第85話 氷海竜の角煮
『アルティザン号』の広大な甲板に、特設された巨大な調理台と、エレナ特製の巨大圧力魔導鍋が据えつけられた。
集まったのは、船の完成を祝うバルトやマルニ、冒険者ヴォルフたち、そして港の職人たちだ。全員が「あの硬い魔獣の肉をどう食う気だ?」と興味津々で取り囲んでいる。
「よし、捌くぞ」
レオンが手に取ったのは、通常の包丁ではなく、鍛冶師に特注した厚身の大型出刃だった。
氷海竜の肉は、青白いウロコの下に驚くほど分厚い筋膜が張り巡らされている。レオンは包丁の背に手を添え、関節と筋膜の隙間へ正確に刃を叩き込んでいった。
ズバッ、ズバッと、手際よく手のひら大の角切りにカットされていく肉塊。
「ルカ、柑橘の果汁と南国果実の絞り汁だ。肉の表しっかり揉み込め」
「はい! タンパク質分解酵素で、硬い筋肉をあらかじめほぐすんですね!」
「そうだ。そして焦げ目を軽くつけたら、鍋に叩き込む」
表面を香ばしく焼き固めた肉塊を、巨大な圧力魔導鍋へ投入する。そこへ注がれるのは、熟成醤油、柑橘酒、たっぷりのお砂糖、生姜、そしてあの激辛スパイス『焔果実』の粉末だ。
重厚な真鍮の蓋が閉じられ、エレナが魔導回路のレバーを強く引き下ろした。
シューーーッ……!!
高圧の蒸気が激しい音を立てて吹き出し、鍋全体が唸りを上げる。
「加圧二十分。通常の煮込みなら丸一日かかるコラーゲンのゼラチン化を、この気圧と熱で一気に強制進行させる」
レオンが静かに時計の針を見つめる間、甲板には徐々に、醤油の香ばしい発酵香と、柑橘の甘酸っぱさ、そして焔果実のピリッと鼻を刺す香気が立ち込め始めた。
「う、うわ……なんだこの匂い……! 腹が鳴って死にそうだぞ……!」
ヴォルフが喉を鳴らし、生唾を飲み込む。
* * *
「時間だ。圧を抜け」
カチリ、とレバーが戻され、白い蒸気が爆発するように夜空へ吹き上がった。
蓋が開けられた瞬間、甲板の全員が息をのんだ。
そこにあったのは、先ほどまでの硬く青白かった肉塊ではない。艶やかな飴色のタレを纏い、ぷるぷると震える至高の『氷海竜の角煮』だった。
大皿に盛り付けられた煮込みが、グレンたちのもとへ運ばれる。
「喰っていいのか……!? あのゴムみたいな竜の肉が、箸で崩れそうだぞ……!?」
グレンが巨大な肉塊を口の中へ放り込んだ。
次の瞬間――。
「っ~〜〜〜〜ッ!!」
ヴォルフの目がカッと見開かれた。
「や、柔らかい……ッ!! 歯がいらないぞこれ!! トロトロの脂と旨味が口の中で爆発して……そのあとにピリッとくる辛さと甘みが、脳みそを殴ってくる……!!」
「どれ、私にも……! ……んんっ!? 美味しいわ……! 筋っぽさが完全に消えて、コラーゲンが濃密なスープみたいに溶けていく……!」
マルニも目を輝かせ、夢中でフォークを動かす。
「ワイン……いや、冷えたコーラを持ってこい!! この甘辛い肉に合いすぎるだろ!!」
歓声と拍手が甲板全体を包み込んだ。
極寒の海で鍛えられた魔獣の肉が、現代の科学的調理ロジックと魔法技術の融合によって、誰も食べたことのない極上の料理へと生まれ変わった瞬間だった。
遠くの水平線を見つめるレオンの傍らで、ルカが静かに、だが力強く笑った。
「シェフ……準備は完璧ですね。いつでも、世界へ行ってきてください」
「ああ。……だが、最後の出航の前に、王都の店で全員にこれを食わせてからだ」
冷たい海風が、レオンの白衣を優しく揺らした。
旅立ちのときは、もうすぐそこまで迫っていた。




