99. 変わっていく故郷
王都を出発してから数日が経ち、一行を乗せた馬車は北部へ入っていた。エレナの授乳や休息に合わせて何度も馬車を止めたため、以前よりゆっくりとした旅になったものの、幸い娘が体調を崩すことはなかった。王都を離れるにつれて木々の葉は少なくなり、朝に立ち寄った宿では草の上に薄く霜が降りていた。
馬車の窓から見える景色にも、アリシアがよく知るものが増えている。遠くに連なる山々も、街道から見える森も、四年間この土地で暮らした彼女にとっては懐かしいものだった。前回の里帰りから時間は経っているが、北部特有の冷たい空気を感じると、帰ってきたという実感が少しずつ強くなっていった。
「ママ、もうすぐ?」
「もう少しよ。この森を抜けて、しばらく進んだところね」
「ぼく、あっち知ってるよ。前に行ったことある!」
エドガーは朝から何度も窓の外を覗いていた。王宮では授業の時間も決められ、王太子として振る舞う機会も増えている息子が、今日は昔遊んでいた場所を探すことに夢中になっている。アリシアは向かいに座るローゼンと顔を見合わせ、楽しそうなエドガーを見守っていた。
そのうち、アリシアは窓の外を通り過ぎた一台の荷馬車へ目を向けた。荷台にはいくつもの木箱が積まれており、御者の隣にも商人らしい男が座っている。王都方面へ向かっていくその馬車を見送っていると、さほど間を置かずに二台目の荷馬車とすれ違った。
さらに先からも人がやって来る。馬に荷物を載せて歩く者もいれば、数人で連れ立って街道を進む者もいた。反対にアリシアたちと同じ方向へ向かう馬車もあり、その中には商品らしい布の束を積んだものまで混じっている。
前回北部へ帰ってきた時にも、この辺りを通っている。あの頃から街道を使う者はいたが、これほどではなかった。しばらく眺めていれば人が途切れる時間もあったはずなのに、今日は一台の馬車とすれ違った直後に別の人影が見えてくる。
「今日は何かあるのかしら」
「何か?」
「人が多いのよ。前に来た時は、こんなに馬車とすれ違わなかったわ」
ローゼンも窓の外へ目を向けた。ちょうどその時、前方を走っていた荷馬車を追い越すためにこちらの馬車が速度を落とし、護衛たちも周囲を確認しながら進んでいく。以前より道幅が広く取られているおかげで、荷馬車がいても通行に困るほどではなかった。
「街道の整備は進めている。北部を行き来する商人が増えていることも報告には上がっていた」
「それにしても多いわね。村へ向かっている人も随分いるみたい」
アリシアが暮らしていた頃、この辺りまで来れば知っている住民とすれ違うことの方が多かった。今、窓の向こうを通り過ぎていく人々には見覚えがなく、服装や荷物を見る限り、近隣の住民ばかりとも思えない。
最初は何か催しでも開かれているのかと考えていたアリシアも、進むにつれてそうではないと気付き始めた。村へ向かう者と同じくらい、村の方角から出てくる者も多い。大きな荷物を積んだ馬車が何台も行き交っている以上、一日だけ人が集まっているとは考えにくかった。
そして森を抜け、かつて村の入口だった場所が見えてきた時、アリシアは思わず身体を窓へ寄せた。
「……ここよね?」
「ぼくもそう思ってたけど……」
エドガーまで自信を失ったように外を眺めている。
道を間違えたわけではない。少し先にはアリシアが覚えている古い建物があり、その向こうには見慣れた屋根も残っている。それなのに、以前なら畑だった場所には新しい家が何軒も建ち、その隣には大きな看板を掲げた宿屋まであった。
馬車が進むほど、変化は大きくなっていった。小さな商店が数軒並んでいた通りには新しい店が増え、店先には野菜や布、革製品などが所狭しと並べられている。食事を出しているらしい店からは湯気と香ばしい匂いが漂い、その向かいには何頭もの馬を預かれる大きな厩舎が造られていた。
少し先では、荷馬車から木箱を下ろす男たちが忙しそうに働いている。その背後にはアリシアの記憶にない倉庫が並び、荷物を運び込む者と運び出す者が絶えず出入りしていた。道の端には旅装の商人が立ち、宿を探しているらしい一団まで歩いている。
アリシアが暮らしていた頃なら、通りを歩けばほとんどの人間の顔が分かった。今は馬車の窓から眺めていても、知らない顔の方がずっと多い。
「……随分、変わったわね」
ようやく出てきた言葉は、それだけだった。
前回帰った時にも、新しい建物ができていることには気付いていた。それからさらに時間が流れ、変化はアリシアの想像よりずっと速く進んだらしい。昔の村を知っているからこそ、目の前に広がる光景をすぐには同じ場所として受け入れられなかった。
馬車が中心部へ入ったところで、一行の到着に気付く者が現れ始めた。護衛を連れた馬車を珍しそうに見る新しい住民がいる一方、昔から暮らしている者の中には窓越しのアリシアを見つけ、驚いた顔で近づいてくる者もいた。
馬車を降りたアリシアのもとへ、見覚えのある女性が歩み寄ってくる。以前の里帰りでも顔を合わせた相手で、アリシアが薬師として働いていた頃からよく知っている一人だった。
「アリシア様、おかえりなさい」
その言葉を聞いた瞬間、周囲の景色がどれほど変わっていても、自分が帰ってきた場所は間違っていなかったのだと思えた。アリシアは懐かしい顔を見ながら、自然と笑みを浮かべた。
「ただいま。驚いたわ。前に来た時より、ずっと人が増えているのね」
「ここ一年くらいで一気に増えたんですよ。最初は商人の馬車が少し増えたくらいだったんですけどね」
女性が指した先には、先ほどアリシアが見た大きな宿屋がある。その前では二台の荷馬車が停まり、従業員らしい若者たちが馬の世話をしていた。
街道が整えられてから、北部のさらに奥へ商品を運ぶ商人がこの場所で休むようになったという。王都方面から進んでくれば馬も疲れ、食料や水も補充したくなる。そのために宿を利用する者が増え、食事を求める者が増えれば新しい店ができた。
荷馬車の数が増えたことで、馬を預かる厩舎も必要になった。車輪や荷台が壊れれば修理できる職人が求められ、大量の商品を置いておく場所が足りなくなれば倉庫も建てられる。そうして商売が増えるにつれ、働き口を求めて周辺から移り住む人間まで現れたらしい。
「昔は、ここに住んでいる人のための店ばかりだったでしょう?今は外から来る人が買っていってくれるんです。だから店を出したいって人も増えて、その人たちが住む家も必要になって……気付いたらこんなことになってました」
「確かに、これだけ人が来れば必要なものも増えるわね」
アリシアはもう一度通りを見渡した。
人が増えたから宿が必要になり、宿ができればそこで働く者が必要になる。働く者が住み始めれば食料や衣服を売る店も増え、店が増えればさらに外から人が訪れる。かつて静かだった村の中に新しい需要が次々と生まれ、それが別の仕事や商売へ繋がっているのが、目の前の光景を見ればよく分かった。
ローゼンも通りの向こうまで視線を向けていた。北部の街道整備が進んでいることも、物流量が増えていることも国王として知っていたはずだが、一つの村が短期間でここまで姿を変えるところまでは想像していなかったらしい。
「報告で数字を見るのとは違うな」
「でしょう? 私なんて、本当に道を間違えたのかと思ったもの」
そこで女性の視線が、アリシアの腕の中へ向かった。
旅の間も機嫌よく過ごしていたエレナは、今も母親に抱かれたまま周囲を眺めている。知らない人間が大勢いることが気になるらしく、時折小さな手を動かしていた。
「あら……この子が?」
「ええ。エレナよ」
「ぼくの妹だよ!」
アリシアより早く答えたのはエドガーだった。
女性は目を丸くした後、すぐに嬉しそうな顔になった。手紙で第二子が生まれたことは村にも伝わっていたため、近くにいた昔からの住民たちも次々とエレナへ目を向ける。
「お兄ちゃんになったのね。小さかったのに」
「ぼく、ちゃんとエレナのお世話もしてるよ!」
「そう。立派なお兄ちゃんになったのね」
褒められたエドガーは満足そうに胸を張った。王太子として褒められる時とは少し違い、幼い頃の自分を知っている人に成長を認めてもらえたことが嬉しいらしい。
新しく移り住んだ者たちは、国王一家が来ていると知って遠巻きに様子を見ていた。その一方で、昔からの住民たちは以前と変わらずアリシアたちへ話しかけてくる。その違いを感じながら、アリシアは懐かしい顔の一人一人へ挨拶を返していった。
一通り挨拶を済ませた後、アリシアたちは以前暮らしていた家へ向かった。
そこへ続く道も以前とは変わっている。昔は家と家の間にもっと空き地があり、少し歩けば畑が見えたはずなのに、今では新しい住宅が並んでいた。小さな店まで一軒できており、アリシアは自分の記憶と目の前の景色を何度も照らし合わせながら歩いた。
それでも、自分とエドガーが四年間暮らした家は残っていた。
屋根や外壁には手入れされた跡があるものの、形そのものは記憶の中と変わらない。アリシアは少し安心しながら扉を開け、エドガーと一緒に中へ入った。
そして、足を止めた。
「……綺麗ね」
思わず口から出た言葉に、後ろから入ってきたローゼンも室内を見回した。
床には埃一つ見当たらず、歩けば木目がはっきり見えるほど磨かれている。窓にも曇りがなく、外から差し込む午後の日差しがそのまま室内へ伸びていた。棚や机も丁寧に拭かれ、長く誰も住んでいない家とは思えない。
アリシアは近くの棚へ指を滑らせてみたが、当然のように埃はつかなかった。
以前里帰りした時にも家はある程度手入れされていた。それでも今回は、その時より明らかに念入りに掃除されている。床など、アリシアが暮らしていた頃にここまで光っていた記憶はなかった。
同じことを考えていたらしく、エドガーも床を見下ろしていた。
「ママ。ぼくたちが住んでた時より綺麗だよ」
「……私も今、それを考えていたところよ」
ローゼンがわずかに笑うのが見え、アリシアも怒る気にはなれなかった。自分でも否定できないのだから仕方がない。
後から家まで案内してくれた女性によれば、前回の里帰り以降も村の者たちが時折ここへ来て、窓を開けたり掃除をしたりしてくれていたらしい。今回アリシアたちが帰ってくると知らせが届いてからは、何人かで家の中を改めて掃除し、床や窓まで磨いてくれたという。
「また帰ってきた時に、すぐ使えるようにしておこうって話してたんですよ。ここはアリシア様とエドガーの家でしたから」
アリシアはすぐに返事をすることができず、磨かれた部屋を見渡した。
「ありがとう。こんなに綺麗にしてもらえるとは思ってなかったわ」
「いつでも帰ってきてください。次は掃除しすぎないようにしますから」
「それは今のままでいいわよ」
女性が笑いながら帰っていくと、エドガーは早速家の奥へ向かった。以前にも一度帰ってきているのに、今日はエレナが一緒にいることが嬉しいらしく、母親の腕の中にいる妹へ自分が暮らしていた家を見せたくて仕方がないようだった。
「エレナ、こっちだよ。ぼく、ここに住んでたんだよ」
意味を理解しているはずのないエレナが兄の方へ顔を向ける。それだけでエドガーは聞いてもらえていると思ったらしく、自分が寝ていた場所や食事をしていた場所を次々と教え始めた。
ローゼンもエドガーの後ろを歩き、時折エレナを覗き込みながら息子の説明を聞いている。
アリシアは少し離れた場所から三人を眺めた。
この家で暮らしていた頃、ここにいた家族はアリシアとエドガーの二人だけだった。今はエドガーが妹に自分の昔を教え、その隣にはローゼンがいる。窓の外に広がる景色だけでなく、この家へ帰ってくる家族の姿も以前とは変わっていた。
夕方になると、アリシアは一人で家の前へ出た。
冷たい風が頬を撫で、昼間よりも気温が下がっている。通りにはまだ人が行き交い、少し離れた大通りからは荷馬車の車輪が地面を転がる音が聞こえてきた。アリシアが暮らしていた頃なら、この時間にはもっと静かになっていたはずだった。
遠くに見える山の頂には、すでに薄く雪が積もっている。
あと少し遅ければ、あの白さは山から村へ下りてきていただろう。雪が降る前に帰ろうと決めた自分の判断は間違っていなかったと考えながら、アリシアは改めて町並みを眺めたのだった。




