第9話 地下大水脈
『アルティザン号』の船倉にある大型保冷陣は、エレナの手によって完璧な状態に調整されていた。
保冷箱という道具自体、まだ王国(本国)の一部で普及し始めたばかりの代物だ。この南国の港町サン・ロザリアでは、保冷箱など滅多にお目にかかれない高価な品であり、庶民や一般の漁師には遠い世界の存在だった。
ましてや、船の魔力炉から直接エネルギーを引き込むこの大型保冷陣は、破格の代物と言っていい。獲れたての食材が一瞬で適切な温度まで冷却され、鮮度と旨味が完璧に閉じ込められる。
「よし、冷気陣の出力はバッチリよ。どんな大型の獲物を持ち帰ってきても、一瞬で締めて保管できるわ」
胸を張るエレナの言葉に、レオンは頼もしそうに頷いた。
昨夜仕込んだ魚醤とハーブのポワレは全員に大好評だったが、レオンの職人としての欲求は、そこで留まることはなかった。
「あの濃厚な魚醤と爽やかなハーブソース……美味かったが、肉の脂に少しソースが負けている気もしたな。もっと激流で身が締まった魚介か、上質な脂を持つ獲物なら、あの旨味を極限まで受け止められるはずだ」
甲板で地図を広げていたレオンの呟きに、隣で長剣の手入れをしていたシェラが反応した。
「身の締まった魚介か。……なら、『巨樹の迷宮』の最深部にある『地下大水脈』だな」
「地下大水脈?」
「ああ。巨樹の根元を貫く巨大な地下川らしい。水流が凄まじく、そこに潜む水棲魔獣は並の刃が通らないほど身が引き締まっている。……特に『翡翠大甲蟹』の肉質は格別だと聞いたよ」
バルトも身を乗り出し、太い指で地図の最下層を指し示した。
「普通の冒険者が仕留めても、保冷箱もねえこの街じゃ、港まで運ぶ間にあっという間に腐っちまうから素材以外、誰も手を出さねえんだとよ。……だが、俺たちの船の冷気陣と、お前さんの腕があれば持ち帰れるぜ」
持ち帰る手段が存在しないからこそ、手付かずのまま眠る極上の食材。
レオンの胸に、料理人としての静かな情熱が灯った。
「決まりだな。シェラ、付き合ってくれるか」
「勿論だ。どこへでも同行する」
* * *
翌朝。レオンとシェラは再び『巨樹の迷宮』へと足を踏み入れた。
先日訪れた香木鶏の群生地を通り抜け、薄暗い樹洞の斜面をどこまでも下っていく。
階層を降りるにつれ、樹木特有の甘い香りは薄れ、代わりに強烈な湿気と、冷たい水気が肌を刺すようになってきた。遠くから、ゴォーッという地鳴りのような重低音が響いてくる。
「音が大きくなってきたな……」
「地下大水脈の激流だ。足元が濡れて滑りやすくなっている、気をつけろ」
絡み合う巨大な木の根を足場に滑り降りると、突如として視界が開けた。
そこは、巨樹の根が天井を覆う巨大なドーム状の空洞だった。
中央を貫くのは、青白く光る巨大な地下河川。激しい飛沫を上げながら濁流が駆け抜け、冷たい水煙が立ち込めている。
「ここが地下大水脈か……」
レオンが息をのむと同時に、水面が大きく盛り上がり、激しい水柱が上がった。
飛沫の向こうから、青光りする強靭な甲殻を持った巨大な影が、岩場へと買い上がってくる。
激流を泳ぎ抜くために鍛え上げられた、巨樹の主、『翡翠大甲蟹』だった。




