第6話 サン・ロザリアの噂
『アルティザン号』で香木鶏のポワレを堪能した翌朝。
レオンは潮風が吹き抜ける甲板で包丁の手入れを終えると、食材の補給と市場調査のためにサン・ロザリアの街へ向かう準備を整えていた。
「レオン、私も行く。……昨日の肉の余韻がまだ残っていてな。街の食材にもう少し興味が出てきた」
緑のケープを羽織ったシェラが、当然のように腰の長剣を確かめながら並んで歩き出す。
「助かるよ。あのソースに使った原種のハーブやスパイスが、市場で流通しているのか確かめておきたかったんだ」
日差しが強くなり始めた港の石畳を抜け、活気にあふれる大通りへと入っていく。色鮮やかな果物や見たこともない乾物が並ぶ中、先日立ち寄ったあの串焼き屋の前に差し掛かった。
店主の男は相変わらず激しい煙を上げながら走竜鳥の肉を焼いていたが、レオンたちの姿を認めるなり、焼き網のトングを握ったまま目を見開いた。
「おいおい! 昨日のあんたらだろ! ちょっと寄っていけよ!」
威勢のいい声に呼び止められ、レオンとシェラが足を止める。店主は手元の肉を皿へ上げると、身を乗り出すように話しかけてきた。
「噂になってるぞ、港の荷揚げ連中の間でな。『巨樹の迷宮』から持ち帰った鳥肉を、船の上でとんでもねえ良い匂いに化けさせた料理人がいるってな。あんな爽やかな香りと脂の匂い、港街じゃ誰も嗅いだことがねえ」
「港の風は通りやすいからな。匂いが届いていただけだろう」
レオンが苦笑すると、店主は真顔になり、腕を組んで焼き網の煙越しにレオンを凝視した。
「謙遜すんなって。この街の肉はよ、強い直火で表面を焼き固めて、ドロッとした辛いタレで臭みを叩き潰すのが当たり前だ。暑さで傷みやすいし、臭みも強いからな。……だけど噂じゃ、あんたの作った肉は、切り口がほんのり桃色で、信じられないくらい柔らかかったって話じゃねえか」
「温度管理と下処理の差だよ。直火で強く煽りすぎると、肉の水分が全部飛んでタンパク質が縮こまってしまう。あらかじめ酸やハーブで身をほぐし、弱火で脂を落としながら、残熱でじっくり火を通せば、この街の肉だって格段に柔らかく仕上がる」
レオンが科学的な理屈を噛み砕いて説明すると、店主は口を半開きにしたまま感心したように頷いた。
「……火を止めて余熱で通す、だぁ? そんな焼き方、考えたこともねえよ。焦がして殺菌するのが手っ取り早いと思ってたが……なるほどな。あんた、ただの冒険者じゃねえな。筋金入りの職人だ」
「レオンの料理は、理屈を聞くより食うのが一番早い。あんな串焼きとは比べものにならんぞ」
シェラが横から淡々と言い放つと、店主は「へいへい、降参だよ」と苦笑いを浮かべた。
「ところで親方。この街で、魚や果実をじっくり寝かせた『発酵調味料』を扱っている場所はないか? 塩漬けや壺漬けで、強い旨味が出ているような奴だ」
「発酵調味料……? ああ、腐らせギリギリの癖のある調味料のことか。なら、西の裏通りにある『黒海市場』に行ってみな。あそこは南方諸島から流れてきた怪しい乾物や、珍しい壺漬けが山ほど並んでる。ただ……あそこはカタギじゃない奴も出入りしてるから、スリと揉め事には気をつけろよ」
「ありがとう、助かったよ」
店主にお礼を言い、二人は教えられた西の裏通りへと足を向けた。
* * *
賑やかな表通りの熱気が遠ざかり、湿った影が落とされる細い路地へと入っていく。
頭上を覆う建物の隙間からわずかに差し込む光の中に、潮の匂いと、果実が熟れ切ったような甘酸っぱい匂い、そして濃厚な魚介の発酵臭が混ざり合った独特の風が吹き抜けていた。
「……くせのある匂いだな。王国では嗅いだことがない」
シェラがケープの襟を軽く引き上げ、警戒を怠らない眼光で周囲を見渡す。
「魚や貝のタンパク質が分解されて、アミノ酸……つまり強い旨味に変わっている匂いだ。フレンチでいうアンチョビや、東洋のナンプラーのようなものだろう」
「アンチョビ……ナンプラー?」
「生のままじゃ腐ってしまう食材を、塩と時間の力で最高の調味料に変える知恵だ。この暑い街だからこそ、とてつもない旨味の原石が眠っているかもしれない」
怪しげな露店がひしめき、壺や木箱が乱雑に積み上げられた『黒海市場』の入口で、レオンは胸の昂ぶりを覚えながら足を踏み入れた。
未知の発酵文化との出会いが、すぐそこに迫っていた。




