第2話 巨蟹のビスク
大王鎧蟹の巨体が鎮座する甲板で、レオンはすぐさま調理の準備に取りかかった。
甲殻類の身は、命を落とした瞬間から急速に自己分解(酵素による劣化)が始まる。外洋の強い日光と塩風に晒されたまま放置すれば、繊細な甘みと弾力は一瞬で損なわれてしまうのだ。
「エレナ、保冷船倉から作業用のアイスブロックと、大型の魔導加熱鍋を甲板へ引き上げてくれ。バルト、蟹のハサミと胴体を関節ごとに解体するぞ」
「おうよ! 任せときな!」
バルトが手慣れた手つきで太い鎖とフックを引っ掛け、関節の隙間に大型の肉切り包丁を打ち込んでいく。
その隣で、レオンは解体されたハサミの肉に素早く出刃を入れ、身の状態を確認した。
(筋肉の繊維が太く引き締まっている。だが、水分量が多く、熱の入れ方を間違えると水分と一緒に旨味が抜け落ちて身がパサつく……。解体直後の氷締めと、低温での優しい加熱が必要だな)
レオンは氷水の中に解体したての太い身を浸し、急速に組織を引き締めさせた。
「シェラ、手伝ってくれ。その甲殻の殻を小さく叩き割る」
「殻を……? 身じゃなくて、この硬い甲殻を使うのか?」
大剣の柄で殻を粉砕しながら、シェラが微かに首をかしげる。
「そうだ。甲殻類の本当の旨味と芳醇な香りは、肉よりもむしろ『殻のキチン質』と『頭部の蟹味噌』に凝縮されている。これを香ばしく炒め上げ、極上のスープを引く」
* * *
甲板に設営された大型の魔導コンロへ、巨大な鍋が設置される。
熱した鍋にたっぷりのオリーブオイルを注ぎ、細かく砕いた大王鎧蟹の殻を豪快に投入した。
ガツンッ、と殻が熱せられる激しい音が響き、数秒後、甲板全体へ、香ばしい甲殻類の焼ける甘い香気が爆発的に広がった。
「うわ……ッ!? なんだこの凄まじい匂いは……!?」
操舵輪を握っていたバルトが、思わず鼻をひくつかせる。
レオンは手を休めない。殻が鮮やかな朱色に変わった絶妙のタイミングで、乾燥香味野菜と発酵醤油、そして熟成された白ワインを回し入れた。蒸発するアルコールとともに磯の臭みが一瞬で吹き飛び、高貴な芳香へと変化する。
そこへ注ぎ込まれるのは、船倉に保管されていたコンソメスープと、濃厚な大王鎧蟹の『蟹味噌』だ。
グツグツとじっくり煮込まれたスープは、裏漉し器を通して丁寧に殻が取り除かれ、滑らかなドロッとした深紅の液体、フレンチの至高の技法である『ビスク』へと姿を変えた。
「仕上げだ」
仕上げにフレッシュなクリームと柑橘の皮のすりおろしを少量。
一方で、氷締めにしていたハサミの引き締まった身は、沸騰直前のビスクのスープの中にくぐらせ、余熱でしっとりと『レア調理』に仕上げられた。
* * *
大皿に盛られたのは、濃密な深紅のビスクスープ。その中央に、美しい純白のハサミ肉が鎮座し、極上の描線を描いている。
「『大王鎧蟹の濃厚ビスク・ポワレ添え』だ。出来立てを食ってくれ」
スープ皿を受け取ったシェラは、立ち上る香気に静かに息をのんだ。
スプーンでスープをすくい、一口、口の中へ含んだ。
次の瞬間。
「っ……!!」
シェラの背筋がピんと伸び、手が止まった。
口いっぱいに広がったのは、今まで食べたどんなスープとも比較にならない、濃密で暴力的とも言える甲殻類の旨味とコク。味噌のコクと醤油の発酵香が絶妙に調和し、柑橘の微かな酸味が後味をどこまでも上品にまとめ上げている。
続いて、スープを絡めたハサミの肉を口に運ぶ。
しっとりと吸い付くような生の甘みと、加熱によって増したプリプリの弾力。噛み締めるたびに、海の恵みが溢れ出してきた。
「どうだ、シェラ」
レオンの問いかけに、シェラは深く余韻を味わうように目を閉じ、静かに吐息を漏らした。
「……あんな化け物の殻から、こんな高貴で深い味が取れるなんてな。……あんたの料理は、私の想像をどこまでも超えていく」
目元に確かな満足感と熱を宿らせ、シェラはスプーンを止めることなくスープをかき込んだ。
「これなら……どんな危険な海域だろうが、いくらでも魔物を狩ってやる」
船上に広がる歓声と、極上の香気。
『アルティザン号』は、未知なる美食が待つ大海原を、力強く突き進んでいくのだった。




