第10話 地下水脈の主
飛沫を上げて岩場へ這い上がってきた『翡翠大甲蟹』は、小型の馬ほどもある巨体だった。
青白く滑らかな甲殻はまるで研磨された翡翠そのもので、両腕の巨大なハサミが激流の水煙を浴びて鈍く光っている。激流を泳ぎ切り、硬い岩盤を削り取るそのハサミに挟まれれば、人間の胴体など一溜まりもなく真っ二つにされるだろう。
「レオン、下がりな! あいつの甲殻は並の剣じゃ刃が立たん!」
シェラが緑のケープを素早く脱ぎ捨て、腰の長剣を静かに抜き放つ。
翡翠大甲蟹は威嚇するように巨大なハサミをガチガチと打ち鳴らし、巨体に似合わぬ滑らかな速度で岩場を横滑りしながら突進してきた。
ギィンッ、と耳を刺す金属音が暗いドーム状の空洞に響き渡る。
シェラが交差させたハサミの突進を剣の腹で危うく受け流すが、あまりの重量感に濡れた岩場へ足跡が深く刻み込まれた。間髪いれずに繰り出される左ハサミの薙ぎ払い。シェラは間一髪で後ろへ跳び退いたが、巻き起こった風圧だけでケープの端が切り裂かれた。
「硬い上に動きが速い……! 表面の甲殻が滑らかすぎて、剣先が滑る」
シェラの額に汗が滲む。正面からの打ち合いでは、相手の質量と滑らかな甲殻にすべての衝撃を逃がされてしまう。
翡翠大甲蟹はハサミを大きく広げ、巨体を揺らしながら再びシェラへ狙いを定めた。ハサミの可動部が軋む音が響く。
「シェラ、正面から打つな! あいつはハサミを振る直前、右の軸足に重心を乗せて踏み込んでいる!」
後方で巨蟹の動きをじっと凝視していたレオンが声を張った。
厨房で無数の甲殻類を捌いてきたプロの視点だ。どれほど強固な鎧をまとった生物であれ、関節を動かし、巨体を駆動させるための筋肉の連動と重心の移動は隠せない。
「ハサミを振る瞬間に、右の第二関節の隙間が開く! あそこなら刃が届くぞ!」
「了解だ!」
レオンの言葉を信頼し、シェラは逃げずに前へ踏み込んだ。
巨蟹がハサミを引き絞り、解き放とうとしたその瞬間、レオンは足元にあった拳大の岩を拾い上げ、巨蟹の右軸足の膝関節へ向けて全力で投げつけた。
ガツンッと岩が当たり、巨蟹の重心が一瞬だけわずかにブレる。
ハサミの振るいが空を切り、右下の甲殻がズレて白い軟組織が露出した。
「そこだ、シェラ!」
「もらった……!」
シェラが濡れた岩を強く蹴り上げ、視認できないほどの鋭い刺突をくり出した。
ザクッ、と硬い肉を穿つ手応えのある音が響く。
ハサミの靭帯を正確に断ち切られた巨蟹が、苦悶の声を上げて右腕を力無く垂らした。支えを失い、大きく体勢を崩した瞬間を、シェラは見逃さない。
残る左ハサミの振るいを紙一重でかわしながら、一気に巨蟹の懐へと踏み込む。
柄を両手で固く握り直し、甲殻と胴体の境目、首元にあたる関節の隙間へと、全身の体重を乗せた刃を斜め下から一気に突き立てた。
刃が奥深くまで吸い込まれ、巨蟹の巨体が大きく震えた後、ドスンと重い音を立てて岩場へ倒れ伏した。
周囲を包むのは、激流の水音と、二人の荒い息遣いだけだった。




