第1話 外洋の航跡
王国を旅立って数日。
超大型魔導保冷船『アルティザン号』は、王国の領海を遠く離れ、紺碧の外洋を滑るように進んでいた。
どこまでも続く水平線と、肌を刺す潮風。甲板に立つシェラの表情には、一切の緩みがなかった。使い込まれた深い緑のケープをなびかせ、背の大剣の柄にそっと手を置いたまま、鋭い眼光で波間を睨み続けている。
「シェラ、冷たいクラフトコーラだ。少し休んだらどうだ」
船内から出てきたレオンが、結露したグラスを差し出す。
シェラは視線を海に向けたままそれを受け取ると、一気に喉へと流し込んだ。炭酸の激しい刺激とシロップの甘みが広がると、微かに目元を緩めたが、声のトーンはどこまでも静かだった。
「気を抜くなよレオン。ここから先は王国の衛兵も届かない、外洋の魔獣海域だ」
「頼もしいな。依頼した以上の警戒ぶりだ」
「当たり前だ」
シェラは空になったグラスをレオンへ返し、淡々と言い放つ。
「私はあんたの料理に惚れ込んで、この船に乗った。あんたに死なれたら、あの至高の料理が二度と食えなくなる。……私が命を懸けてあんたを守る理由はただ一つ、この世で一番うまい飯を食い続けるためだ」
その瞳には、一切の迷いもなかった。
シェラにとって「美味いものを食う」ということは、単なる欲望ではない。過酷なダンジョンや死線を潜り抜けてきた一匹狼の冒険者として、己の命を張るに値する絶対の生存目的だった。だからこそ、その目的を叶えてくれるレオンの身の安全と料理の品質に対して、一切の妥協を許さない。
「そのために必要な獲物なら、どんな魔獣だろうが叩き斬って調達してやる」
「……頼んだ甲斐があるな」
レオンが不敵に口元を緩めた、その直後だった。
ズシンッ!!
船底を突き上げるような、重く巨大な衝撃が走った。
* * *
「来たか」
シェラが即座に背の大剣を引き抜く。
海面が激しく渦を巻き、青黒い岩石のような甲殻に覆われた巨大なハサミが姿を現した。外洋の深層に生息する甲殻魔獣、『大王鎧蟹』だ。船体をまるごと噛み砕こうと、太い脚が甲板へ伸ばされる。
「バルト、舵を固定しろ! エレナは船倉の保冷陣の稼働を確認!」
シェラは短く指示を飛ばすと、甲板の縁を力強く蹴り上げた。
バァンッ!と音を立てて振り下ろされた巨大なハサミを、紙一重の踏み込みでかわす。空を切ったハサミが甲板の真横を通過した瞬間、シェラは大剣を逆手に持ち替え、鎧蟹の関節のわずかな隙間へ垂直に刃を叩き込んだ。
凄まじい斬撃音が響き、甲殻の隙間から青い返り血が吹き出す。
苦悶に狂った巨蟹が海中へ沈みかけようとした瞬間、シェラは大剣の柄に仕込まれたワイヤー付きフックを打ち込み、全身の筋力を叩き込んで甲板へと引き揚げた。
ドサッ……!!
石畳のような甲板の上に転がされた巨蟹は、すでに息の根を止められていた。
「ふう……」
シェラは大剣に付着した血を素早く拭い、手慣れた所作で鞘へ収めると、レオンに向かって淡々と顎をしゃくった。
「仕留めたぞ、シェフ。こいつのハサミの肉は極上に引き締まっていて、甲殻の裏には濃厚な蟹味噌が詰まっているはずだ。……どう料理する?」
クールな態度の奥に宿る、プロとしての確かな手応えと、「最高の食材をどう仕上げてくれるのか」という静かな期待。
レオンは出刃包丁を握り直すと、巨蟹の関節へと鋭い視線を走らせた。
「上出来だ、シェラ。……外洋の一発目だ、最高の甲殻料理を見せてやる」
未知の海での最初の狩りと、新たな食探求の仕込みが始まった。




