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蒸発のサイクリングロード  作者: 滝 陽水
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第二章

第二章



晃はベンチに座り込んで一休みしていた。

プラットホームに駅名標があり、ここが駅だった当時の形が残っていて分かりやすい。しかし、深夜ということもあり、その形跡をじっくり観察するには暗すぎる。

(いったいこのサイクリングロードはどうなっているんだ…?さっきのような仕掛けで殺されるということなのか?)

晃はいろいろなことを考えて物思いに耽っていた。特に舞が目の前に現れたことは大きい。なぜなら晃のこれまでの人生において一番楽しかった時間の、更に最高の思い出なのだ。晃の脳裏には楽しかった記憶が鮮明に思い出されてしまった。

(舞…)

晃が思い出に浸っていると、暗闇からかすかに聞こえる足音に気が付いた。

その足音は確かにゆっくりとこちらに近づいてくる。晃は警戒しつつも暗闇を凝視していると、一人の少女が空色の自転車と共に姿を現す。

「あ・・・」

少女は少し驚いたように目を開いたが、すこし俯いてゆっくりと晃に近づいてきた。

「あの…君は?」

晃は抑えめの声で警戒心を露わにしながら問いかける。少女は目の前まで来ると立ち止まって自転車を止めた。

「よかった…無事だったんですね」

そして安堵したように座り込んだ。少女は見た目かなり若く見え、綺麗なストレートの黒髪に宿る艶がそれを際立たせている。晃よりもかなり小さめであり、座り込むと余計に小さく見える。

「…もしかして、さっき助けてくれたのは君?」

晃は先程引き戻されたことを思い出した。ここが本当に例のサイクリングロードなのだとしたら、助けてくれる人なんて、先に入っていった人物くらいしか思いつかなかった。

「はい。真っ直ぐ池に向かっていましたので…迷ったんですが…」

都築 藍と名乗った少女はまだ十七歳とのことだった。しかし、晃にはそんなことよりも気になる事があった。知り合いには聞けなくても見ず知らずの人には聞けるというのも不思議なものであるが。

「ここは…本当に『蒸発サイクリングロード』なのか?」

藍は座り込んだままで晃を見上げながら、

「違うんですか?私はそのつもりで来たんですけど…」

やはりそうらしい。まさかそんなものが実在するとは思っていなかった晃にはなかなかの衝撃だった。

「実はさ…」

晃はサイクリングロードに入ってからの出来事を話した。非日常の世界だからだろうか、見ず知らずの少女であっても普通に話ができるということに少しの嬉しさを感じていた。藍は頷きながらしっかりと話に耳を傾けていた。

中年の仲間入りをしてからというもの、晃は誰かに自分の話を聞いてもらうという行為を数か月経験してなかった。友人が家庭を持つ中、独り身の晃は話相手などいるわけもない。相手が話を聞いてくれている、その心地良さを噛みしめていた。

晃は一通り話したところで藍が自分の前に座り込んでいることに気が付いた。

「あ、ごめん。ここ座ってよ」

晃は自分の隣のプラットホームに積もっているホコリを手で払った。

「あ、ありがとうございます」

藍は微笑みながら晃の隣に腰掛けた。そして藍は晃に向き直ると、

「私も…同じようなことがありました。さっきも私が落とされかけていたんです。でも、寸前で気が付いて助かったと思っていたら晃さんが虚ろな眼付きで池の方に向かって行ったから…止めたんです」

晃は話よりも藍に魅入ってしまった。相槌を打ちながらも、

(俺も十五年若かったらイケたのかな…)

などと考えるあたり、男の悲しい性である。年の差婚などが囁かれて久しいが、現実にそんなことが自分の身に起ころうはずもないことは晃自身よくわかっている。

「…あの、晃さん?聞いてます?」

晃が我に帰ると、藍が心配そうに晃を覗き込んでいた。

「あ、ご、ごめん。でも、お互いに同じような体験をしているってことはやっぱりそうなんだね」

そう今問題なのは、本当に非現実の世界に入ってしまったということ。


『完走するとその存在を完全に消すことができる』


この謳い文句のような言葉がフラッシュバックのように思い出された。

「存在を消すってことは、死ぬってことですよね…」

視線を前方に移して虚空を見つめる藍の絞り出すような囁きに晃は、

「そうだろうね…現に危ない目にあった訳だし」

晃は元々どちらに転んでもよかったが、晃には藍が同じ考えとは思えなかった。

晃は虚空を見つめる藍に問いかける。

「藍ちゃんはなんでこのサイクリングロードに入ってきたの?いま、そのつもりって今言ってたよね?」

すると藍は俯いた。何やら思案しているようだったが、すぐに顔を上げると真っ直ぐに晃を見つめて、

「実は…」



藍はごく普通の家庭に生まれた。

『中流家庭』とでも言うべきか、会社勤めに忙しい父と専業でいつも優しい母の間で何不自由なく成長していった。

少なくとも藍の眼にはそう映っていた。何の不安もない毎日、明るく楽しい毎日。

しかし、藍が小学校へ上がったころ。藍の運命が急転し始める。

「ただいまー!」

小学校から帰った藍はすぐに母の姿を探した。いつもなら帰ってくる返事が帰ってこない。

「お母さん…?どこー?」

藍は言い知れぬ不安に駆られて母の姿を探した。そしてキッチンに入ったとき、うずくまり、苦しそうに喘ぐ母を発見した。

「…お母さん?お母さん!」

母は流し台の前で倒れていた。夕飯の仕込みだろうか、まな板の上には切りかけの食材が並んだままだった。苦しみながら母は、

「藍ちゃん…携帯…取って…」

藍はその言葉に弾かれるようにキッチンを飛び出した。そしてリビングに置きっぱなしにしてあった母の携帯電話を掴むと母の元へと駆け戻った。しかし母は既に意識を失っていた。

「お母さん!お母さん!」

しばらく揺すってみるが反応がない。泣きそうになるのを堪えながら藍は、

(私がなんとかしなきゃ…そうだ!昨日テレビでやってた!)

偶然にも前日にテレビで救急特集をやっていたのを思い出した藍は、

(確か…一一九…だったはず)


救急病院に運び込まれた母はそのまま亡くなった。

父が病院に駆け付けた時、藍は母のベッドを呆然と見つめていた。その様子から父は全てを悟り、藍を抱き締めた。

しかし、藍は依然として母のベッドから目を離さず『ただ』見つめていた。

「藍…すまない。間に合わなかったようだね」

「…」

死因は脳梗塞とのことだった。

藍は母と共に病院に運び込まれてからというもの、片時も離れようとはしなかった。涙を流すわけでもなく、ただそばに寄り添っていた。最愛の母が亡くなったという現実と上手く向き合えずにいるようだった。

数日後、お葬式が終わって家に帰るとすぐ、父は親戚を送るために外出してしまった。

家に一人残された藍は母の仏壇の前に座り、母との思い出を回想していた。

優しかった母、怖かった母、頼もしかった母…。楽しい思い出やつらい思い出、すべてが昨日のことのように思い出され、今にも母が声をかけてくれるんじゃないかとキッチンに行っては仏壇に帰ってくる。そうしているうちに、現実が襲い掛かってきて泣き崩れてしまう。やがて疲れてウトウトしているとき、藍の脳裏に不思議と一つの場面が鮮明に思い出された。


それは半年ほど前。藍が小学校に上がる準備として買い物に来ていたデパート。一通り買い回った後、隣接する公園でベンチに座ってアイスクリームを食べていた時だった。

秋から冬になろうとしている時期にしては暖かな太陽が降り注ぎ、藍は大好きなアイスクリームを買ってもらえて上機嫌。そんなときだった。母は藍に向かうと、

「藍ちゃん。来年からは藍ちゃんも小学生。ちゃんと家の手伝いもしなきゃだめだよ?」

すると藍は少し頬を膨らませて、

「えー…しなきゃダメ?」

母は少し微笑みながら、

「ダメです。あと、小学校に行ったら、女の子なんだからみんなに優しく、笑顔を忘れちゃダメ。いい?」

藍は満面の笑みで、

「うん!分かってる!」


『女の子はみんなに優しく、いつも笑顔を忘れない』


これは、いつも藍が教えられていることだった。この時も『またいつもの…』と思いながらアイスクリームを舐めていた。


「みんなに…優しく、え…がお…」

藍は仏壇に向かって必死に笑顔を作ろうとした。しかし、言い知れぬ絶望感の前に作りきれるほど大人ではない。藍は大粒の涙を流しながら泣き崩れてしまった。


しばらくすると藍は夢の中にいた。どうやら疲れてそのまま眠ってしまったようである。

夢の中で藍は、先程まで思い出していた場面の公園にいた。

「ここは…あの公園。あれは…お母さん!」

夢の中だろうと薄々感じてはいたが、藍は迷わず駆け寄る。すると母は藍の前にしゃがんで目線を合わせた。

「藍ちゃん。こんなことになってごめんね」

藍はその場で首を大きく左右に振る。悲しくて、嬉しくて。複雑な言葉にできない感情を感じながら藍は母に抱きつく。

しかし、すぐに母は藍を引き離すと正面に見据えて、

「藍ちゃん、時間がないの。よく聞いてね」

藍は大きく頷くと母の言葉に耳を傾ける。

「お母さんはもう天国に行かなくちゃいけないの。だから、これからお父さんの面倒を見てあげてね。藍ちゃんがお母さんの代わりになるの」

藍はジッと涙を堪えながら母の言葉を聞くと、大きく首を振る。これを見た母は、

「そんなことないわ。藍ちゃんならできる。お母さん、できない子には頼まないから」

そして、母は淡い光を放ち始めた。直感的に何かを悟った藍は、

「だめ!お母さん!行かないで!まだ藍一人じゃだめだよ!」

泣いて母の手に抱きつく藍。しかし、母は消えるように透けていくと、

「藍ちゃんなら大丈夫…お父さんをお願いね。藍…みんなに優しく、いつも笑顔を忘れずにね…」

そう言うと、母は完全に姿を消してしまった。


藍が気がつくと、夜が明けていた。いつの間にか仏壇の前で眠ってしまったようだった。

しかし、藍の上にはお気に入りの毛布が掛けられていた。



晃と藍は並んでサイクリングロードを走っていた。

どちらが言い出したわけでもないが、お互いに目的は似たようなもので連れが出来れば気が紛れるという思いから、自然と共に走り出したのだった。

「そう…それは辛い思いをしたんだね」

晃は月並みな言葉しか思い浮かばなかった。こういうとき、何か気の利いた言葉でも出てくれば、自分の人生はまた変わっていたのかなと自虐的に感じてしまうのも、晃の悪い癖である。

藍は『フフッ』と笑うと、

「いえ、もう終わったことですから。でも…本当に辛いのはこれからでした」



数年後、藍は小学4年生になっていた。

母が死んで以降、母の言い付け通りに藍は家事全般をこなしていた。本当は友人と遊びたかったが、家事の都合で遊べないことが多かった。しかし、誰にでも優しく笑顔を絶やさない藍はクラスでも人気があった。

それなりに楽しく、そして忙しく過ごしていたある日。父が家に一人の女性を連れてきた。

「藍。お父さんな、この人と再婚することにした」

藍は平静を装いながら、

(お父さん…だって男の人だから寂しいのかな…藍じゃ足りないっていうの…?こんな人がお母さんだなんて…)

藍は一瞬出そうになった本心を口の中で噛み潰すとぎこちなく笑いながら、

「…そうなんだ」

とだけ答えた。一瞬ではあるが周囲には明らかに不機嫌に映っていただろう自分の態度に藍は母の言葉を思い出す。

『みんなに優しく、いつも笑顔を忘れずにね』

次の瞬間、藍は満面の笑みを浮かべていた。

「よろしくお願いしますね!」


再婚した相手は藍にとっては面倒な人が増えたという印象しかなかった。

というのも、すごく綺麗で見た目はいいのだけれど、父同様に働きに出ていたので家事一切は相変わらず藍がこなしていた。よって、藍にとっては『お母さんができた』ではなく、『家事負担が増えた』だけだった。

そして父と継母は戦友のように毎日お酒を飲み、愚痴を言い合っていた。気が付くと藍はそんな二人がたまらなく嫌いになっていた。

ある日、父が出張で家を空けていた。藍は継母の夕食を用意して待っていたが、夜九時をすぎても帰宅しないので、仕方なく先に済ませて勉強をしていた。

するとに帰宅した継母は藍の部屋へ入り、

「ちょっと!あんた!つまみ作ってよ!」

どうやら深酒をしてきたようで、ものすごいお酒の匂いが部屋中に充満した。思わず藍は咽てしまう。

「なーにー?あんた、風邪?うつさないでよ?」

継母は心底迷惑そうな表情をし、追い払うような手振りをすると高笑いをしながら藍の部屋を後にした。

そして藍は深いため息をつきながら、キッチンへと向かうのであった。


そんな生活が続き、藍は疲れが溜まっているのか、授業中によく居眠りをするようになっていた。

クラスメイトは敏感なもので、皆よく声を掛けてくれた。

「藍、大丈夫?なんか最近顔色悪いよ?」

「保健室行く?」

しきりに気に掛けてくれるクラスメイトに感謝しながらも藍は、

「大丈夫、全然平気」

いつも通りを心掛けていた。しかし、日を追うにつれて口数も少なくなってしまい、それまで多くの友人に囲まれていた藍の周囲には数名のごく親しい友人しか残っていなかった。

そして小学校を卒業するころにはそれまでの快活な藍は見る影もなく、笑顔ではあるが、どこか儚い空気を纏う少女になっていた。そして卒業式には一人で帰路につく藍の姿があった。


そして藍は中学校に入った。

この頃にはすっかり大人しくなった藍だったが、愛らしい容姿に男子からの人気は低くなかった。何度か告白されたこともあったが、本人にとってはそれに答えている余裕はなかった。

家では相変わらず、いや、今までにも増して親たちの愚痴合戦は酷くなっていた。そして、家事一切は藍がするのが当然となり、藍は家政婦になったような気持ちであった。時には継母に罵倒されることもあったが、父親は躾だと言い、止めてはくれない。やがて藍の心の片隅には暗い影が宿るようになっていった。

ある日。藍が高校受験を控えて自室で勉強していると、継母が喚きながら入ってきた。

「ちょっと!あたしのベットに髪の毛が残ってるじゃないの!ちゃんと掃除したの?」

明らかな言い掛かりである。もちろん藍も分かっている。しかし、自分に経済力はないので親の機嫌を損ねては生きていけないことも十分承知していた。

それに自分のお母さんとの約束である。藍は嫌がる素振りを一切見せずに家事に勉強、全ての思いを笑顔に隠してこなしていくのだった。



サイクリングロードは大きめの歩道橋に差し掛かって、二人とも自転車を押していた。眼下に走る道には相変わらず車通りはない。

「すごいな、藍ちゃん。俺だったら一瞬で家出してそうだ」

晃は心から敬意を込めて藍を見る。藍は少し恥ずかしそうに、

「そんなことないですよ。だって誰かがやらなきゃいけないんですから。それが私だった、いや、私がやりたかっただけで…」

そう言うと藍は俯いて黙ってしまった。



藍は地元では有数の進学高校へ合格した。

高校でも藍はお母さんの言いつけを守り、誰にでも優しく、笑顔で応じた。当然のことではあるが、男子からのみならず、女子からも大きな支持を得ていき、周囲には笑顔が絶えなかった。

そんな藍も忙しい合間を縫って頻繁にメールをやり取りする相手ができた。相馬健という同じクラスの男子で、恋というほどではないが、ほぼ毎日お互いにたわいもないことを話す。藍にとっては心が休まる瞬間であった。


『相馬君、この前のテストどうだった?』

『全然だよ。いいなぁ藍ちゃんは。またトップじゃん』

『今度教えてあげよっか?代わりに他の教科教えてよ』

『俺が何を藍ちゃんに教えるって?全部教えてもらわないといけないものしかないじゃん』

『じゃ、教えてあげるから、今度パフェおごってね』


しかし、この頃には継母の行動は更にエスカレートしていった。

どうも継母は仕事がうまく行ってないのに加え、父との関係も不安定なものとなっているようだった。

それまで、必ず自宅で夕飯を取っていた父であったが、藍が高校に入るころになると出張の回数が格段に増えており、『出張』と言ってはいるが、継母も藍も言い訳であることは疑う余地もなく確信していた。浮気をしていたのか、単に帰ってくるのが嫌だったのか、詳しくは藍にも分からなかった。なぜなら藍もこの頃には父との会話はほとんど無くなっていたのだから。

そんな微妙な関係が続いている中、ある日曜日。藍は継母に、

「ちょっと藍ちゃん。申し訳ないんだけど、この書類、大至急書留で送ってきてくれない?私別の書類やってて手が離せなくってさ」

その頃にしては珍しく優しい口調で頼まれたため、買い物のついでにと藍は快諾した。

しかし、日曜にやっている郵便局だと数キロ離れた大きな郵便局しかない。しかも窓口は休日用なので、非常に混雑していた。藍は時間を気にしようとポケットを探るが…。

(あーしまった!急いでて携帯忘れてきちゃった!もう…)

昼過ぎに出て藍が帰宅するころにはもう日が暮れかかっていた。連絡できなかったことを怒られるかなと思いながら自宅に帰ると、藍は玄関口に見慣れない靴があるのを見つけた。

(あれ?お客さん?)

とりあえず荷物をキッチンに置き、継母へ書留の控えを渡そうと部屋へ行くも姿がない。

(どこだろう…靴はあったと思うけど…それに知らない靴もあったし…)

一通り一階を探したがお客はおろか、継母の姿も見えなかった。

仕方ないので、買った食材などをしまった後で自室に戻ろうと二階に上がろうとしたとき。二階から物音が聞こえてきた。

(…?何?まさか私の部屋?勝手に使ってるの…?)

いくら同じ屋根の下に暮らしているとはいえ、勝手に接客用にされても困るというもの。藍は自室の扉を少しだけ開けてみた。

しかし、そこには継母と相馬健が全裸で抱き合っていた。藍のベッドの上で。

お互いに数秒間は硬直していたがやがて、

「失礼しました。ごゆっくりどうぞ」

藍は笑顔で扉を閉めた。

(夕飯の支度しなくちゃ…)

キッチンで夕飯の支度をする藍の脳裏には先程の光景がこびり付いて離れなかった。彼氏ではないものの、好意を寄せつつあった相手と継母の情事を目の当たりにして、冷静でいられるほど人生経験豊富ではない。しかし思考は停止していても、いつものルーティンワークのように身体が自然と夕飯の支度をしてしまう。

(四人分…作った方がいいのかな…)

取り敢えずは夕飯の支度が整ったところで相馬が降りてきた。

「あ…藍ちゃん…あの、これは…」

慌てて弁明しようとする相馬の言葉を遮って藍は、

「夕飯…よかったら食べていってね」

そう言って笑顔を作るとそのまま家を後にした。溢れる涙を堪えながら。


藍は何も考えられずにただ歩いていた。しばらくすると、いつの間にかお母さんのお墓の前に立っていた。

「お母さん…」

溢れ出る涙を流したまま、笑顔でお墓の前に座っている。しかし、その笑顔も完全に崩壊していた。

「そっちに行きたいよ…もう笑うの、疲れたよ…」


『みんなに優しく、いつも笑顔を忘れずに』


皮肉にも母の教えが藍を苦しめていた。

母が他界して以来、誰にも頼ることもできず、ただ愚直に母の教えを守ってきた。

どんなに苦しくても、辛くても、優しく笑顔で。そうやって藍は他人を優先し、自らの感情を押し殺して生きてきた。

藍は生まれて初めて『死』を意識した。

物心ついてから今まで、藍は自分のために何かをすることはなく、他人のためにばかり自分を犠牲にする毎日だった。

(死んでしまえば何も考えなくていいよね…楽になれるよね…お母さん)

藍は自宅から持ってきていたハサミを手首に当てるとそのまま力を込めた。

「…痛っ」

少し血が出た程度ではあるが、激しい痛みが藍を襲う。

(痛い…こんなんじゃ自殺もできない。なんて私って弱いの…)

藍は痛みが怖くて自殺もできない自分に嫌気がした。あと一歩で楽になれるのに、少しの痛みを我慢するだけなのに、怖い。

(私は…どうすればいいの?)

そんなとき、藍の脳裏に少し前に読んだ雑誌の記事が浮かんだ。


『蒸発サイクリングロード』


藍はそのまま自宅に帰ると、屋内には入らず自分の自転車に乗り込むと、すっかり暗くなってしまった街へとペダルを漕ぎだした。



二人は自動販売機の缶コーヒーで暖まりながら休憩を取っていた。

藍の話を聞いた晃は、その内容に言葉が出てこなかった。藍は俯いたまま、

「もう、今日で終わりにしたいから、初めて私以外の人に暴露しちゃいました」

と、悪戯っぽく笑って見せた。藍の精一杯の気遣いである。

晃はもうどうしていいか分からずに藍を抱き寄せた。一瞬戸惑った藍だったが、すぐに晃に従うように身を委ねた。

「つらかったんだね…もう頑張らなくていいと思うよ」

月並みな言葉しか思いつかない自分に腹が立つ晃だった。

その言葉を聞いた藍は、しばらく嗚咽を漏らしていたが、やがて晃にしがみついて泣きじゃくった。

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