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蒸発のサイクリングロード  作者: 滝 陽水
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第三章

第三章



しばらく泣いていた藍だったが、やがて顔を上げると、

「さ、私のことは話しました。晃さんはなんで死にたいんですか?」

自分のことを吐露して気持ちが落ち着いたのか、晴れやかな笑顔で晃に問いかける。

藍の笑顔に晃は少し戸惑ったが、

「そうだな。藍ちゃんにだけ秘密を打ち明けさせるってのもフェアーじゃないな」

そしてサイクリングロードにもどりつつ、少し間を置いて話し始めた。



両親に妹と特に何の変哲も無い、普通の家庭に生まれた晃。

特に何の不自由も感じてはいなかったが、小学校に上がる頃、父方の実家に引っ越しをしてから小さく変化が起こり始める。

その頃の晃に残っている家族の印象は、父親や親戚の陰口をいいまくる母親、何も言わずに無関心の父親、バラバラな食事風景、そして貧困であった。もちろん、本人が食べるものに困っていた訳ではないが、母親の口癖は『お金は無い』だった。

そして、母親は晃にいつも言い聞かせていた。


『人に迷惑をかけてはいけない』


父親はというと、仕事から帰ってもすぐに自室に入り、用事がある時だけ出てくるような人だったので、晃には特に何の印象もなかった。ただ、幼少期から突出して父親や祖父の悪口ばかり聴かされてきたせいか、父親というより『男性』に良い印象を持っていなかったことは事実である。つまり、自分にとっても。

また、晃は事あるごとに他人に迷惑をかけてないか疑われた。

ある時、晃は友人と共に小学校の校長室に呼び出される出来事があった。二人とも身に覚えがないので首を傾げていたが、母親は慌てて怒鳴り始めた。

「また何かやらかしたんでしょ!はやく行って謝ってきなさい!」

しかし、二人が校長室へ行くと、小さな菓子折と共にお褒めの言葉を頂いたのだった。

どうやら二人が遊びで土建屋さんの真似事をして道を補修していたことに感心した近所の住人が小学校へ連絡したらしい。

それを聞いた母親は、

「あんたが普段から悪い事ばかりするから、こんな勘違いするの!」

と、何故か叱られてしまった。それを聞いた晃は、そのまま自分が悪かったから母親に迷惑をかけてしまったと萎縮することとなってしまった。


母親の教育方針なのか、晃には母親に褒められた記憶がない。それどころか、その当時の晃の母親に対する印象は『不機嫌』なものしか無かった。ことあるごとに愚痴をこぼし、明るい話題を笑って話すという当たり前に思える日常など皆無だった。

以前、中学校のとき、高校受験前のために猛勉強をしていた晃は、地区別実力テストにおいて総合三位に入ったことがあった。

晃はそのテスト結果を見て、これなら褒められると自信満々に帰宅した。もちろん、そんなことのために勉強していたのではないが、親に褒めてもらいたい、認めてもらいたい、そして笑って欲しいと思っていた。

しかし、その結果を見た母親は…

「そう、そんなの当たり前じゃない」

ごく当たり前という反応をみせ、それ以上の言葉はなかった。

晃は約束があるからと言って家を出た。もちろん約束などなかったが、『自分のことはどうでもいいようだ』という絶望感からその場にいる気にはなれなかったため、近所を適当に散歩していた。

もう、これ以上頑張っても一生報われる気がしない。この時晃は初めて『死にたい』と思った。



「そうだったんですか…晃さんも大変だったんですね。中学生でそんな…」

藍は自分のことのように悲しい声で晃に同調した。

「ああ。子供の頃ってそれが当たり前って思ってるけど、実際社会に出るとよく分かるんだ。『他人に迷惑をかけるな』って俺の親は言ってるけど、人が人と共存している限りそんな生き方は不可能。何を迷惑と感じるかなんて千差万別だからね。でも、子供は親の教えを盲信してしまう。だから、俺は自分の存在自体が迷惑なんだと思い始めたんだ」

藍は慌てて何か言おうとするが、すぐに飲み込んでしまった。



一度絶望するとなかなか立ち直れないもの。それが密かなものであれば尚更で、高校受験には成功した晃だったが、高校入学以来は勉強するはずもなく、成績は常に下から数えたほうが早かった。

しかし、根が真面目なこともあり、特に荒れた高校生活を送っている訳でもなかった。いや、『迷惑をかけない』ために、荒れることができなかっただけである。そんな中、高校三年生になったとき母親に『必ず四年制の大学に行きなさい』と言い渡された。

晃は困った。普通科には所属していたものの、とても今の自分の学力で行ける大学など有りはしない。もちろん、勉強をする気もなかった。途方に暮れていた晃の脳裏に一つの考えが浮かんできた。

『県外の大学にいけば、家を出ることができる』

それ以来、晃は人が変わったように勉強に打ち込んだ。部活動を引退すると、日曜日でも図書館で参考書を開き、夏休みであっても登校して出勤している先生に教えを受けた。

そして、十一月の推薦入試から志望校の試験を全て受験したが、落ち続けた。当然である。三年間の勉強を数ヶ月でマスターできるほど甘くはない。晃は万が一の可能性に賭けるしかなかった。そして、三月に開催された最後の試験結果が通知された。


『合格』


晃は生まれて初めて飛び上がって喜んだ。しかし、合格したことに対してではない。

家を出ることができるから。


大学は実家からは遠く離れており、晃はバイトと僅かな仕送りで生計を立てていた。

大学生活は大変充実しており、それほど多くはないが、生涯の友と呼べる友人も作ることができた。

しかし、少し暇ができるとあの時の思いがすぐに蘇ってくる。晃はあの時以来、1日たりともこの思いから逃れることができずにいた。


『死ねば楽になれる』


大学というのはお金のかかるもので、晃もその辺りは母親に感謝していた。卒業間近になり、就職先を検討する段階になって、本当はこのままIターン就職にしたかった晃だが、母親というスポンサーの要求である『実家の近くに就職する』に従わざるを得なかった。

タイミングのいいことに、すぐに地元の企業に内定を頂き、そのまま大学を無事卒業した。


晃は心機一転、仕事に打ち込んだ。元々、自分のしたい仕事ではなかったが、適性というのはどこにあるかわからないもので、晃の能力はいかんなく発揮されていた。

しかし、時勢はバブル経済が崩壊して数年、晃自身の成績は良かったのだが会社の業績は不振が続き、親会社によって倒産を余儀なくされてしまった。

しかし、捨てる神あれば拾う神あり。晃は程なくして別の会社に就職が決まった。元々適正があったのか興味のある分野だったため、晃はすぐに頭角を現して眼を見張る成果を上げていった。


そんなある日。倒産した会社で役員をしていた井原 剛が晃に電話をかけてきた。

「やあ、新田君。久しぶり」

この井原という人物は、その元役員という立場上、会社内ではいろいろ言われて嫌われることが多かった。しかし、晃は逆に自分の能力を認めてくれたことから、嫌いではなかった。

「珍しいですね。どうされましたか?」

話の内容は、新規で事業を立ち上げるから手伝って欲しいとのことだった。

晃は元々優しく真面目な性格であったことから、頼られると断りきれない部分があった。それを知ってか知らずか新しい会社で働いて欲しいと声をかけてきたのであった。

二つ目の会社での仕事は上々で、特に大きな不満も不安もなかったのだが、こうして頼られてしまうと断れない。晃は二つ返事で快諾してしまった。後にこれが大きな間違いであったことに気がつく。


晃は新しく開店させる店舗のスタート前からスタッフとして勤務することとなった。

会社とは言っても個人レベルのお店。自分達で利益を上げなければたちまち潰れてしまう。晃は思い付く限りの手を尽くして働いたが、実績は上がらなかった。個人営業の店では大手の様な後光もなければ誰もが知っているような名声もない。従って物を言うのは個人の人脈しかない。しかし、晃には決定的な弱点があった。


『人に迷惑をかけてはいけない』


この教えを愚直に守ろうとするあまり、晃は積極的に人と関わることができずにいた。

人に迷惑をかけない方法。『人と関わるから迷惑をかけることがあるのだから、できるだけ関わらないこと。大体無能な俺なんかと関わりたい人がいるわけない』と、信じ込んでいたためだった。加えて、幼少期から青年期にかけて母親から聞かされた数々の親戚に関するバッシング。父親に対する愚痴。それらから自らに自信を持つことはおろか、人間不信にも近い感情が潜在的に横たわっていたのである。

これに気がついた晃は、これ以上迷惑をかけられない。数字を出せない以上、ここにはいられないと思い退職を願い出た。



サイクリングロードは街中に差し掛かっていた。確かこの辺りには小さな街があったはずである。

周囲の街並みもそれに準ずるものではある。しかし、ところどころ明かりがついてはいるが、相変わらず人通りは全くない。深夜ということもあるだろうが。

「…あの、思ったんですが、晃さんって本当に優しいんですね」

藍の意外な言葉に晃は驚く。

「へ?なんで?」

自分でもどこから出たのか、妙な声を出してしまった。藍は『クスッ』と笑うと、

「だって、そんな思いを抱えていながら、言わずに結局お母さんの意向に沿って大事なことを決めてしまう。普通の人ならさっさと自分のやりたい方へ行くと思いますよ?」

晃は思わず納得してしまう。そう…なのかもしれないと。



退職を申し出ると、井原は行く所がないならと大手メーカーの工場へ口を聞いてくれた。どうやら井原自身も元々その工場の出身であり、知り合いも多くいるようだった。

晃はいくつか資格を持っていたために難なく採用され、とりあえずは期間社員で働くこととなった。

井原は晃を送る際に、

「中での現場仕事は一般技能職になるから高卒の仕事だ。でも、正社員になれば総合職になる道があるから、それを使えばいい。いいか、お前大卒なんだから、現場なんて一生する仕事じゃないぞ」

と、晃を諭していた。晃も井原を愚直に信じていたためそれに従う事にした。

大手の工場であり、仕事自体はそこまで難しくはなかった。しかし、初めての肉体労働、初めての交代勤務。その肉体的負担は想像を絶するものだった。晃は『自分が慣れればいい』と思い、日々真剣に仕事と向き合った。

晃は仕事には問題なく慣れたものの、身体はなかなか思うようにいかない。とはいえ、なんとか真面目にこなせていたある日。晃の元に正社員登用の話が舞い込んできた。しかし、晃は漠然と何か違うものを感じており、その話を断った。

(なんだろう…何かが違う。このまま正社員になる…のはダメな気がする)

晃にとって何が気に入らないのかは本人にもよく分からなかった。しかし、絶対に後悔するような気がしていた。

時は期間社員を大量に正社員化していた時期でもあり、晃は再度同じ申し出を受けたが、やはり断った。

大手で給料こそ安いものの、未払いや過度な連勤などはない。俗に言うブラックとまで言わないのだから何が不満と言うのか。晃は常に自問自答していたが、答えは全く出てこなかった。言うなら第六感としか言えないものであり、晃自身もそんな自分に苛立ちを感じていた。

そして、再々度同じく正社員の誘いが来た。晃は依然として変わらない気持ちだったが、何度も誘ってくれる作業長に、

(流石にこれ以上顔に泥を塗るのは…)

と考え、正社員登用試験受験を承諾た。そして問題なく合格したのだった。


大手企業なので、事業所も一つではない。晃が入社した会社も日本国内にいくつか事業所がある。

晃が正社員になってすぐ、別の事業所からの支援要請があった。中間年齢層が著しく不足しているので、助けてほしいとのものであり、ちょうど晃たちの年齢を募集していた。

助けてくれと言われると放って置けなくなる晃は、悩んだ挙句、転勤を決意した。

強く実家住まいを希望していた母親には『会社の業務命令』と報告し、納得させていた。

そして、新天地で心機一転と意気込む晃だった。

しかし、話と実情が違うのはどこの世界でも同じことのようだ。募集時にあった好意的な言葉とは裏腹に、現場では冷徹な視線に悩まされた。これも一時的なものだろうと、自分のペースで仕事をする晃だったが、その時には決定的な事件の幕が上がろうとしていた。



サイクリングロードは前方にアーケードが見えてきた。この辺りは道もよく整備されていて走りやすい。あたりは住宅街の中みたいで、灯りの消えた静かな住宅が続いていた。

「そうなんですか…社会人って大変なんですね。でも、私もちょっと仕事とかしてみたかったな」

藍は憧れに満ちた眼差しで晃を見る。しかし晃は、

「…そうか。でも、辛いよ?仕事って。好きな事ならいいのかもしれないけど」

晃は複雑な感情を隠そうともせず言った。元々晃は正直すぎるところがあり、感情を隠すのは下手なほうである。藍は視線を前に戻すと、

「それで、決定的な事件って何だったんですか?」

藍の問いかけに晃はゆっくりと話し始めた。



十二月のある土曜日。晃は翌週始めに昇進研修を控えていた。

十一月まで多少暑い日があったと思えば急に冷え込んでしまい、唯一露出している顔に冷たい空気が刺さる。本当はこの日の夜に所属している部署の忘年会が予定されていたが、晃は用事と重なってしまったため参加を取りやめていた。しかし、幹事が『遅れてもいいから』と言うので晃はやむなく遅れて参加することにした。

忘年会はつつがなく終わり、翌週始めの月曜日。晃が出勤すると次から次へと電話が掛かっていた。内容はほとんど同じような内容で、嘔吐下痢が止まらないため休みますとのことだった。辛うじて出勤していた社員も数名は仕事をすることもないまま医者へ行ったが、何とか必要人数は確保できていた。晃は午後から昇進研修の予定が入っていたが、仕事を始めた途端、同じような症状に襲われ始めた。

仕事を交代してもらい、トイレに行く暇もなくその場で嘔吐してしまう晃。だが、人がいないこともあり仕方なく自分で処理をするも、その上にまた嘔吐してしまう。そんなことを数回繰り返して流石に限界を感じた晃は作業長に、

「頼むから医者に行かせてくれ!」

泣いて懇願した。もう背に腹は代えられない、なりふり構っている場合じゃないことなど考える余裕もなかった。しかし、

「見れば分かるだろ!今日は人がいないんだよ。それとも、一生ヒラでいいなら帰れば?」

と、嘲笑されてしまった。

極度に追い詰められた人間は正確な判断はできないもの。晃は午後から研修、残業時間まで必死にこなして家路についた。

帰り道に掛かり付けの医者へ立ち寄って、診察時間外だったが、無理に診察をお願いした。すると医者は、

「バカ者!こんなに酷くなる前に来れただろうが!」

と、酷く怒られてしまった。しかし晃は、

「先生、明日も大事な研修があるんだ。どうしても会社に行かないと行けない」

すると医者は呆れ返った様子で、

「あのな、男には仕事が大事なのはよく分かる。でも、明日仕事にいったら…命の保証はできんぞ」

諭すようにドクターストップを掛けられてしまった。医者の真剣な眼差しに、このとき初めて事態の深刻さを感じた晃は、そのまま会社にその旨を報告して翌日は休暇となった。当然のことではあるがその年の昇進はできず、翌年の同じ研修に晃の名前はなかった。

後日、保健所に届けて調査したところ、ノロウイルスの集団食中毒であることが判明した。


せっかく訪れた事業所ではあったが、次に同じような出来事があったとしたら次も運良く回復できる保証はない。晃は即刻転属を願い出た。内容が内容だけにすぐには通らないことは晃も承知していたのだが、ようやく希望が通ったときには二年が経過していた。

晃自身、どこへ異動という希望は出しておらず、今のところから異動させてくれと伝えていた。そのためか、晃は以前の事業所の元いた職場へと戻される形になった。

(出戻り…か)

晃は良い心地はしなかった。実際は周囲にそれほど気にする者はいないだろうが、晃は出戻りであることを必要以上に気にしていた。しかし、晃は出戻りで低く評価されたくなかったので、より仕事に邁進し、復帰初年は実績トップを獲得した。

その年の成績評価は…

「新田君は勝手に出て行って勝手に帰ってきたからマイナス評価ね」

作業長は吐き捨てるように言った。しかし、晃はそれだけでは納得できない。

「でも、実績は班内トップですよ?それも考慮されないんですか?」

すると作業長は決まりが悪そうに、

「形としてあーいうことをすると評価を下げないと怒る人がいるんだよ~」

と、まるで他人事のように吐き捨てた。何度か食い下がってはみたものの、これ以上何を言っても無理だと感じた晃は静かにその場を後にした。



サイクリングロードは橋を渡って市街地へと入っていた。夜の闇に包まれているものの、街灯の灯りに照らされている街並みと相反するように辺りは静まり返っているが、今にも喧騒が聞こえてきそうである。

「そんな…あんまりじゃないですか」

藍は自分のことのように悔しさを滲ませていた。

「はは、ありがとう。でも、社会ではよくあること…なんだ」

晃は自分に言い聞かせている。しかし、表情には隠せない悔しさが現れており、藍が『クスッ』と笑う。

「晃さん、顔に書いてありますよ。悔しいって」

晃は咄嗟に表情を作ると、

「そうだね。だから俺ってダメなんだろうな」



その日から少し気落ちしたものの、晃はなんとか持ち直して再び仕事に邁進していた。

しかし、不運な事は続くもの。晃の周りでは地味な嫌がらせが頻発するようになる。出戻りであり、成績も優秀であり。妬みか嫉みかは分からないが、複数の人物から仕事上の嫌がらせを受けるようになっていた。最初は意に介さない晃であったが、あまりに執拗であり、ついには職務上の権限を利用してまでも干渉してくるようになったため、気にせざるを得なくなってしまった。その辺りから晃の体調は不安定になり、常にどこか痛いような日々が続いた。そしてまたあの思いが頻繁に蘇ってくるようになった。


『死にたい。死ねばすべて楽になれる』


そしてそんなことが半年ほど続いたある日。

晃は原因不明の激しい吐き気に襲われた。歩くことはおろか、体を動かすことも困難な状態に、仕事前ではあったがそのまま帰宅を余儀なくされた。しかも、そんなことが一週間続いた。

しかし、症状が吐き気であって、実際吐いている訳ではない。周囲の目は冷ややかで、仮病と目される事が多かった。

晃は少し休めば楽になると思い、

「ちょっとだけ休ませてくれ」

と、頼んでみた。実際に、他の作業者が腰痛などで軽作業をしている日もあることを知っていたため、少しの間だけでもそうできないかと考えたためであった。しかし、現場責任者は、

「来るのなら作業をしろ。できないのなら来るな」

と、問答無用に断られてしまった。

とは言え、流石に体のことが心配になった晃は、夜勤のため深夜ではあったが近所の総合病院に駆け込んだ。

後日、詳細な検査が行われることとなり、晃は胃カメラから全身CTまであらゆる検査を受けた。その結果、神経性の胃炎であることが判明した。

その日から晃は投薬治療をしつつ、懸命に仕事を続けた。しかし、年末年始連休前の勤務を終えた日。帰宅した晃のバッグの中にはいつの間にか『退職願』の用紙が紛れ込んでいた。



目の前に旧駅舎のような建物が見えてきた。

晃の事前調査では、ここからは旧線路に沿って道が整備されているはずである。

「そんなことが…大人になっても学生と変わらない人もいるんですね…」

藍が悲しそうに呟いた。晃はまるで他人事のように、

「直接『辞めろ』って言うとハラスメントになるから、こうやって間接的に意思を伝えるんだろうね。こんなのを見ると、学生のほうがまだ可愛いものだよ」

駅舎の中に入ると、二人は少し休憩することにした。近くの自販機にホットコーヒーがあったので、晃は二人分買って藍に手渡した。

「会社勤めってもっと大人なものかと思ってました」

藍は呆れたように言った。晃は少し笑うと、

「そうだね…そういえば、これもついこの間のことなんだけど」



「君はマイナス評価ね」

晃は会社で前年実績評価面談を受けていた。ポカンとする晃に上司は続けて、

「まず、当日休暇が多いね。もうちょっと自己管理をしっかりしないといけないよ」

晃は事実、その年の休暇が多かった。もちろん、晃も回避する努力はしていたが、いろいろと重なるとつらいものである。

(多かったのはストレス性の胃炎があったから…ちゃんと報告もしたのに…大体その原因はアンタたちじゃないか!)

晃は溢れ出る言葉を飲み込んで次の言葉を待った。

「あと、査定部門のチェックが多いね」

(…あ、あんなこじ付けのモンスタークレームを評価に入れるのか)

事実、査定部門というのは『査定』するのが仕事である。仮に、何の問題もない製品であっても、それを全て『問題なし』としていると、その存在価値が問われかねない。そのため、どうしても重箱の隅をつつくような行為をしてしまうものである。

晃は今にも爆発しそうになるのを堪えて、

「…それだけですか?」

自分でも声が震えていたのをハッキリと感じていた。

前年度に晃は実績トップの数字を叩き出していたのだが、その年の面談ではそのことには全く触れて貰えず、通常評価に留まったことがある。そのことが晃の怒りを増長させていた。しかし、そんな様子を知ってか知らずか上司は続ける。

「あと、君の関わった製品には、ウチのミスではないが、査定部門においてそれ以外のチェックが多かった。これはウチでチェックできたものだから未然に防止できたはず。直接ウチの責任ではないが、そういうケースが多過ぎる」

晃はポカンと考え込んでしまった。

(この人は何を言っている…?)

「製品はお客様のところへ行くんだから、ウチに関係のないところもキチンとチェックして…」

(ウチでチェックするところ以外も責任をかけるんだったら、何の為に分業してるんだ…)

晃は少しカマをかけてみることにした。

「でしたら、私もどういうところが抜けていたのか気になります。具体的に教えてください」

すると上司は少し目を泳がせると、

「いや、だから全体的にだね…」

「全体的な話はもう結構です。そんなに頻繁に見逃しているんだったら一つや二つはすぐに思い当たるでしょう。具体的に教えてください」

結局、上司から具体的な話は無かった。



「それって…嘘ってことですか?」

藍は悲しそうな目で晃を見ている。

「たぶんね。どの理由も評価を下げる為の言い訳にしかなってないからね」

藍は声を荒げて、

「そんな!おかしいですよ、そんなの!」

晃は藍をなだめると、

「ありがとう、俺なんかのために怒ってくれて」

晃は立ち上がるとコーヒーを飲み干した。

「会社ってそんなところなんですね…」

藍は失望したように呟く。しかし晃は、

「そうだね、でも会社によって全然違うからね。こんなに酷い所は稀じゃないかな、少なくとも俺が経験してきた他の職場にこんな酷い所は無かったし」

すると藍は首を傾げて、

「でしたら、転職すればいいんじゃないですか?」

晃はサイクリングロードの先を見つめて、

「俺はもう少しで四十、つまりアラフォーってこと。こんな人を再雇用する職場なんて今と同じような職場しかないと思う。それに、昔からサッサと死にたいと思っていたから、そのチャンスが来たってとこかな」

晃は藍を見つめると、

「今まで俺も何度も死のうとした。でも藍ちゃんのように痛いのが怖くて死ねなかったんだ。だから、楽に死ねるならそれもいいかなと思ってね」

藍は少し笑うと、

「楽に死ねるといいんですけどね。さっきみたいに痛そうなのだったら…」

「そうだね…。ま、とにかく、進んでみないと分からない」

晃はゆっくり立ち上がると、藍もそれに習い自転車に乗り込んだ。

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