100. 少し早いお別れ
北部へ来てから数日が経った朝、アリシアは目を覚ますなり、寝台の中で掛布を肩まで引き上げた。昨夜も十分に冷えていたはずなのに、今朝は布団から出ることを躊躇うほど空気が冷たい。窓の向こうには厚い雲が広がり、まだ雪こそ降っていないものの、冬がすぐ近くまで来ていることは、この土地で四年間暮らしたアリシアにはよく分かった。
隣ではローゼンもすでに目を覚ましていた。エドガーとエレナは別の部屋でまだ眠っているらしく、家の中は静かなままだった。王宮ならこの時間には使用人たちが動き始め、廊下から人の気配が伝わってくるが、小さな家では薪が燃える音さえはっきりと聞こえてくる。
「今日は随分冷えるわね。この空だと、そろそろ降るかもしれないわ」
アリシアは寝台を下り、窓辺へ歩いた。窓を少しだけ開けると冷気が一気に入り込み、すぐに閉じる。山の方角は厚い雲に覆われ、頂上付近はほとんど見えなかった。
雪が降る前に北部へ行こうと決めたのは、まだエレナが幼いからだった。北部で暮らしていたアリシアは、この辺りの冬道がどれほど厄介になるかを知っている。王都で待っていれば春まで来られなくなると思って出発したものの、どうやら今年の冬は想像していたより少し早く訪れるらしい。
朝食を終えた頃、護衛の一人が家を訪ねてきた。街道の状況を確認するため、早朝から町へ入ってきた商人や御者に話を聞いていたらしく、山沿いではすでに雪が降り始めている場所があるという。
王都から北部へ来る際に通った道も、途中で山沿いを進む区間がある。現在はまだ問題なく通れるものの、これから数日冷え込みが続けば状況が変わる可能性があった。
「今日明日で通れなくなるほどではありません。ただ、予定通り数日後に出発した場合、その時の状況までは分かりません。やはり雪が……」
机の上には簡単な地図が広げられていた。アリシアはエレナを腕に抱きながらその前に座り、ローゼンと一緒に帰路を確認する。エレナは大人たちの話など気にする様子もなく、母親の服を小さな手で掴んでいた。
「来た道をそのまま戻るのは避けた方がいいということ?」
「安全を優先するのであれば、こちらの道があります」
護衛が指したのは、王都へ直接向かう街道とは別の道だった。
一度南側へ大きく下り、標高の低い地域を通ってから王都方面の街道へ合流する。距離は伸びるものの、山沿いを進む区間が少なく、雪の影響も受けにくい。途中には宿場もいくつかあるため、エレナを休ませながら進むこともできるという。
安全を考えるなら迷うほどのことではない。エレナを連れている以上、少し早く帰るために雪道を選ぶ理由などなかった。
「遠回りして帰りましょう」
「ああ。私もその方がいいと思う」
「問題は日数ね」
遠回りをすれば、その分だけ王都へ戻るまでの時間が長くなる。ローゼンも国王としていつまでも王宮を空けてはいられず、アリシアにも帰還後の予定が入っている。帰る日を後ろへ延ばせない以上、どこかで日程を縮める必要があった。
アリシアは地図から顔を上げ、窓の外を見た。本来なら、この町でもう数日過ごす予定だった。久しぶりに帰ってきたのだから、会いたい人もいれば、もう少し歩いてみたい場所もある。それでも、答えを決めるのに長い時間は必要なかった。
「仕方ないわね。帰り道で無理をするくらいなら、こっちを早めに出ましょう。明日の朝に出れば、遠回りしても予定していた頃には王都へ戻れるでしょう?」
「その予定であれば問題ありません」
「では、そうしよう」
ローゼンが頷き、予定は決まった。
北部で過ごす時間は、予定より数日短くなった。
その知らせを一番残念がったのは、やはりエドガーだった。
「明日帰るの?」
アリシアから話を聞いたエドガーは、椅子に座ったまま目を丸くした。今日も町へ出るつもりだったらしく、外へ行くための上着まで準備している。
「ええ。本当はもう少しいる予定だったけど、山の方で雪が降り始めているんですって」
「でも、ここは降ってないよ?」
「ここで降っていなくても、帰る途中で降るかもしれないでしょう? だから雪の少ない道を通って帰ることにしたの。その代わり、いつもより遠回りになるのよ」
エドガーは窓の外を確認した後、アリシアの腕に抱かれているエレナへ視線を移した。妹は兄と目が合ったのが嬉しかったのか、口元を緩めながら手を動かしている。
「エレナ、雪の中だと寒い?」
「寒いわよ。馬車の中は暖かくするけど、何日も雪の中を進むより、雪の少ない道を通った方が安心でしょう?」
「……そっか」
まだ遊び足りないのだろう。納得しようとしているのが表情からよく分かり、アリシアは息子の頭を撫でた。
「これで最後じゃないんだから、また来ればいいでしょう?」
「また来る?」
「もちろんよ。せっかく家まであんなに綺麗にしてもらったんだもの。一回泊まっただけで終わりにはできないわ」
「じゃあ、また来る!」
切り替えは早かった。次に来た時は何をしようかと考え始めたエドガーを見て、アリシアも笑みを浮かべる。いつ帰ってきてもいいと言ってくれた人たちがいる以上、ここを離れることを以前ほど寂しく考える必要もなかった。
予定を変更したことを伝えるため、アリシアはその日の午前中から町を歩いた。
数日前には自分の知っている村とは思えないほど変わって見えた通りも、何度か歩けば少しずつ目が慣れてくる。新しくできた宿屋の前では今日も荷馬車が停まり、店先では商人と住民が値段を交渉していた。その間を抜けながら、アリシアは昔から付き合いのある者たちを訪ねていく。
明朝には町を出ると伝えると、誰も無理に引き止めなかった。山沿いで雪が降り始めたと聞けば、むしろ早く出た方がいいと言われる。北部で長く暮らしている人間ほど、冬の街道を甘く見てはいなかった。
「エレナ様もいらっしゃるんですから、遠回りでもそっちの方がいいですよ」
そう言って送り出されたアリシアは、昼過ぎには家へ戻った。
ところが、話は思っていた以上の速さで町中へ広がっていたらしい。
最初に家を訪ねてきたのは、昔から付き合いのある女性だった。手には大きな包みを抱えており、中には焼き菓子が詰められている。
「道中で食べてください。日持ちするように作ってありますから」
「こんなに?」
「皆さんで食べたらすぐですよ」
断る間もなく渡され、その女性が帰ってからしばらくすると、今度は別の住民が保存の利く食べ物を持ってきた。その次にやって来た者はエドガーへ小さな土産を渡し、さらに別の女性はエレナのために作ったという厚手の帽子を持ってくる。
午後になる頃には、朝まで何も置かれていなかった机の上が包みで埋まっていた。
「……ちょっと待って。これ、全部持って帰るの?」
アリシアが呆然と机を見つめる横で、ミレイユは一つずつ中身を確認していた。すでに荷造りはほとんど終えていたはずなのに、明らかに荷物が増えている。
「アリシア様、こっちの籠もです」
「それは何?」
「エドガー様がお好きだった焼き菓子だそうです」
「さっきも焼き菓子をもらわなかった?」
「そちらとは別のお店です」
「……馬車に載るかしら」
思わず漏らした言葉に、少し離れたところで荷物を見ていたローゼンが振り返った。
「私も今、同じことを考えていた」
「あなたまで言わないでよ。どうにかするしかないでしょう」
幸い、どれも大きな荷物ではない。それでも一つ一つ積み重なれば、それなりの量になる。ミレイユは馬車へ載せる荷物を改めて分け直し、護衛にも相談しながら収納場所を作っていった。
届けられた品の中に、豪華なものはほとんどなかった。北部で採れたものを使った保存食や手作りの菓子、寒い季節に使える小物ばかりで、王や王妃への献上品というより、長い旅へ出る家族へ持たせる品だった。
アリシアには、その方が嬉しかった。
夕方、ようやく荷造りが落ち着いたところで、アリシアは意味もなく、一人で家の外へ出た。
「ママ!」
家の中からエドガーが顔を出した。
「寒いから閉めなさい。今戻るわ」
「明日、早いんでしょ?」
「そうよ。だから今日は早く寝なさいね」
エドガーが顔を引っ込めるのを見届け、アリシアはもう一度だけ山の方を見る。
あの雲を見れば、出発を早めたのは正しかったのだろう。
名残惜しくないと言えば嘘になる。それでも、次があると分かっている別れなら、必要以上に惜しむこともなかった。
翌朝、一家は日が昇って間もない時間から出発の準備を始めた。
エレナには王都を出た時より一枚多く着せ、さらに厚手のおくるみで包んでいる。昨日もらった帽子も早速使わせてもらうことになり、アリシアに抱かれたエレナは頭まで暖かそうに包まれていた。
家の外へ出ると、予定より早い出発だったにもかかわらず、何人もの住民が見送りに来ていた。
「また来てくださいね」
「ええ。また来るわ」
アリシアは一人ずつ顔を見ながら答えた。
エドガーも知っている人を見つけるたびに手を振り、馬車へ乗ってからも窓を開けようとする。冷たい風が入るからとアリシアに止められると、今度は窓越しに両手を大きく振り始めた。
「またねー!」
外からも声が返ってくる。
ローゼンが先に馬車へ乗り込み、アリシアもエレナを抱いたまま後に続こうとして、一度だけ振り返った。
数日前に扉を開けた時と変わらず、窓は綺麗に磨かれていた。次に帰ってくる時にも、この家はきっと同じ場所で待っていてくれるのだろう。
「アリシア?」
「今行くわ」
ローゼンに呼ばれ、アリシアは馬車へ乗り込んだ。
やがて馬車がゆっくりと動き始める。町の人々が遠ざかってもエドガーは窓から手を振り続け、建物が見えなくなってからようやく座席へ戻った。
町を離れてしばらくすると、街道が二つに分かれた。
往路で通った王都への道は片方へ続いている。けれど先頭を進む護衛たちはそちらへ向かわず、馬車も続いて反対側の道へ入っていった。
真っ先に気付いたのはエドガーだった。
「ママ、王都ってこっちじゃないよ?」
「よく覚えていたわね。今回はこっちから帰るのよ」
「違う道?」
「ええ。少し遠回りになるけど、雪の少ないところを通って帰るの」
エドガーは残念がるかと思いきや、すぐに反対側の窓へ移動した。初めて見る景色が続いていることの方が気になったらしく、遠くに何かを見つけるたびにローゼンへ知らせている。
アリシアも窓の外へ目を向けた。
北部への里帰りは、予定していたより少し早く終わったが、その代わり家族四人で王都へ帰る旅は、予定していたより少しだけ長くなったのだった。




