98. 雪が降る前に
王都にも秋の終わりが近づき、王宮の庭園では庭師たちが冬を迎える準備を始めていた。色鮮やかだった花壇からは少しずつ花が減り、代わりに落ち葉を集める姿が目立つようになっている。朝夕には冷たい風が吹き抜け、長く使われていなかった暖炉のそばにも、新しく割られた薪が積まれるようになっていた。
午後の執務を終えたアリシアは、書類を片付けてから窓の外へ目を向けた。雲の切れ間から差し込む陽射しはまだ暖かく、庭を歩く者たちの服装も冬物には変わっていない。王都で雪を見るのはもう少し先になるだろうと考えたところで、ふと北部の景色が頭に浮かんだ。
北部なら、同じ季節でも朝の冷え込みはずっと厳しい。村では雪が降る前に薪を蓄え、屋根や壁に傷んだ場所がないかを確かめ、冬の間に必要になる食料を用意していた。薬師として暮らしていたアリシアも、毎年この時期になると棚に並んだ薬草を数え、足りないものがあれば雪で山へ入れなくなる前に集めていた。
以前北部へ里帰りした時にも、村の人々は変わらない様子でアリシアを迎えてくれた。王宮へ戻った後も手紙のやり取りは続いており、エレナが生まれた時にも知らせている。けれど、手紙で娘の誕生を伝えることと、実際に腕の中のエレナを会わせることは同じではなかった。
アリシアは机から離れ、隣室へ向かった。開け放たれた扉の向こうでは、侍女に見守られながらエレナが敷物の上で遊んでいる。少し前まで寝返りを一度しただけで家族中が喜んでいた娘も、今では自分で身体の向きを変え、気になるものを見つければ一生懸命に手を伸ばすようになっていた。
春に生まれたエレナは、もう生後半年近くになる。生まれて間もない頃なら長い馬車旅へ連れ出そうとは考えなかったが、首も据わり、天気の良い日には庭へ出るようにもなっている。体調も安定しており、アリシアも以前ほど外へ連れ出すことに不安を感じなくなっていた。
エレナのそばへ腰を下ろしたアリシアが手を差し出すと、小さな指がすぐに一本を掴んだ。その手を見ながら、北部へ連れていくなら今頃がいいのかもしれないと考え、すぐにこれから訪れる季節のことまで思い至った。
あと少し待てば、北部には雪が降る。
四年間暮らした土地だからこそ、雪が積もってからの道がどれほど移動しにくくなるかはよく知っていた。馬車の車輪が取られれば予定通りには進めず、吹雪になれば途中の町で何日か足止めされることもある。大人だけならともかく、まだ生後半年にも満たないエレナを連れて、そのような旅を選ぶ理由はなかった。
春になってから帰ることもできる。それでもエレナは元気に育ち、王都から北部へ向かう道にもまだ雪はない。今を逃せば数か月先になるのなら、冬が来る前に帰った方がいいと、アリシアの中で少しずつ気持ちが固まっていった。
前回北部へ帰った時、アリシアはまだローゼンと再婚する前だった。あれから再び彼の妻となり、エドガーには妹が生まれ、四人で暮らす毎日が始まっている。次に北部へ帰る時にはエレナも連れていきたいと考えていたのだから、その機会がようやく来たのだろう。
エレナの手が指から離れると、アリシアは娘を抱き上げた。窓から差し込む午後の日差しの中で、エレナは母親の胸元へ頬を寄せている。その小さな背中を支えながら、アリシアは今夜ローゼンに相談してみようと決めた。
日が暮れてからしばらくして、ローゼンが仕事を終えて戻ってきた。夕食を済ませたエドガーは別室で明日の授業の準備をしており、エレナも侍女に寝かしつけてもらっている。アリシアは上着を脱いだローゼンが椅子へ腰を下ろすのを待ってから、昼間考えていたことを切り出した。
「北部へ帰ろうと思っているの。雪が降る前に」
「北部へ?」
「ええ。エレナももう半年近くになるでしょう。今なら一緒に連れていけると思うのよ。もう少し待ったら向こうは雪になるし、赤ん坊を連れて雪道を進むのは避けたいわ」
ローゼンは北部までの日数を確かめるように考え込み、アリシアも急かさずに返事を待った。国王が王都を離れるとなれば、自分一人の都合だけで予定を決められないことくらい分かっている。ローゼンの予定が合わないのなら、アリシアと子供たちだけで向かうことも考えていた。
「私も行くよ。レオナードと予定を調整してみる」
「一緒に来られるなら嬉しいけど、無理はしないでね。今回は私と子供たちだけでも大丈夫よ」
「久しぶりに私も行きたいんだ。長く滞在するのは難しいだろうが、数日なら空けられると思う」
ローゼンが自分から行きたいと言うのなら、アリシアに止める理由はなかった。以前の里帰りでも彼は北部を訪れているが、今度はエレナもいる。あの村で生まれ育ったエドガーと、王宮で生まれたエレナを二人とも連れて帰るのは、今回が初めてになる。
北部には、ローゼンが見ることのできなかったエドガーの幼い頃が残っている。息子が暮らした家があり、遊んだ道があり、成長を見守ってくれた人々がいる。ローゼンが再びそこへ行きたいと思う理由を、アリシアは改めて尋ねなかった。
翌日、ローゼンはレオナードと予定を確認し、北部へ向かえる日を探した。国王と王妃が揃って王都を離れる以上、長期間の滞在はできないものの、急ぎの政務が重ならない時期を選べば数日程度なら確保できる。北部の初雪よりも前に往復できるよう余裕を持たせ、数日後には出発することになった。
エドガーへ知らせたのは、その日の夕方だった。授業を終えて母親の部屋へ来たエドガーは、北部という言葉を聞いた途端に目を輝かせ、椅子へ座ることさえ忘れてアリシアの前まで駆け寄ってきた。
「ほんとに北部へ行くの!?」
「ええ。パパも一緒よ。それからエレナもね」
「エレナも行くの!?じゃあ、みんなにぼくの妹を見せられるね!」
誰に会いたいのかと尋ねるまでもなく、エドガーの口から懐かしい名前が次々と出てくる。王宮で暮らすようになってから時間が経ち、王太子として勉強する毎日にも馴染んでいるが、北部で一緒に遊んだ子供たちや世話になった大人たちのことは今も覚えているらしい。
「ぼく、エレナを抱っこして見せてもいい?」
「座っている時ならね。立ったままはまだ駄目よ」
「うん!ちゃんと座って抱っこする!」
すでに北部へ着いた後のことを考え始めている息子を見て、アリシアも頬を緩めた。北部はエドガーにとって過去の思い出になった土地ではなく、今でも会いたい人がいて、帰る日を楽しみにできる場所として残っているようだった。
出発日が近づくと、王宮の一角には旅へ持っていく荷物が並び始めた。以前の里帰りと大きく違うのはエレナの荷物で、着替えや毛布だけでも相当な量になる。王都ではまだ使わないほど厚手の衣服も、北部へ着いた後の冷え込みを考えれば置いていくわけにはいかなかった。
アリシアはミレイユと一緒に荷物を確認しながら、エレナ用の毛布をもう一枚加えた。北部の朝は王都より冷え込むため、旅の途中で必要がなくても現地では使う可能性がある。一方で侍女たちが念のためと用意した衣服や日用品には明らかに多すぎるものもあり、アリシアは滞在日数と照らし合わせながら減らしていった。
「エレナ様のお着替え、こちらも入れておきませんか? 赤ちゃんですし、多い方が安心ですよ」
「着替えならもう十分入っているわ。それより移動中に使うものを取り出しやすいように分けておいて。途中で必要になる度に全部の荷物を開くわけにはいかないでしょう」
「分かりました。では馬車へ載せる分と、宿で使う分を分けておきますね」
ミレイユが荷物を分け始めるのを見ながら、アリシアはエレナの防寒具をもう一度確かめた。北部で幼いエドガーを育てていた頃には、外へ出る度に気温や空模様を見て服を選んでいた。その経験があるからこそ、王宮の者たちが用意してくれたものを任せきりにする気にはなれなかった。
旅程にも最初から余裕を持たせている。エレナが眠っていればそのまま進めることもあるだろうが、授乳や休息が必要になれば予定に関係なく馬車を止める。北部へ一日早く着くことよりも、娘が元気なまま旅を終えることの方が大切だった。
出発前日の夜、アリシアは寝台で眠るエレナへ毛布を掛け直してから、窓辺へ歩いた。王都の夜空には薄い雲が広がっているものの、雪を運んでくるような重い空ではない。庭園の木々もまだ葉を残しており、この辺りが白く染まるのは当分先になりそうだった。
北部では、あと何週間もしないうちに景色が変わる。朝になれば薄く雪が積もり、それが溶けたと思えば次はもっと深く積もっていく。王宮へ戻る以前のアリシアは、その季節を毎年エドガーと迎えていた。
雪が深い日は薬師の仕事を早めに切り上げ、小さな手を引いて家まで帰った。冷え切った部屋の暖炉へ火を入れ、夕食を作っている間にもエドガーは今日あったことを話し続けていた。窓の向こうで雪が降り続ける夜には、明日の朝までにどれほど積もるだろうと考えながら眠ったことも一度や二度ではない。
以前里帰りした時、その家も村の道も残っていた。アリシアが王宮へ戻ってからも、そこで過ごした四年間まで消えてしまったわけではない。今では王宮にも自分の暮らしがあり、ローゼンと二人の子供がいるからこそ、北部へ帰る時に連れていきたい家族も増えていた。
眠っているエレナへ目を戻すと、明日から始まる旅が少し楽しみになった。前回とは違い、今度はローゼンの妻として、エドガーとエレナの母として北部へ帰ることになる。
翌朝、空が明るくなり始める頃には、王宮の正面に馬車が用意されていた。冷えた空気の中で護衛たちが最後の確認を行い、荷物を積んだ馬車も順番に並んでいる。アリシアは厚手の外套を羽織り、同じように防寒を整えたエドガーの手を引いて外へ出た。
エレナはローゼンに抱かれていた。いつもと違う朝の騒がしさが気になるのか、父親の腕の中から馬車や馬を不思議そうに眺めている。先に馬車へ乗ったエドガーは窓際の席へ座り、まだ出発してもいないうちから北部の方角を探すように外を見ていた。
四人が乗り込むと扉が閉じられ、やがて馬車がゆっくりと動き始めた。石畳を進む車輪の音を聞きながら、アリシアは窓の外へ流れていく王宮の景色を眺める。
前回と同じ北部へ続く道でも、隣にいる家族は増えている。
エレナにとって初めての北部へ、エドガーにとって懐かしい故郷へ、そしてアリシアにとって何度離れても帰りたいと思える場所へ向かって、一行は雪が降る前の道を進み始めた。




