第8話 海の恵み
ずっしりと重い黒土壺を抱えて『アルティザン号』の甲板に戻ると、資材の整理をしていたバルトが真っ先に気づいて寄ってきた。
「おう、お帰り! 随分とでかい壺を持ち帰ってきたじゃねえか。中身は酒か?」
「いや、黒海市場で見つけた熟成魚醤だ。港で仕入れた新鮮な海鮮と合わせて、今夜の夕食に使う」
レオンが壺の木蓋をわずかにずらすと、潮の匂いと強烈な発酵臭が甲板へ漏れ出した。側にいたエレナが思わず鼻をキュッとつまんで後ずさりする。
「うわっ……! なにこれ、すっごい匂い! レオン、本当にそれ食べるの!?」
「まあ待て。生だと癖が強いが、火を通せば劇的に化ける。魚介のタンパク質が分解されてできた、極上のアミノ酸の塊だからな」
レオンは苦笑しながら壺の蓋をしっかり閉め直し、そのまま船倉の厨房へ向かった。
* * *
調理台の上に並べたのは、港の市場で買い込んできた白身魚の切り身と、大ぶりの手長エビに似た甲殻類。そして、昨日迷宮で採集した『シトラス・モス』と『原種・焔果実』、そして件の魚醤だ。
(揮発性のアミン臭は熱に弱い。小鍋でじっくり加熱して臭み成分だけを飛ばせば、純粋な濃縮旨味だけが残る……)
レオンは小さな手鍋に魚醤を少量注ぎ、ごく弱火にかけた。
ふつふつと小さな泡が立ち始めると、最初は鼻を刺すようだった独特の発酵臭が、熱とともに一気に角が取れていく。代わりに立ち上ってきたのは、まるで香ばしい焼き甲殻類やアンチョビを煮詰めたような、奥深い芳醇な香りだった。
「……不思議だな。あんなに鼻につく匂いだったのに、火を通しただけで急に旨そうな香りに変わった」
いつの間にか厨房の入口に立っていたシェラが、感心したように鼻を鳴らす。
「これが加熱による匂い成分の発散だ。ここへ、刻んだシトラス・モスの爽やかな酸味と、焔果実のピリッとした辛みを加える」
香ばしく熱した魚醤ソースにハーブとスパイスを投入し、仕上げに少量の柑橘果汁とオイルを加えて乳化させる。
別鍋では、白身魚の表面をカリッと香ばしく焼き上げ、海老は殻ごとサッと湯通しして甘みを引き出した。器に盛り付けた魚介の上から、黄金色に輝く特製魚醤ハーブソースを回しかける。
* * *
「うーん……匂いはすごく香ばしくて美味しそうだけど、さっきの壺の件があるからドキドキするわね……」
テーブルに並んだ『白身魚と手長海老の温製ポワレ〜熟成魚醤とフレッシュハーブ仕立て〜』を前に、エレナがおそるおそるフォークを伸ばした。
ふんわりとした白身魚を一口含んだ瞬間、エレナの目が丸くなった。
「……っ!? なにこれ……! 全然生臭くないどころか、噛むたびに溢れてくる旨味がすごすぎる……!」
「な、なんだこの深みは!? 塩味だけじゃねえ、舌の奥にズッシリ残る濃厚なコクがあるぞ! 酒がいくらあっても足りねえ!」
バルトが豪快に手長海老を口へ放り込み、驚愕の声を上げる。
シェラも静かにナイフを進め、魚の切り身を口に運んだ。皮目のサクサクとした香ばしさに続き、ハーブの清涼感と、魚醤がもたらす重厚な旨味が口内で見事に調和していく。
「……あの怪しげな壺から、これほど上品で深い味わいが生まれるとはな。……ただ辛いだけ、塩辛いだけの料理とはまるで次元が違う」
「癖のある調味料も、科学的な理屈を知っていれば最高の武器になる。これが『時間の力』を借りた旨味の力だ」
レオンが静かに微笑むと、甲板には再び賑やかな歓声と、皿を突く心地よい音が響き渡った。サン・ロザリアの熱帯夜に、未知の発酵文化と現代の調理が織りなす極上の宴が続いていく。




