族になった人間と会ってみたいという自然な調子で答えた。アリスも嬉しそうに頷き、それ以上ノアの話を続けることなく茶へ手を伸ばす。現在の暮らしについて詳しく説明しなくても、妹の様子を見ればセレスティアには十分伝わっているようだった。
アリスが第四王女としてこの国へやって来た頃、母国から期待されていたのはローゼンとの婚姻だった。それがノアと出会い、自分の望む相手を選び、一時は母国との関係まで悪化させた末に今の生活へ辿り着いている。すでに故郷との関係も修復されているからこそ、今日の二人の間にはわだかまりなど一つもなかった。
「お姉様は相変わらず忙しいの?今回も使節団を率いて来るくらいだものね」
「国内にいる時も仕事はあるわ。外国から使節が来れば応対することもあるし、必要な資料にも目を通しているわよ。今回の件も以前から調べていたから、私が来ることになったの」
彼女は国同士の関係だけでなく、交易が国内の暮らしへ与える影響にも関心があり、外国について学ぶことも苦ではないらしかった。
アリスはそれを聞いても意外そうな顔をしなかった。幼い頃から姉が勉強や公務に真面目に取り組んでいたことを知っているため、遠く離れた国まで使節として来た現在の姿も、彼女にとっては昔から知る姉の延長にあるようだった。
「お姉様は昔からそういうことを真面目にやっていたわよね。私には同じことはできそうにないけれど」
「知っているわ。あなたに私と同じことを求めても、長くは続かないでしょうね」
セレスティアの言葉に責める響きはなく、アリスも気を悪くした様子を見せなかった。長く一緒に育った二人にとって、性格や考え方が違うことは今になって発見したものではない。互いに向いているものが違うと知った上で、それを変えようとは考えていないのだろう。
アリシアが二人の様子を見ていると、アリスは卓上の焼き菓子を一つ手に取りながら、ふと思い出したように姉へ顔を向けた。
「そういえば、お姉様自身の結婚の話は進んでいないの?私が向こうにいた頃には、いくつか話が出ていたでしょう」
「今のところ、正式に決まった相手はいないわ。今後については私にも分からないけれど、必要があって、私自身も納得できる相手なら、他国へ嫁ぐこともあるでしょうね」
セレスティアは困った様子を見せず、自分の将来について話した。第三王女である以上、婚姻が本人同士だけの問題ではないことも理解している。それでも命じられた相手なら誰でも構わないという考えではなく、自分が納得できることを前提としているところに彼女自身の意思があった。
アリスも姉の答えに驚かなかった。しばらくセレスティアを見た後、昔から知っていたことを確認するように頷く。
「お姉様ならそう考えると思っていたわ。私は同じようには考えられないけれど、お姉様は私じゃないものね」
「ええ。私もあなたと同じ道を選ぶとは思わないわ」
二人の言葉はそこで途切れ、セレスティアが茶器へ手を伸ばした。窓の外では雲がゆっくり流れ、庭園へ落ちる木々の影が少しずつ位置を変えている。アリシアは向かい合う姉妹を見ながら、前夜にセレスティアと交わした話を思い返していた。
アリシア自身は、人生を勝手に決められることの苦しさを知っている。四年前、守るためという理由で何も知らされないままローゼンから離され、自分にも選ばせてほしかったという思いを長く抱え続けた。その経験があるからこそ、本人の意思を置き去りにした選択には今でも強い抵抗がある。
目の前のセレスティアは、自分の立場から逃れたいとは考えていなかった。王女として国に関わることも、いつか婚姻によって国同士を結ぶ可能性も、自分が納得した上で選べる道として受け止めている。アリスも姉に別の生き方を勧めようとはせず、自分とは違う人間なのだから選ぶものも違うと理解していた。
「二人は随分違うのに、お互いのことはよく分かっているのね」
アリシアがそう言うと、アリスとセレスティアがほとんど同時にこちらを見た。姉妹は一度顔を見合わせ、先に笑ったのはアリスだった。
「小さい頃から一緒なんだもの。お姉様が急に私みたいになったら、その方が心配になるわ」
「私も同じことを思うでしょうね。あなたが急に一日中机へ向かって外交の資料を読み始めたら、何かあったのかと聞くわ」
アリスは想像しただけで無理だと言いたげに首を振り、セレスティアも楽しそうに笑った。違う道を選んだからといって、相手の生き方を否定しなければならない理由はない。二人にとっては、離れて暮らすようになった今も変わらない、ごく自然な関係なのだろう。
やがて窓から入る光が傾き始めた頃、廊下から控えめなノックの音が聞こえた。扉の外にはセレスティア付きの侍女が待っており、確認を頼んでいた資料が届いたことを告げる。次の協議へ向けた準備も残っているため、そろそろ客室へ戻らなければならないらしい。
「帰るまでに、もう一度くらい会えるでしょう? 今度はノアも連れてくるわ」
「時間は作るつもりよ。その時に紹介してちょうだい」
アリスはその返事に満足したように頷いた。セレスティアはアリシアにも時間を取ってくれたことへの礼を述べ、待っていた侍女とともに応接室を後にした。
扉が閉じた後、アリスは残っていた茶を一口飲み、窓の外へ目を向けた。寂しそうに見送るわけでもなく、久しぶりに姉と話せたことで満足しているらしい。アリシアも向かいに座ったまま、先ほどまでセレスティアが使っていた茶器へ目を向けた。
「いいお姉さんね」
「ええ。昔からあんな感じよ。私とは全然違うけれど、それで困ったことなんてないわ」
アリスはそう答え、卓上に残っていた焼き菓子へ手を伸ばした。その姿を見ながら、アリシアは先ほどまで向かい合っていた姉妹のことを考える。
アリスは第四王女として用意されていた道から離れ、この国で自分の選んだ人生を歩いている。セレスティアは第三王女として母国に残り、自分の立場でできることを引き受けていた。
二人が選んだものは違っていても、どちらかが相手の道を変えようとする必要はない。
久しぶりに顔を合わせた姉妹にとって、その違いは今さら確かめるほど特別なものでもなかったのだった。




